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canon34
§・・§・・§・・§
9月も下旬に差し掛かろうという頃。
放課後になり、珍しく一人で行動していた木崎は、自分にとって最悪な思い出が残っている図書館へ足を向けていた。
様々な資料が保管されている図書館。
9月が始まってすぐに行われる生徒会役員投票。やはり誰も疑問に思わないくらい当たり前のように生徒会長という役職を続行する事になった立場上、訪れないわけにはいかない場所。
ここに来る度、響也との最後のやりとりを思い出す。
そしてここに来る度、自分の犯している過ちと後悔、でもそうしなければいけないという葛藤が全身を針のように貫いてくる。
この苦しみが、まるで響也への贖罪にも思えて…。
一人だという状況に気を緩め、それまで無表情を取り繕っていた顔に苦渋の表情を浮かべた。
静かに開けた木の扉。それでも年代味を帯びた扉は多少の音を立てる。
相変わらずの静寂と、落ち着く蔵書の匂い。
館内へ入ってすぐ止めた足を、再び動かして奥へ進んだ。
本棚の並ぶ一角に、4席用の大きな机が10個ほど設置されている。
何気なくそこへ目をやった木崎は、普通に流れゆくはずだった視線をピタリと止めた。その双眸が、徐々に驚きに見開かれる。
いちばん奥の机。ちょうど窓から差し込む夕日がその机だけに当たり、そして、そこにうつ伏せて眠る人物を優しく照らしていた。
漆黒の髪は、今は夕日に当たって赤みを帯びて見える。両腕に乗せている横向きの顔がこっちを向いている為に、整った綺麗な顔が見えた。
…いや、実際には夕日の逆光で影になっていて、顔立ちはそこまでハッキリとは見えない。
だが、木崎にはそれでも誰なのかがわかった。
わかってしまった。
「………響也」
ポツリと呟いた名前は、あまりに掠れて小さかった事もあり、館内の静寂に飲み込まれて消える。
呼ばれた本人に届いた様子もなく、響也はスヤスヤと眠ったまま。
まるで石のように固まってしまっていた木崎は、風に流れる雲によって窓から差し込む夕日が影になった瞬間、ハッと我に返った。
そして気が付く。
まるで吸い寄せられるように歩き出していた己の足に…。
眠る響也の真横に立ち、その姿を見下ろす。
こんなに近くで見るのは、夏休みを終えたばかりのあの最悪の日以来だ。
いつもは凛とした強気な眼差し、そして時に不安に揺れる眼差し。
それが閉じられている響也の顔は、常よりも幼さが強調されていた。
…もう、こんな近くで会う事はないだろう、そう思っていたのに…。
好きで、好きで好きでたまらなくて。でも、もう触れてはいけない存在。
そう思っていても、ここまで近づいてしまえば自分の気持ちは抑えられない。
寝ている響也を上から覆うように机に手を付き、身を屈める。
更に近付いた無邪気な寝顔に、泣きたくなるほどの激痛が胸を襲った。
「……ッ」
全身が響也を好きだと訴える。
あまりの愛しさに目が眩みそうだ。
触れたい。
抱きしめたい。
閉じ込めてしまいたい。
ギリギリと痛む胸、溢れだす想い。
こらえきれず徐々に顔を近づけていく自分が抑えられない。
でも、もう少しでそのこめかみに唇が触れようとする寸前、最後に残った僅かな理性が警告の声を上げた。
己の欲望の為に響也の未来を潰すのか?…と…。
「…クッ…」
奥歯をギシリと食いしばり、渾身の力を振り絞って身を起こした。
離れる瞬間、自分の体の一部をもぎ取られるかのような喪失感と痛みが全身を襲ったが、それでも、ここで響也に触れてしまえば別れた意味がなくなる、と、全ての想いを捩じ伏せた。
あと1分でもここにいたら、たぶん、もう自分を抑える事は出来なくなる。
それがわかった木崎は、目的の資料を手にする事なく、踵を返して図書館を後にした。
…カタン…。
その小さな物音が、意識の覚醒を促した。
「……ん…」
浮上してきた意識と共に、ゆっくりと瞼を押し開く。
数度瞬きを繰り返しながら身を起こすと、図書館の中だとわかって思わず苦笑した。
課題の曲について調べようとしたら、いつの間にか寝ていたらしい。
緩く首を横に振って眠気を飛ばすと、眠りから覚めるきっかけとなった音を思い出して視線を扉へ向けた。
さっきの音は、扉が閉まる音…?
俺が寝ている間に、誰かが来たのかもしれない。
利用者数は少ないとはいえ、誰も利用しないわけではない。人が来てもおかしくはない。
もしかしたら寝ているのを誰かに見られたのかもしれないと思うと、少しだけ羞恥が襲ってくる。
参ったな…と前髪をかき上げようと腕を動かした瞬間。
「……え?」
揺れた空気の中に、フワリと何かの香りが漂った気がして身動きを止めた。
この匂いは…、この香水の匂いは…。
「……嘘…だ」
目を見開き、勢いよく立ちあがった。
後ろで椅子がガタンっと倒れたが、それを気にするどころではなかった。
「…木崎…さん?」
ありえない。そんなはずはない。
そう思いながらも、扉へ向かって体が動き出そうとした。
でも、倒れた椅子の足に躓いてその場に留まってしまえば、こんな近くに残り香が感じ取れるほど木崎さんが俺に近付くなんてそんな事は絶対にない、と、頭が冷えた。
同じ香水をつけている人なんて、他にもいる。
木崎さんが俺に近付く…だなんて。ありえない、よな。
もう振られたのに、都合よく思い違いをする自分が本当にどうしようもなく、愚かしい。
痛む胸元をギュッと手で握り締めて俯いた。
ようやく、忘れられると…諦められると思っていた矢先、それを阻むようにこんな事が起こる。
…どうすれば…、どうすれば忘れられるんだよ…ッ…。
表に出せない、声にならない胸の奥の慟哭。
全ての事柄を木崎さんに結びつけてしまう程、まだこんなにも未練がある。
叫び出したい想いを溜息と共に吐きだして、崩れるように床にしゃがみ込んだ。
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