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canon10
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夏休みが始まってしまえば、ほとんどの時間を練習に費やす事になる。
個人練習室はコンテスト出場者に割り振られ、それ以外の生徒は帰省する事もあって使用する事はできない。
夏休みの間は1人に1室が与えられる為、これまでになく集中できる。
食事・風呂・睡眠時は寮に戻り、それ以外の時間をほぼ全て練習室で過ごし始めて早5日。
頭の中で常に音が駆け巡っている状態が長く続くと、気がつけば飽和したように動きがピタリと止まっている事がある。
まさに今の自分がそれだ。
時計を見ると、5分くらい呆けていた事がわかった。
起きているのに、突然意識だけが消えてしまうような変な感じ。
色々考え過ぎて脳がパンクした状態だ。
鍵盤の上に指を置いたまま固まっているのだから、傍から見れば壊れて停止したロボットのように見えるだろう。
頭を左右に振ってボーッとしていた意識をハッキリさせ、乱れた前髪をかき上げた。
フゥ…と息を吐き出せば、体に入っていた余計な力も抜ける。
体が強張っていると、ピアノを弾く妨げになる。
気分転換も兼ねて軽くストレッチでもしようと椅子から立ち上がった。
組んだ両腕を上に伸ばすと、肩や肘の関節が鈍い痛みを訴えてくる。思った以上に力を入れ過ぎていたらしい。
飲み物でも買ってこようか…なんて練習室の入り口へ視線を向けた時、ミシっという音と共にゆっくりと扉が開いた。
鈍くなっていた思考回路は、突然の出来事に対応できずただただ固まるだけ。
ひたすら見つめるだけの俺の目の前で、外の温い空気が張り込むと同時に姿を見せたのは、いつかの時と同じく木崎さんだった。
それまで怠惰に動いていた心臓が一気に全力で動き出し、ドクドクとした鼓動を刻み始める。
伸ばしていた腕を静かに下ろして木崎さんを凝視していると、いつもの傲岸不遜な笑みを向けられた。
鼻先で笑う仕草がここまで身についている高校生なんて、この人くらいしかいない気がする。
「随分余裕じゃねぇか」
閉じた扉に背を預けて寄りかかりながらの一言は、それまでストレッチをしていた俺の行動を見てのものだろう。
さすがにムッとした。
「違います。ずっと弾いていて、肩に力が入り始めたから解していただけです」
「あぁ…」
どうでも良さそうな反応が本当に相変わらずで、ホッとしたようなムカつくような、そんな気分。
あの叱責から後、話すのは今日が初めてで変な緊張感に襲われていたけれど、変わらない木崎さんの態度に救われるのも事実。
「…それよりも、どうしたんですか?木崎さんだって練習してる時間なのに」
「飽きたからお前の練習に付き合ってやろうと思ってな」
「…………」
どこから突っ込めばいいんだろう。
俺の事を余裕って言った本人が一番余裕を見せてるし、練習に付き合うって、どうして…。
固まっている俺が可笑しかったのか、またも鼻先でフッと笑った木崎さんは、扉から背を離して歩み寄ってきた。
「ボケっとしてんじゃねぇ。さっさと座ってピアノに向かえ」
「…は…い…」
抵抗する間もなく肩を押されて椅子に座る。木崎さんが触れた部分が妙に熱く感じて、一瞬だけ息が詰まった。
「お前の選曲、俺は奨励しないけどな」
「…わかってます。でも、今厳しいものに挑戦しないと、自分がダメになる気がしたから」
「敢えて不利だとわかっていて選んだのか」
「はい。…今が自分のターニングポイントだって気がするんです。だからこそ厳しいものに挑戦したくて」
ハッキリと言い切ったら頭をグシャリと撫でられた。無造作ながらにその手は優しく、自然と頬が熱くなる。
俺が選んだのは、コンテストには不向きだと言われている曲だ。
奏華のコンテストは自由課題である為、殆どの者は、聴き映えが良く派手で、なおかつそれなりにテクニックを必要とする曲を選ぶ。
俺が選んだのは、深淵の中にいるような繊細で重い静かな曲だ。
派手さはまったくないのに、テクニックだけは超一流の技法を必要とするもの。
本当に能力のある者が弾かなければ、まったくもってつまらなく地味としか聞こえない曲。
圧倒する派手さが無い分だけインパクト部分でも少なく、技量が無ければ点数が入りにくい。
それでも、敢えてこの曲を選んだ。
もし弾きこなせれば、それは他を圧倒するものとなるだろう。
0か100。
得られる評価は、そのどちらかしかない。
それなり…という評価は、この曲には絶対にない。
考えるだけで胃が痛くなってくる。でも、これをやると決めたのは自分だ。逃げるわけにはいかない。
グッと歯を食いしばると、俺の表情が引き締まったのがわかったのか、木崎さんから「最初から弾いてみろ」と声がかかった。
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