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canon11
「そこ、音が重なって濁ってる。聞き苦しいからハーフペダルで調整しろ」
「それはもっと曇った音を出せ。鍵盤から指を離す前に音を繋げろ」
「鍵盤を弾 くな! 押し込んで重みを持たせろ、低く重く、沈むように!」
徐々に木崎の言葉に熱が入り始める。
途中で止められる事が多くなっていくうちに、曲はぶつぎり状態となり、どんな曲だったのか元がわからなくなる。
額からこめかみを伝った汗が、顎先でポタリと滴った。
エアコンを入れているのに、暑くて暑くて仕方がない。
「鍵盤から指を離す時に気をつけろよ。さっきからその部分だけ音がサラっとし過ぎてる。もっと円を描くようにして音に余韻を持たせないとダメだ」
「はい」
言われたとおりにしようとしたけれど、指先から滲んだ汗で鍵盤が滑り、不協和音を奏でてしまった。
間近で木崎さんの嘆息する音が聞こえる。俺もそうだけど、そろそろ集中力が切れてきたみたいだ。
「少し休むか」
「はい」
途端に、ドッと全身に疲れが押し寄せてきた。椅子に座っているのも辛い。
ズルズルと芋虫のように床へ落ち、ゴロンと仰向けに寝転ぶ。
ふと視線を向ければ、木崎さんも床に座り込み、近くの壁に背を寄り掛からせてぐったりしている。
この人との練習は本当にいつも死に物狂いで、物凄く厳しい。
でもその半面、とても身になる。
あまりに無茶な事を要求された時は投げ出したくなるけど、こうやって必死に本気で教えてくれる事が、凄く嬉しい。
木崎さんの事が好きだと自覚したからじゃない。それよりも前から、この人の音楽に対する姿勢を心の底から尊敬していた。
追いついて並びたい。俺が木崎さんの隣にいても、誰もが納得してくれるような実力を身につけたい。
今はひたすら、そう思う。
「…なんだよ」
ジーっと見過ぎていたせいか、顔を上げた木崎さんは俺の視線を受けてどこか居心地悪そうに眉を寄せた。
それが子どもっぽく見えて、思わず笑ってしまう。
少し前までは、木崎さんとのこんな時間がまた戻ってくるとは思わなかった。
あの時の事は、どこで擦れ違ってしまったのか今となってはグチャグチャ過ぎてもうよくわからない。
もう関わらないと思っていた木崎さんが目の前にいて、もう弾くのをやめようかと思っていたピアノの練習をして。
なんだか今がとても幸せだと思う。
そんな事を考えていたら、自然と表情が緩んでいたらしい。
「…久し振りに、お前のそんな顔を見たな」
しみじみと言われてしまった。
呟いた木崎さんの声が妙に優しく聞こえる。
床に寝転がったまま視線を向けると、珍しくなんの含みもない木崎さんの穏やかな眼差しとぶつかった。
思いだしたかのように心臓が高鳴る。
まるで恋する乙女みたいな自分が恥ずかしくて必死に冷静さを保っていると、暫くしてから木崎さんがポツリポツリと語り始めた。
その語られた内容は俺の思いもよらないもので…。
俺達の関係がおかしくなりはじめた頃からの、木崎さんの心情・考え、棗先輩の言葉など。
最初の発端は、木崎さんが藤堂さんの存在に嫉妬した事から始まったと言われた時は、何がなんだかわからずに茫然とした。
藤堂さんの存在に嫉妬するって、なんでそんな…。それはまるで、俺の事を…。
ありえない期待が体中を駆け巡る。
そんなはずはない。俺が都合良く解釈し過ぎてるだけだ。
まるで何も感じてないように淡々と頷きながらも、頭の中はグチャグチャになった。
寝転がっていた体を起こし、木崎さんの真正面に位置する壁に寄りかかって座る。
本当は、こんな風に話してくれる木崎さんの事をしっかり見て言葉を聞きたいから真正面に座ったのに、…時には自嘲するように、そして時には苦しそうな顔をする様子を見ていられなくて、俯いた。
俺まで苦しくなる。
確かに発端は木崎さんの嫉妬だったのかもしれない。でも、全部が全部木崎さんのせいじゃないんだ。
俺のせいでもある。そして、関係ないのに妬みだけで絡んできた他のやつらも一部責任がある。
「自分を情けないと思ったのは初めてだ」
そう言って苦々しく嘆息した木崎さんに、思わず怒鳴ってしまった。
「そうじゃない!」
驚いたように俺を見る木崎さんに、言葉を止める事は出来なかった。
「確かに木崎さんも悪いところはあったと思う。散々振りまわされたのは確かです。でも、木崎さんだけが悪いわけじゃない! …俺が…、俺がもっとしっかりしていれば回避できた事だってたくさんある。俺が意地を張らなければ、こんなにも物事が複雑に絡まったりもしなかった」
「…響也…」
こんなにも弱い部分を吐露してくれた相手に、自分だけ被害者のように聞いているなんて、そんなのダメだと思った。
俺の狡い部分だって、誤魔化そうとした心情だって、吐きださないとフェアじゃないと思った。
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