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canon35
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厳しい顔つきをして手元の資料を眺めている藤堂。
だが実際には、その資料を全く読んでいない事が飛奈にはわかっていた。
この数日、前にも増して幼馴染の様子がおかしい。
こうなる要素はただ一つ。音楽科の湊響也の存在だけだ。
藤堂がここまで精神的に左右されるのは、彼の事しかないだろう。
飛奈はそう確信していた。
そして、それを確信している自分に情けなさが込み上げる。
自分達のこれまでの長い年月はなんだったのだろう…と。
突然現れたたった1人の後輩が、全てを攫っていってしまった。
今まで他人に対して負の感情を持つ事はなかった飛奈だが、今回だけは無理だった。
湊響也に対して、溢れるほどの苦々しさと煩わしさを感じる。
そんな自分がひどく醜くなってしまったようで、自己嫌悪のループにはまっていく。
どうすればいいのか…、自分の行動が自分で決められないなんて初めてだ。
そんな飛奈の口から、無意識にポツリと言葉が零れ落ちた。
「……音楽科の人間の事なんて、放っておけばいいじゃないですか」
「瑞樹?」
彼らしくないセリフと小声だったこともあり、聞き間違えかと藤堂はいぶかしむ眼差しを飛奈へ向ける。
「尚士が苦しむ必要はないと思います。…なんで…、なんでそんなにあの子の事ばかり…」
「…瑞樹…」
他人を思いやる優しい飛奈の口から出たとは思えない言葉の連なりに、さすがの藤堂も驚きを隠せなかった。
持っていた資料を机の上に置き、飛奈へ向き直る。
「どうした、何かあったのか?」
真剣で、そしてどこか自分を案じてくれているような声色に、一瞬で飛奈の目が覚めた。
…自分は今、何を言った?湊君の事なんて放っておけと、そう言わなかったか?
そんな事を口走ってしまうくらいに、自分は汚い人間になってしまったのか…。
感情が制御できないなんて、こんな事は初めてで泣きたくなる。
「………すみません。今のは聞かなかった事にして下さい。…ちょっと、混乱したみたいです」
取り繕った笑みを浮かべた飛奈を、藤堂は心配そうに見つめた。
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朝。教室へ向かう廊下の途中。響也は、目の前から来る人物に目を奪われていた。
容姿は至って普通。目立つところは何もない。
それが何故目を奪われたかというと…。
「ラーラララ~」
口でメロディーを奏でながら、そこに無いはずのヴァイオリンを弾いている仕草をしているからだ。いわゆる“エアーヴァイオリン”状態。
久し振りに会うと、やはり強烈の一言に尽きる。ヴァイオリン科教師の長嶋先生。
外見は、普通にスーツを着た40代中頃の男性なのに、行動がおかしい。いつ見てもエアーヴァイオリンを弾いている。
そのまま廊下を歩いているのだから、目を引かない訳がない。
「ラララ~ララ…っと、湊君じゃないか。コンテストに向けた調子はどうだい?」
「おはようございます。調子は…まぁまぁです」
話している時には普通に戻る事がせめてもの救い。これで話しながらも弾かれたなら、俺は逃げると思う。
多少引き攣っているだろう笑顔を浮かべていると、クラシックをこよなく愛する長嶋先生の講釈が始まった。
「クラシックは本当に素晴らしいと思わないかい?今の音楽業界の中で、300年後や400年後にまだ継がれている曲は果たしてあるのか?それを考えると、クラシックの巨匠たちは凄いだろ。何百年もかけて何世代にも継がれているものを、1人の人間の一生だけで勉強しきれるものじゃない。あぁ…俺は心の底から不老不死の薬が欲しいよ」
「そ…そうですね…」
いつかこの先生は違う方向へ行ってしまうような気がして怖い。
とりあえず「それではまた」と会釈を返して、早々に立ち去った。
背後からまた長嶋先生の歌声が聞こえ、そして遠のいていく。
声が聞こえなくなった時点で、周囲の人間も含めて皆が一様にホッとしたように溜息を零したのがなんとも可笑しかった。
コンテストか…。
朝、長嶋先生から改めて言われ、改めて自覚した。
コンテストは12月の下旬。もう3ヶ月をきっている。
程々に掴めてきてはいるものの、自分が満足するまでには到底近づいていない。
あと3ヶ月の間、今まで以上に頑張らなければ優勝を狙う事は難しいだろう。
個人練習帰りの夜。寮棟の廊下を歩きながら、今日の練習成果を思い描いて自嘲した。
そんな時。
「あ、響ちゃんだ」
上の階からおりてきた棗先輩と、出会い頭に遭遇。
確か、こうやってまともに会うのは三週間振りくらいになるんじゃないだろうか。
この前会った時に棗先輩は、木崎さんのあの行動は本心からのものじゃない、と言った。
今となってみれば、それを信じる事さえもう難しい。
下手に希望を持たない方がいい。忘れた方が楽になれる。
そう自分に言い聞かせた。
「こんばんは。…どこかに行くんですか?」
ふと見れば、棗先輩の格好はいまだに制服のままだった。それに、先輩の部屋がある上の階から下りてきたという事は、またどこかへ行くのだろう。
もう9時になる。個人練習時を抜かした基本的な寮の門限は10時だというのに、いったいどこへ…。
不思議そうに先輩を見ると、何故か一瞬だけ気まずそうに視線を逸らされた。
先輩がこんな対応をするのは珍しい。
「何か問題でもあったんですか?」
「うん、いや、そんなんじゃないんだけどね。…まぁ気にしないでよ」
「………」
今更取り繕うようにニッコリ笑われても信じられるわけがない。
だからと言って、俺がどうにかできる訳じゃないけど。
「良い子は早寝早起きだからねー。夜更かししちゃダメだよ~」
俺の肩をポンポン叩いてから、棗先輩は颯爽と下の階へおりていってしまった。
その姿が見えなくなると同時、突然、何かイヤな予感が胸に湧きおこった。
自分でも何故そんな感じがしたのかわからない。棗先輩の態度が少し変だったからかもしれない。
…棗先輩から繋がるのは………。
…
……
………やめよう。これ以上考えてはいけない。
脳裏に浮かびそうになった影を頭を振って消し去ると、今度こそ自分の部屋へ向かって歩き出した。
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