55 / 116

canon18

§・・§・・§・・§ 八月の中旬にもなれば、暑さもピークを迎える。 一歩外に出るだけでセミの声は騒音となって聴覚を襲い、じっとりした蒸し暑さが体から水分を奪う。 そんな外の光景を職員室の窓ガラス越しに眺めていると、頭の上にポンっと何かが乗せられた。 振り向けば、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている紅林先生が立っていた。 「はい、湊君。たぶんこれでいいと思うけど」 頭の上に乗せられていた紙が退けられる。それは、課題曲に関連する資料だった。 ちょっとだけ行き詰まってしまった状況を打開する為に、もう少し曲について掘り下げる事が出来ないだろうかと誰かに相談するつもりで職員室に来たところ、ちょうど紅林先生がいて話を聞いてくれた。 少し待って、と職員室を出て行って数分。どうやら、どこかからか資料を見つけてきてくれたらしい。 単なる一生徒である自分が調べられる事には限界がある。それ以上の部分はこうやって助けを求めるのも一つの手だよ、と優しく言われて本当にホッとした。 「有難うございます」 お礼と共に資料を受け取ろうと手を伸ばした。…が。 その資料がヒョイっと上にあがってしまった。それも、俺の手がギリギリ届かない位置まで。 犯人である紅林先生は、そんな俺を見てニコニコと微笑んでいる。 「…あの、先生?」 長身の紅林先生が頭上に手を上げてしまえば、俺にはどうする事も出来ない。 試しにもう一度、背伸びをして手を伸ばしてみたけど、やっぱり届かない。 「…………」 「…ックククク」 突然、紅林先生が肩を震わせて笑いだした。 「そんなムスっとした顔しない。ごめんね、はい、どうぞ」 「…ありがとう…ございます」 警戒しながら手を伸ばせば、今度こそちゃんと渡してくれた。 この先生って、こういう人だったんだ。 生徒会補佐を頼まれなければほとんど接点がなかった為に、穏やかな人だという認識しかなかった。 まさかこんな一面があったとは…。 「ここ、皺が寄ってるよ」 そう言われて、眉間を人差し指でグリグリと押される。 いったい誰のせいだと思っているんだ。 当の本人に指摘されてしまう事ほど微妙なものはない。 押された眉間に手を当てて紅林先生を見ていると、突然背後から声がかけられた。 「紅林先生」 一瞬その声が誰のものかわからなかったのは、いつもよりも低く鋭いものだったからだと思う。 声の主に視線を向けた紅林先生につられて後ろを振り向けば、視界に入ったのは物凄く不機嫌そうな木崎さんの姿だった。 「さっき言ってた書類、もう仕上がったんだ?さすが木崎君だね」 木崎さんの不機嫌さに気付いているのかいないのか…、紅林先生はいつもと変わらぬ様子で、歩み寄ってきた木崎さんから何らかの書類を受け取っている。 ボーッと二人のやりとりを眺めていると、突然、腕を掴まれた。そしてドアに向かって引っ張られる。 「え、ちょっと、木崎さん、」 「………」 まだ紅林先生に聞きたい事があったのに、職員室を出る木崎さんに腕を掴まれて連行されてしまえばそれも叶わず…。 どこか苦笑めいたものを浮かべている紅林先生に見送られながら、廊下へと引きずりだされてしまった。 「木崎さん、俺まだ紅林先生に話があったんですけど!」 「黙れ」 「…っ」 横暴すぎる。黙れってなんだよ。 誰もいない廊下。いい加減、引っ張られる状態にも嫌気が差し、足をグッと踏み留めて抵抗を示した。 俺が進まない事で、必然的に木崎さんの歩みも止まる。 職員室からも遠ざかった場所。今いるのは、教科担当室と生徒指導室が並ぶ廊下。 これ以上、訳がわからないまま進んでたまるものか。そんな思いを込めて木崎さんを見ると、不機嫌なままの眼差しでジッと見つめ返された。 どこか責めているようにも感じられるその視線に、居心地が悪くなる。 「…なんで、怒ってるんですか」 「わかんねぇのかよ」 「言ってくれなければわかりません」 はっきり言えば途端に舌打ち。 こんな空気はイヤだ。 甘々な空気にも慣れないけれど、今のこれにはもっと慣れない。 掴まれたままの腕を解放してもらおうと、自分の方にグッと引き寄せてみる。でも、俺よりも力のある木崎さんが、そうすんなり離してくれるはずがない。 離してくれないあげく、いきなり横にある生徒指導室の扉を開けたかと思えば、その中に引きずり込まれた。 なんでこんな夏休みに鍵がかかってないんだよ! 誰かに向かってそう叫びたい。 奥に細長い生徒指導室の入口付近は、窓が遠いため電気を点けなければ薄暗い。扉を閉められれば尚の事。 引きずり込まれた勢いでよろめき、木崎さんにぶつかった。 何も言ってくれない事が怖い。何がなんだかわからない状態に焦りだけが募る。 「木崎さ…んぅッ!」 閉じた扉に背を押しつけられ、性急に塞がれた唇。 驚き過ぎて抵抗する事も忘れて茫然としていると、唇を割り入ってきた舌が口腔内を犯し始めた。 顔の横で扉に押し付けられる両腕。それを引き剥がそうと力を込めても、浮かすことすら出来ない。 噛みつくような激しい口付けに、互いの呼吸が荒くなるのがわかる。 どちらのものかわからない唾液で唇は濡れ、深く差しこまれた舌はどこまでも絡みついてくる。 「待っ…、…ぅ…ッ」 抱き込んでくるように触れる木崎さんの体が熱い。 それが移ったのかのように自分の体もジワリジワリと熱を帯び、息苦しさにくらりと眩暈がする。 立っていることに耐えられず床にしゃがみ込みそうになった時。木崎さんの唇が離れた。それでも、少し動けばまたぶつかるくらいの距離感は変わらない。 「………」 「……なんで紅林とイチャついてんだ」 「…………え?」 低く呟かれた言葉に一瞬意味がわからず聞き返すも、すぐに木崎さんの言ったそれが先程の紅林先生とのやりとりの事だと気がついた。 「ちょっと待って下さい、イチャついてなんて…。それに相手は紅林先生なのに、そんな変な意味は…、」 「意味があろうがなかろうが関係ない。…お前が楽しそうに誰かと話してるだけでムカつくんだよ」 「…木崎さん…」 どう聞いても嫉妬しているとしか取れない言葉に、全身に痺れのような何かが走った。嬉しさと羞恥に襲われて、どうしたらいいかわからない。 この濃密な空気から逃げ出したい思いと、木崎さんにもっと近づきたい衝動。そんなものが交互に襲ってくる。 いつの間にか解放されていた手を、そっと木崎さんの背に回した。途端に、木崎さんの体が僅かに震えたのがわかった。 言葉もない代わりに、ギュッと痛いくらいの力で抱きしめられる。 「……響也」 耳元で響いた艶やかな声。それはまるで麻薬のように心地良い痺れを脳内に駆け巡らせた。

ともだちにシェアしよう!