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canon21
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長かったような短かったような、そんな夏休みももうすぐ終わる。
今日は、新学期に向けて楽器のメンテナンスを行うという事で、練習は休み。
何をしようかと考えても、頭の中をピアノから切り離す事が出来ずに結局ボーっとして終わりそうだ。
木崎さんは朝から家に帰省していて、帰ってくるのは明日。
俺は1日だけ家に帰るのも面倒くさくて残ったはいいものの、する事がなくて困っているのが現状。
だからと言って、残っている他のコンテスト出場者と何かをするというのも考えられない。
あまつさえ、御厨先輩と遊ぶなんて想像すら出来ないし…。遊ぶどころか、先輩と顔を合わせてしまったら生活指導をされて一日が終わりそうで怖い。
棗先輩と柳先輩に関しては全く行動がわからず、そもそも帰省してるのか残っているのかすらわからない。
木崎さんでさえ、彼ら二人の今日明日の行動は知らないと言っていた。
もうこうなったら選択肢は1つしかない。
時間がある時のお決まりのパターン。
中庭。
この一ヶ月近く、ひたすら練習室にこもっていた為に太陽の光を体が欲している、…ような気がする。
昼も過ぎたこの時間になれば、強烈な太陽の光も常緑樹の葉に遮られてちょうどいい木漏れ日となっているだろう。
部屋の窓から見える空を少し眺めた後、中庭へ向かう為に寮棟を出た。
「…久し振りすぎる」
ボソッと呟いた言葉は、目の前の噴水の音にかき消された。
涼しげな水の音。透明なその流れは、見ているだけで暑さがやわらぐ。部屋を出た瞬間からジワリジワリと滲み出てきた汗が、すっと引いたのがわかった。
見ればベンチにはちょうど良い具合に日影が出来ていて、迷うことなくそこへ向かう。
ベンチの真ん中に広々と座ってホッと一息つけば、(あー、夏休みだなー…)なんてことを終わる間際の今更になって実感する。
今日は校内での練習がないから、久し振りに私服でいられるのが嬉しい。
デニムにハイカットスニーカーを履いている足を軽く組んで、背もたれに寄りかかった。
たぶん明日には、帰省を終えて学校に戻ってくる生徒で寮棟も賑やかになるだろう。
それまでのほんの僅かな落ち着ける時間。
フゥ…と息を吐き出して目を閉じた。
中庭に来てからどのくらい経ったのか…、30分は過ぎたと思われる頃。
不意に、こっちへ近づいてくる足音が聞こえてきた。
練習ができない今日は、残っていたコンテスト出場者も帰省できる人はしているらしく、昨日までより若干人が少ない。
それなのに誰がこんな場所へ?
このパターン的にとある人物を思い浮かべてしまうけれど、夏休みという今の時期を考えればそれはないだろう。
…なんて思ったのに…。
「……あ」
「………」
思わず声を発した俺に気がついたその人は、声こそ発しなかったものの、僅かに見開いた双眸から俺と同じく驚いている事がわかった。
茫然としていると、俺よりも平常心に戻るのが早かったその人は、相変わらずの貫録のあるオーラを醸し出しながらベンチに近付いてくる。
「久し振りだな、湊」
「お久し振りです、藤堂さん」
中庭には何かのスイッチでもあるんだろうか。
そんなありえない事を疑ってしまうくらいには、ここでの俺達の遭遇率は異常に高い。
藤堂さんに会いたければ中庭に行けばいい、なんて定説まで出来てしまいそうだ。
茫然としていたのも束の間、ベンチの真ん中に座っていた事を思い出して、すぐさま横にずれる。
一人分空いたそこへ藤堂さんが座ったのを見て、本当に久し振りだと改めて実感した。
夏休み前に会ったきりだから、かれこれもう一ヶ月振り。
少し日に焼けたのか、肌が小麦色になっている藤堂さんは、いつにも増して精悍さを際立たせていた。
「夏休みも帰らずに練習か?」
「はい。コンテスト出場者だけは帰らずに練習です。…こう毎日ピアノ漬けだと、さすがに頭の中から音が消えなくて夢の中でもピアノ弾いてます」
冗談混じりにそう返せば、藤堂さんは目元を緩めて楽しそうに笑んだ。
やっぱりこの人といると物凄く落ち着く。伝わってくる空気が揺るぎなく安定しているせいか、こうやって話しているだけで安心できる。
「藤堂さんは、家に帰らなかったんですか?」
「いや、昨日までは家にいた」
「戻ってくるの早いですね」
「始業式の準備があるからな。飛奈も戻ってきてる」
さすが生徒会長と副会長。しっかりしてる。
感心の眼差しを向けると、ちょうどこっちを向いた藤堂さんと思いっきり目が合った。
その瞳は、どことなく物言いたげに見える。
…なに…?
躊躇うような戸惑うような、藤堂さんらしからぬ様子。
俺の思いすごしか?
そう思った時、藤堂さんがゆっくりと口を開いた。
「…木崎とは、大丈夫なのか?」
「…………」
あまりの不意打ちに、心臓がギュッと何かに掴まれたように縮んだ。次いで今度はドクドクと激しく動き出す。
まさか、それを聞かれるとは思わなかった。
当たり障りのない会話ができればそれでいいと思っていたのに、藤堂さんはこんな時でも俺の事を気にかけてくれる。
どこまでも優しいこの人に対して俺も誠実であるべきで、木崎さんと付き合いはじめた事を隠さず、きちんと告げなければダメだと思う。
けれど、いざ言おうとすれば物凄い緊張感が襲ってくる。
告げた後、藤堂さんはどう思うだろう。引かれてしまうかもしれない。
それを考えると、告げるのが怖い。
俺が黙ってしまった事で藤堂さんは何かを誤解してしまったらしく、「立ち入った事を聞いて悪かった」と謝罪の言葉をかけられてしまった。
慌てたのは言うまでもない。
「違います!そうじゃなくて、…あの…」
変な汗が出てきた。
もうこうなったら勢いに任せて言うしかない。
「あの、俺…、…………木崎さんと付き合う事になったんです!」
グッと拳を握りしめて叫ぶように告げた瞬間、隣で藤堂さんが息を飲んだ事がわかった。
空気がピンと張り詰めた痛い沈黙。
藤堂さんの表情はいつもとまったく変わらず。でも、双眸の奥を覗き込めば、今まで見た事がないような複雑な色が浮かんでいた。
苛立ち?
…いや、違う。これは、……焦燥?
予想とは違う反応に、俺の方が驚いた。
嫌悪ならともかく、…どうして…。
さっきまでの緊張も忘れて藤堂さんの顔を凝視している内に、その色はすぐに消え去ってしまった。
まるで俺の見間違いかと思えるほどの早さで消えたその感情の色、…いったいなんだったのか…。
「あの、藤堂さん」
俺の呼びかけに、いつもと全く変わらない様子に戻った藤堂さんは、いつもと全く同じ落ち着いた声を発した。
「すまない。少し驚いただけだ」
「いえ、あの…」
「木崎ならお前を大切にしてくれるだろう。…良かったな」
相変わらず表情は大きく変わらないものの、優しく笑んだ目元に嫌悪の感情は全くなくて、それが凄く嬉しくて…。
「ありがとうございます」
緩む目元を自覚しながらも小さく頭を下げる。
…藤堂さんの胸中など知る由もなく。
そしてその頃、帰省した木崎さんの身に何が起きていたのかも知らずに…。
束の間の幸せな時間は、この日を境に終わりを告げたのだった。
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