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canon23

ようやくアイツが俺へと想いを向けてくれたというのに、障害だのなんだのと…、そんな事で簡単に手放せる訳がない。 親からすれば子供のママゴトくさい恋愛だとでも思っているのだろう。 冗談じゃない。俺がどれだけ真剣にアイツの事を考えているのか、見せられるものなら見せてやりたいくらいだ。 驚愕は徐々に怒りへと移り変わり、全身を苛立ちが支配する。 だが、この人を相手に感情的になってはおしまいだとわかっているだけに、爆発しそうな感情を無理やり腹の奥底へ押し込める。 「…俺の事は俺が決める。指図される謂われはない。…結果を出せば文句はないだろ?」 抑揚の無い声でそう返した瞬間、真弓は「わかってないわね」とでも言いたげに溜息を吐きだした。 そして、その後に告げられた言葉は想像以上に厳しいものだった。 「そういう我が儘はやめなさい。別れないと言うのなら、あの子を退学にさせるしかなくなるわよ」 「…は?…なに、馬鹿な事言ってんだ」 「馬鹿な事じゃないでしょう?…噂によればその湊という生徒、あちらこちらに媚を売っているような子らしいじゃないの。普通科の子にも手を出しているんですってね。そんな子とお付き合いだなんて、性別うんぬんを抜かして考えても貴方の障害にしかならないわ」 「…っんだよそれ!」 最初から、何故この人が響也との事を知っているのかと疑問に思っていたが、これでようやくハッキリした。 学院内にいるどこかの馬鹿が、わざわざご親切にも進言したのだろう。じゃなければ、あの時に流れた噂までも知っているはずがない。 おまけにそいつは、俺達が付き合い始めた事を知っている? …いや…、たぶんその部分は憶測で言った可能性が高い。付き合っているとでも言っておかなければ、真弓は動かないと踏んだのだろう。 それにしても、どんな内容をどんな言葉でどのように伝えたのか…。この雰囲気だと、間違いなく最悪な話しかしてないはずだ。 …俺ではなく、響也に対して強い妬みを持っている…。そして、真弓の信頼を得ている人物…。 怒りに噛みしめた奥歯がギシリと鳴る。 「…その噂は捏造されたもので誤解だ、響也はそんな奴じゃない」 握りしめた拳で、肘掛けをガツンと殴った。それでも全身を駆け巡る憤りと焦燥は治まらない。 木崎家の学院に対する権力の強さを知っているだけに、危機感はいや増すばかり。 この人が響也を退学にさせると言ったなら、必ず学院長はそれに従うだろう。 そして案の定、真弓はそれを口に出した。 「うちが奏華にどれほど寄付をして、どれほど生徒達に目をかけていると思っているの?私と秀幸さんは、奏華の卒業生が世界へ出る手助けもしているの。日本の子供達が音楽を手にして世界へ羽ばたくお手伝いをね。私が言えば、湊君の事なんて簡単に辞めさせる事が出来るって、わかるでしょう?貴方の事を思えばこそ、将来を阻む者はなんであれ、私は強引にでも排除するわよ」 母真弓と、父秀幸。 両親共に、音楽を目指す子供達の未来を世界へ繋げようと、真摯に手を差し伸べているのは知っている。 そこは心から尊敬している。 でもだからと言って、それを最終手段の権力として自分の前に振りかざされるとなると、とても尊敬だのなんだのと悠長な事は言ってられない。 どちらにしろ、このままだと響也の未来はなくなってしまうだろう。 アイツはまだまだ伸びる。ここで、自分のせいで潰されるわけにはいかない。 脳裏に、ピアノに向かっている時の真剣な響也の顔が浮かんだ。 『ピアノって…音楽って…、もう俺の体の一部なんです』 そう呟いた後の、照れたように微笑んだ様子が忘れられない。アイツは、心から音楽を愛している。 …ようやく…、本当ようやくここまで辿り着けたのに…。 胃の底から熱い何かが迫り上げてきた。 どうにもならない葛藤が嵐となって襲い、眩暈を誘発する。 …吐き気が…止まらない…。 なんの力もない自分が、情けなくて、悔しい。 手の平で、額と目元を覆った。そうでもしないと、口から呻き声を漏らしてしまいそうで。 だが、話はそれだけでは終わらなかった。 「噂を聞く限り、貴方が別れを告げても、湊君が大人しく引き下がってくれるとも思えないわ。だから私の方で手を打つ事にしたの」 「……どういう…ことだよ」 「貴方に、偽物の恋人を用意したわ」 「…は?」 「貴方と同級生の、二条社長の息子さんの志摩君。知っているでしょ?奏華に通っていて信頼できる子って言うとあの子しか思いつかなくて…。事情を説明したら、僕で良ければ偽の恋人役として手を貸しますって快く受け入れてくれたの」 「……なに…わけのわかんねぇ事を…」 「新たな恋人との生活を目の前で見せつけられれば、いくら湊君でも諦めるでしょう。志摩君には申し訳ないけど、彼、自分は大丈夫だから任せてほしいって言ってくれて…、その言葉に甘えることにしたの。湊君が次の相手を捕まえて、もう貴方に手を出すことはないとはっきり決別がついた時点で、志摩君は貴方の恋人役から解放されて通常の生活に戻ってもらうわ。…勘違いしないでほしいのだけど、私だって無暗に生徒を退学に追い込みたくなんかないのよ」 「…………」 「本当は松岡さんのお嬢さんにお願いしようかとも考えたけど、全寮制の学校で外に恋人がいても意味がないでしょう?湊君の目の前じゃないと効果がないと思って…。志摩君がいてくれて本当に助かったわ」 ありえないほど周到に用意されたこれは、いったい何の茶番だ? 「……ふざけるな」 怒りで声が掠れる。 こんな悪夢を見る為に帰省したのか。そう思うと、自分の行動が酷く滑稽な気がして仕方がない。 「ふざけているのは貴方の方よ。今の貴方に恋人なんて…、それも学院内であまり良い噂を聞かない子だなんて、そんなものは認めません。今の状態は、誑かされた末の流行り病の熱病のようなものだと早く気が付きなさい。いいわね、志摩君から常に報告を受けますから、湊君とはこれできっぱり別れなさい」 「……っ…」 ………響也…。 俺は、お前の未来を…、…お前の音楽を、…………絶対に潰させたくない…っ…。 真っ赤に染まる閉じた瞼の裏で、響也の奏でる透明なピアノの音が聴こえたような気がした。

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