56 / 116
canon19
§・・§・・§・・§
昨日の木崎さん嫉妬事件以降は、至極平穏無事に時間が過ぎ去って訪れた今日。
午前の練習時間を終えて昼食をとろうと食堂へ足を踏み入れた時、視界に入った光景に思わず立ち止まってしまった。
午前の練習を早めに切り上げたのか、窓際の席に木崎さんの姿。そしてその真横の席に座っているもう一人の人物。
俺と同じ高一でヴァイオリン科の次席、鬼原虎次郎 。
名前の勇猛さとは裏腹に、小柄で華奢。色白で天然茶髪の髪はフワフワとし、目はタレ目のドングリ眼。慣れた相手でなければ話すだけでも赤面してしまうという、異常なまでの恥ずかしがり屋。
ただし、ヴァイオリンを持つと性格が変わるらしい。実際に見た事はないけれど、皆が言うという事は事実なんだろう。
科も違う為にあまり話をした事はないが、真面目な性格だという事は知っている。
その鬼原と木崎さんが二人きりで話をしている姿を見るのは初めてで、何故か戸惑ってしまった。
このまま入り口で立ちつくしているわけにもいかず、とりあえずカウンターへ向かう。
夏休みでほとんどの生徒がいないという事もあって、食堂のメニューも限られたものになっている為、券売機は停止。
数少ないメニューの中から選ぶのも面倒で、夏休みに入ってからは日替わりメニューしか頼んでいない。
今日は、バジルパスタと野菜たっぷりポトフだとか。
カウンター内にいたおじさんからトレーごと受け取って振り返ると、さすがにもう気が付いていたのか、こっちを見ていた木崎さんと目が合う。
そしてその隣にいる鬼原とも。
二人に小さく会釈を返してから壁際の席に向かおうとしたところで、すかさず声がかけられる。
「どこに行くんだよお前は。こっちに来い」
「………」
それを拒否するのも変な話で、どことなく重く感じる足を動かして二人のいるテーブルへと歩み寄った。
もう既に食べ終わっているのか、横によけられている空の食器が乗ったトレーが二人分。
どれくらいの時間、こうやって二人で過ごしていたんだろう。
そこまで考えたところで、ハッと我に返った。
何を考えてるんだ俺は。
溜息を吐きたい気持ちを堪えて、木崎さんの正面の席に座った。
よく見ると、木崎さんと鬼原の前に数枚の楽譜。
鬼原もコンテスト出場者という事を考えれば、その関係の話をしていたのだと想像がつく。
とにかく、俺は昼食をとりに来たんだから余計な事は考えずに食べよう。
目の前の二人を気にしないように食事を始めた。
「ここからここに向かって盛り上げていけばいいだろ」
「オレもそう思ったんですけど、真鍋先輩に違うって言われて…」
「あぁ…、そんな捉え方だからあの人はお前に抜かれんだよ」
真鍋先輩というのは、ヴァイオリン科の三番席で高等部三年の人だ。
その先輩に対してこうも遠慮なく厳しい事を言えるのは、木崎さんだけだろう。
…それにしても…。
食べている途中で不意に気がついた。木崎さんと話をしている鬼原が、赤面をする様子もなく普通に話をしている事に。
さっき鬼原は、椅子に座った俺と目が合っただけで顔を赤くして目を逸らした。それが、木崎さんとは素で向かいあっている。
それは、二人の仲が親しいという事に他ならない。
まだ半分も食べていないのに、急激に食べる気が失せてきた。
なんだろう。苦しい。
「…響也?」
「え」
名を呼ばれてハッと我に返れば、それまで鬼原と話をしていたはずの木崎さんが、どこかいぶかしむような顔で俺の事を見ていた。
「え、じゃない。突然固まってどうした」
言われて気がついた。フォークにパスタを絡めた状態のままボーッとしていた自分に。
「…いえ、なんでもないです。ただ、量が多いなって」
「馬鹿な事言ってんな。まだ全然減ってないだろ。お前ただでさえ細いんだからしっかり食え」
眉を顰めながら怒る木崎さん。そして、そんな俺達を眺める鬼原。
何故だろう…。鬼原の視線が、存在が、モヤモヤするものを胸の内に運んでくる。
決して鬼原の事を嫌っているわけじゃない。それどころか、同じ学年で同じ上位者で尚且つ真面目、そんな鬼原に一目おいていたりする。
でも、今だけはその存在をイヤだと思ってしまった。
そして、イヤだと思ってしまう自分がとても嫌な人間に感じる。
「…もう練習に戻るので、これで失礼します」
あまりにも他人行儀な態度に、木崎さんが目を眇めたのがわかった。
でも、気付かなかった事にして席を立つ。
「響也」
せっかく調理してくれた物を、まだ半分以上残っている状態で戻すのは本当に申し訳ないと思う。でも、とにかくこの場から離れたくて…。
僅かに鋭くなった木崎さんの声を無視して返却カウンターにトレーを乗せると、すぐに食堂を後にした。
ともだちにシェアしよう!