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canon7
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もうすぐ夏休みに入るとあって、今週から午前授業となっている。
コンテストで良い成績を残したいと思うなら、空いた時間はひたすら練習あるのみだ。
午前の授業が終わり、午後一から予約を入れてあった練習室に向かう廊下の途中、“それ”はいた。
いや、“その人”はいた。
嬉しそうな笑顔。…と言っても見えるのは口元だけ。
その口端が吊り上って弧を描いている唇を見れば、笑っているのはわかる。
「こんにちは」
「こんにちは」
同じ言葉でも、俺とはアクセントが違う。
最近何故かおかしなくらいに会う事が多い柳聖人先輩。通称“柳星人”
今日も今日とて、1人で廊下をフラフラと歩いている。
どこに行くんですか? と聞いたら、何の事? とか返ってきそうでとても聞けない。
二の句が告げなくなって固まる自分が想像つくだけに、気軽に話しかける事も出来ない。
この前都築に『柳先輩ってどんな人?』と聞いたら、『高尚過ぎて理解出来ん』と言われた。
そんな人相手に、どうすればいいんだ。
目の前に立たれてしまえば無視もできず、とにかく立ち止まるしかない。
視線を上げた先で、それでもまだ消えない笑みが妙に気になった。
「あの…」
「ん?」
「何かいい事ありました?」
「響ちゃんがコンテスト出場決めはったって」
「あ、はい」
それと“いい事”になんの関係が…。
戸惑いながらも頷くと、満足そうに数度頷かれた。
「…あの、それで、先輩はなんでそんなに嬉しそうなんですか?」
「今言うたやろ」
「え?」
「響ちゃんがコンテスト出場決めはったって」
「………」
それが何故嬉しいのかわからないけど、とりあえず「有難うございます」とお礼を言ったら、「何が?」と首を傾げられた。
どうにもこうにも会話がチグハグだ。
音楽科一の長身なのに、その体は折れそうなくらい細い。
この得体の知れない性格とフラフラした行動から、自然と呼ばれるようになったという“柳星人”というあだ名は、見事にピッタリだと思う。
でも確かクラスメイトの先輩は柳殿と呼んで、おかしなくらいに恐れていたような…。
目の前に立つ相手の読めない中身に内心首を捻っていると、突然、どこにそんな力が!?と聞きたいくらいの強さでガシッと抱きしめられた。
真正面から思いっきりガシッと。
「なっ…ちょっと、柳先輩!?」
薄っぺらいと思われた上半身は、意外や意外。抱き締められてみると、結構しっかりとした体つきである事が判明した。
背が高すぎるから細く見えるのか。
って、そんな分析をしている場合じゃない。
「柳先輩!」
放課後とはいえ、こんな往来の真ん中でこんな有名人に抱き締められているなんて、他の生徒に見られたら恐ろしい事になる。
いや、それ以前に、なんで抱き締められているんだろう…。
体に絡みつく長い腕から逃れようと藻掻いていると、今度はその顎が俺の頭に乗っかった。
…どうしよう。
完全なる“懐いてます”状態に為す術もなく固まる。
そんな絶体絶命の中、俺の背後から聞き覚えのある声がかけられた。
「柳先輩。風紀を乱すような行為は慎んで頂きたいのですが」
抑揚のない淡々とした声。
間違いなくあの人だ。
風紀委員長の御厨脩平先輩。
振り向きたくても、柳先輩の腕ががっちり体をホールドしているせいで全く動けない。
そんな俺を無視して二人の会話は始まった。
「いっつも大変やなぁ脩平は。風紀を乱すなんてホンマに許されへんわ。しっかり見回りせな、いつ何処で何が起きるかわからへんさかい、ようお気ばりやす」
「何を言ってるんですか。今風紀を乱しているのは貴方ですよ」
「へ? 僕? 僕はなんにもしてへんどっしゃろ」
「では、それは何ですか?」
「それってどれ?」
「貴方が抱え込んでいるモノですよ」
…モノって…、いくらなんでも酷い。
見えなくとも、徐々に御厨先輩の機嫌が悪くなっていくのがわかる。
背後から冷たい空気が漂ってくるのは、気のせいだと思いたい。
「…あの、柳先輩、暑いので離してもらえませんか?」
さすがに、この季節に人と密着するのはかなり厳しい。いくら背後から冷たい気配が漂ってきているとしても、それとこれとは別物。
相手の胸元に手を当てて、グイッと押しのけた。
と同時に、喉元に圧迫感。
「……ッ」
なに!?
体の重心がそのまま後ろに移動する。そして背中が何かにぶつかった。
「…何故お前は問題人物にばかりとり憑かれるんだ」
耳元で聞こえる若干の呆れを含んだ声。そして喉元の苦しさがなくなる。
どうやら、御厨先輩に襟首を掴まれて引っ張られたらしい。
柳先輩からの解放は嬉しいが、まるで猫のような扱いには微妙な気分だ。
よろめいた反動でぶつかってしまった御厨先輩の体から背を起こして、崩れたシャツの襟元を整えた。
ついでに軽く咳払い。
「あの…、御厨先輩」
「なんだ」
「もう少しだけでいいので、俺の事を人間扱いしてもらえると嬉しいんですけど」
「響ちゃん。そない謙虚な言い方しはっても、脩平には伝わらへんよ」
「貴方は黙っていて下さい」
「「………」」
なんでこの人、こんなに迫力があるんだろう。
黙れと言われた当人だけじゃなく、俺まで口を噤んでしまった。
そんな俺達を見て深い溜息を吐く風紀委員長様。
そのまま呆れた視線で俺を見下ろすと、
「コンテスト、出る事に決めたらしいな。やるからには全力を尽くせ」
突然、そんな事を言ってきた。
「…え…、あ…、はい」
不意打ちの激励に驚いて、壊れた人形のようにカクカクと頷き返す事しかできない。
すると今度は、
「それや。ボクもさっきそれ言おう思うて響ちゃんを抱きしめはったんよ。せやのに脩平が邪魔しはるから言えへんかってん。…響ちゃん、コンテスト、ようお気ばりやす」
柳先輩までそんな言葉をかけてくれた。
嬉しくないわけがない。顔が自然と緩む。
俺の不幸を望む者がいる半面、こうやって頑張れと言ってくれる人達もいる。
この思いに報いる為にも、本当に頑張らないといけない。
「有難うございます! 全力で頑張ります!」
そう言って二人に頭を下げると、御厨先輩は無表情ながらもどこか満足げに、そして柳先輩は嬉しそうに口端を引き上げて笑っていた。
これから練習室に向かうと告げた途端、フラフラと着いてきそうだった柳先輩の襟首を御厨先輩が掴み、更には強引に引きずって行ってしまった時にはさすがにちょっと驚いたけれど、
…たぶん、あの人の中には先輩も後輩もないんだな…。
俺の時と同じように襟首を掴んで引っ張っている御厨先輩を見て、思わず顔が引き攣った。
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