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canon16
棗先輩の足音が消え、それまでの静寂を取り戻す廊下。
シンと静まりかえった空気に耳を澄ませた後、練習室へ向かって歩き出した。
階段をのぼり、教科担当室を通り過ぎて角を曲がれば、そこはもう個人練習室が並ぶ廊下になる。
夏休みの間に俺が借り切っているのは、この廊下のいちばん奥にある部屋だ。
かなりの数がある為、廊下の奥まで行くのが面倒臭いと、あまり人気のない場所。
廊下の両側にずらりと並ぶドアを視界に入れながら、くの字に曲がっている廊下へ足を踏み入れた。
夏休みの間はコンテスト出場者しかいない為、いつもは練習室から漏れ聴こえる音で賑やかになるこの場所も、今は静まり返っている。
リノリウムの床を踏みしめる上履きのキュッキュッとした音だけが響く中、突然真横のドアが開いて中から出てきた誰かとぶつかってしまった。
「っすみません」
「悪い……、ってなんだ、お前か」
ぶつかった瞬間に閉じてしまった目を開けると、真顔から一転、ニヤリとした笑みを浮かべた木崎さんがそこにいた。
ぶつかってよろめいた俺が転ばないよう咄嗟に腕を掴んでくれたらしいけど、それをいい事に思いっきり引っ張られ、またしても木崎さんにぶつかる。
「…っな…にを」
手に持っていた楽譜が落ちて廊下に散らばった。
拾おうと手を伸ばすも、それより早く木崎さんのもう片方の手が俺の肩を掴み、すぐ横の壁に押し付けられる。
「木崎さん?」
「会った瞬間に感激して抱きつけとまでは言わないけどな、もう少しくらい俺に会えて嬉しいって態度をしたらどうだ」
「……なに、言ってるんですか」
恥ずかしすぎて眩暈を起こしそうだ。そんな事、俺に出来るわけがない。
そういう性格だと知っているはずなのにこのセリフ。絶対にわかってて意地悪で言っている。
握った拳で軽く目の前にある肩を叩くと、その手を掴まれてしまった。
そして木崎さんの口元に持っていかれたかと思えば、指に押し付けられる唇。柔らかな熱に心臓の鼓動が跳ね上がる。
目が合った瞬間、ニヤリとした笑みを向けられた。
「なに赤くなってんだよ」
「なってません!」
顔を逸らして言い放てば、クククっと肩を震わせて笑われる。
あぁもう本当にいやだ。全身が発火してしまいそうに恥ずかしい。
「…木崎さんも今から練習なんですよね?俺もそうなんで、手、離して下さい」
壁から背を起こして告げた瞬間、また壁に体を押し付けられた。今度はさっきよりも強い力で。
そして、
「…ッ」
唇に触れた柔らかな感触。それが木崎さんの唇だと気がついた時には、もう顎をがっちりと手で固定され、体は全身で押さえつけられていた。
「ン…ッ、…ァ」
食らいつかれるような深い口付けに呼吸を奪われ、角度を変える度、僅かに出来る隙間から濡れた水音と俺の声だけがこぼれ落ちる。
足の間にはいつの間にか木崎さんの膝が入り込み、壁に貼り付けられたように身動きが出来ない。
誰が来るかもわからない廊下でこんな事…。
羞恥心が湧き起こる。
まったくやめる気配のない木崎さんの肩を押し離そうと手を置いたけれど、その手を掴みとられ、指の間に指を入れられた恋人繋ぎのまま壁に押し付けられた。
そして益々深くなる口付け。
口腔内に入り込む舌は、全てを奪い取ろうとするほど強引に熱く絡みつき、唇は互いの境界がわからなくなるくらいに甘く覆われる。
その激しさについていけず、息が苦しくて呼吸が荒くなる。
もう何がなんだかわからない。
熱くて、熱くて、溶けるように気持ちが良くて…。
「…っぅ……ぁ、…ンッ」
静まり返った廊下に響く、淫靡な呼吸音と衣擦れの音。
気が付けば、全身から力が抜けてクッタリと壁に寄りかかる自分がいた。
ようやく解放された唇は腫れたような感触を持ち、離れてもまだ尚触れられているように熱い。
目を伏せて荒く息を吐いていると、同じく呼吸を乱した木崎さんが間近から強く見つめてくる視線を感じた。
目線を上げたと同時に近づいてきた顔、首筋に感じる濡れた何か。キュッとした痛み。
「…ッ……木崎さん?」
ビクッと肩を揺らして名を呼ぶも、いまだ首元から顔を上げない木崎さんが吐き出した息が耳の下の肌に触れ、そのくすぐったい感覚にまた背筋が震える。
「…そんな顔するな。止まらなくなるだろ」
欲情に掠れた低い声。それがあまりにも艶めいていて、心臓が破裂しそうに鼓動を打った。
そのまま互いに身動きを取らず、暫しの沈黙が落ちる。
数分たってようやく落ち着いた頃、俺の肩口に額を当てていた木崎さんが顔を上げて、密着していた体が離れた。
真正面からジッと見つめられると、さっきまでの行為が脳裏に浮かんでまたも羞恥心が込み上げる。
熱が下がったはずの顔にまた血の気が上りそうになった事に気がついて、咄嗟に俯いた。
途端に溜息を吐きだす木崎さん。
「…お前、そういう態度を他の奴の前でするなよ。絶対」
「そういう態度って…」
意味不明な言葉に顔を上げると、睨むように見つめてくる真剣な表情の木崎さんと目が合った。
凄まじいまでの無言の圧力に気圧されるように頷けば、そこでようやく空気が緩む。
本当は何がなんだかわからないけど、そんな事を正直に言ったが最後、説教をくらいそうな雰囲気。
「昼になったら迎えにいくから、練習室から出ないで待ってろ」
「………そこまでしなくても、」
「待、っ、て、ろ」
「…わかりました」
渋々頷くと、後頭部に手を回され、額にコツンと木崎さんの額がぶつけられた。
「頑張れよ」
その一言と共に踵を返して歩き出した木崎さん。
行動一つ一つにドキドキと翻弄されている俺の気持ちなんて、絶対に気付いてないだろう。
長身でスタイルのいい後ろ姿が廊下の曲がり角を越えて見えなくなるまで、その場から動く事が出来なかった。
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