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canon24

§・・§・・§・・§ 「……――休みの気分を引き摺る事なく新学期に励んで下さい」 恰幅の良い学院長の訓示が終わり、これでようやく始業式が終了となる。 昨夜遅く帰ってきたらしい木崎さんとはまだ顔を合わせていないけれど、先程の生徒会長挨拶の姿からは、いつも通りの様子が窺えた。 また始まる学園生活という日常。 でも今日からのそれは、夏休み前までとは違う日常。 木崎さんの姿を見るだけで嬉しくなるなんて、そんな自分に驚きだ。 始業式が終わって皆がそれぞれ講堂から出ていく際、何故か遠目に柳先輩と目が合った……ような気がした。 前髪が長いせいで、目が合ったという確実性が持てないのが微妙なところだけど、軽く頭を下げたら口元が笑みの形に引き上がったのだから、たぶん間違いない。 周りの先輩達より頭半分ほど出ている柳先輩は、やはりどこか目立っている。 相変わらずひょろりとしたその後ろ姿を見送ってから、俺も講堂を後にした。 今日は始業式という事もあって半日で終わる。 と言っても、音楽科のほとんどの生徒は当たり前に個人練習をするから、結局はいつもと同じく夕方まで学校内にいる事になる。 散り散りに教室を出ていくクラスメイト達。 そんな中で、自分の席に座ったまま携帯のスケジュールを呼び出した。 「…今日の予約時間は…」 今日は17時から21時までとなっている。 昨日まで家に帰省していた生徒達が今日から練習室を使用するとあって、さすがに午後の時間は予約でいっぱいだった。 今から夕方まで時間はたっぷりとある。 調べたい事もあるし、図書館にでも行こうか。 始業式当日である今日、たぶん図書館はガラ空きとなっているはず。 最近あまり行っていないその場所を思い浮かべて、椅子から立ち上がった。 音楽棟と一般棟の間、中庭よりもう少し奥まったところに図書館はある。 しっとりと落ち着いた風情をもつ木造の建物。 昭和初期に建てられ、数年前に耐震工事を施したと聞いたけれど、一見した感じでは耐震用の武骨な鉄骨などは見当たらない。 木々に囲まれた落ち着く佇まいは、図書館という呼び名に相応しい貫録を見せている。 観音開きの扉を静かに押し開けて中に入ると、書物特有の香りが鼻先に漂ってきた。 やっぱり予想通り誰もいない。 木の床を踏む自分の革靴の音だけが館内に響く。 ……あれ? 気のせいか…、奥の書棚の方からも靴音が聞えたような…。 図書館に入って数歩の所で足を止めて耳を澄ます。 するとやはり自分以外の足音がもう一つ聞こえた。 誰がいてもおかしくはないのに、何故か立ち止まったまま書棚の方を窺い見ている自分がいる。気にしないで奥へ進めばいいのに、その気配が妙に気になって仕方がない。 そうこうしている内に、奥の書棚から足音の主が姿を現した。 「……あ」 「………」 俺の声に気がついたのか、その人も顔を上げてこっちを見た。途端に鋭くなる表情。 …………え? 「木崎さん?」 奥から姿を現したのは木崎さんだった。 近づこうとしたけれど、木崎さんの顔に浮かんでいる表情があまりにも堅くて、一歩踏み出したところで足が止まってしまった。 まるで敵対する相手にでも向けるような顔。 どうして…。 多少視力が悪いとは聞いていたけど、この距離で俺だってわからない程ではないはず。 いまだかつて向けられた事のない負の視線に、全身を緊張感が覆う。 俺が固まっている内に木崎さんが動き出し、ゆっくりとした足取りで近付いてきて目の前に立った。 「今、時間いいか?」 「はい、空いてますけど…」 「それならちょっと話がある」 冷たい、冷たすぎる声。なんの温度も感じられない抑揚のない声。 そして、話すのも面倒くさいとでも言うような冷え切った眼差し。 …木崎さん? そう言葉にする前に、木崎さんが歩き出した。 茫然と立ち尽くす俺の横を通り抜けて扉へ向かい、先に外へ出て行ってしまう。 目の縁がじわりと熱くなる。訳がわからない。情けないけど、涙が出そうだ。 何がなんだかわからないまま、ともすればもつれそうになる足を必死に動かして後を追った。 図書館を出ると、もう木崎さんはかなり向こうへ行ってしまっていた。 まるで俺を無視したような行動。 あれは本当に木崎さんなのか? そう思ってしまうくらいに別人のような態度。 怖くて…、とにかく怖くて…、その背を追って走り出した。 そして木崎さんが立ち止まったのは、図書館を出て少し行った場所、中庭。 噴水の前で佇む姿は、やっぱりどう見ても木崎さんその人で。 俺が白昼夢を見ていて、実は木崎さんじゃなかった…なんていう夢落ちへの希望は、すべて崩れ落ちた。 俺が横に立っても木崎さんはずっと噴水を眺めたまま。その眉は顰められ、張り詰めた空気が辺りに漂う。 一昨日から今日までの間にいったい何が起きたのか…。 じゃあな、って言いながらいつものように笑みを見せて帰省した一昨日。 それが今日は凍てついた瞳に変わっている。 胸の内に広がる焦燥にもどかしさを感じて口を開いた瞬間、それまで噴水を見ていた木崎さんがこっちを向いた。 発しようとした言葉は喉奥で詰まり、改めて正面から向けられたその眼差しに息を飲む。 「…木崎さん、あの、」 「響也。長かった夏休みも終わったところで、お前との恋愛ごっこも終わりだ」 「…………え?」 言葉が、理解できない。 恋愛ごっこ?終わり?…………何が? 一瞬、クラリと眩暈がした。 なんて、冗談に決まってんだろ。 そう言って、固まった俺を見て笑いだすんじゃないか。 その一縷の希望は、変わらない木崎さんの冷たい表情を見てすぐに消え失せた。 「いくらお前でも、やっぱり一ヶ月近くも一緒にいると飽きるんだよ。昨日、新しい相手も見つけた。お前とはもう終わりだ。未練残されても面倒くさいから、今後一切俺には関わるな」 「………」 腹の奥底からこみ上げてくる何か。重い鉛のような何かが、グッと喉まで迫り上げてくる。 飽きた。 新しい奴を見つけた。 終わり。 関わるな。 ………目に映る景色が、全て真っ黒に塗りつぶされてしまったように感じる。 これは何?夢? 茫然と木崎さんを見ると、視線を合わせる事もしたくないとばかりに目を逸らされた。 「話はそれだけだ。じゃあな」 低い声で呟くように吐かれた言葉は、耳を通り過ぎて心に突き刺さる。 身を翻して立ち去る木崎さんの後ろ姿には、あからさまに拒絶の気配が色濃く漂い、とても引き止める事など出来なかった。 「…なんで…、…どうして」 ようやく声が出た時には、もう自分一人しかいなくて…。 情けないほどに掠れて弱々しい声は、噴水から流れ出る水の音にかき消された。

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