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canon37
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“木崎会長が今世紀最大のスランプに陥った”
そんな噂が音楽科全体に広がった。
その話を都築から教えてもらった時に思い浮かんだのは、数日前の夜、棗先輩と寮の廊下ですれ違った時の事。
あの時の棗先輩の何かを隠し含んだような様子、あんな時間にどこかへ行こうとしていた怪しい行動。
やっぱりあれは、木崎さんに関わる事だったのかもしれない。
…スランプって、どうして…。
中等部の頃から今日まで、木崎さんがスランプに陥ったなんて聞いた事がない。
あの人は天性のものを持ちながらも努力家だから、何か困難にぶつかった時でも、“天性の才能”か“努力”のどちらかで全てを克服してきた。
それが、突然こんな…。
焦燥感と不安が、小さな苛立ちを誘発する。
授業を受けていても、気になって気になってそれどころじゃない。
木崎さんが苦しんでいるかと思うと、いてもたってもいられなくなる。
俺が困難にぶつかると、いつもさりげなく引っ張って軌道修正してくれた木崎さん。
その木崎さんがスランプに陥っているなんて…。
どうにかしたい。でも、もう俺は木崎さんには関われない。
もどかしいジレンマが、心の底でジリジリと焼けつく。
木崎さんに振られてから一ヶ月。
思いきろう。
思いきれない。
いや、もういいかげんに忘れるんだ。
どうしても忘れられない。
こんな事の繰り返しばかりだ。
どうする事が一番いいのか、もう、わからない。
英語の授業を受けながら、泣きたくなるくらいに動揺している自分の情けない表情を隠したくて、開いた教科書に顔を伏せた。
午前の授業が全て終わったところで、落ち着いて椅子に座っている状態の限界が来た。
お昼だ~とばかりに楽しそうに盛り上がるクラスメイトを尻目に、とにかく1人になれる場所を求めて教室を出る。
廊下の角を曲がって階段を上り、踊り場に差しかかった時、
「……ッ」
上から下りてきた誰かとぶつかりそうになってしまった。
咄嗟に避けようとしたはいいが、踊り場に両足が乗ったばかりの状態で後ろにさがればどうなるか。
…落ちる。
グラッと傾いた重心に、冷ひやりとした何かが背筋を走る。
「…っと、危ないなぁ響ちゃん。しっかり前見ぃひんと、ホンマに怪我しはったらどないするん」
そう言いながら俺の二の腕を掴んでグイっと引っ張ってくれたのは、たった今ぶつかりそうになった相手。
落ちそうになった恐怖にドキドキと鼓動を刻む心臓。それに気をとられながらも、この独特の話し方をするのが誰なのか間違えるはずもなく。
「…柳…先輩」
見上げた先に、最近では見慣れた柳先輩の顔があった。
口角が僅かに下がっているという事は、呆れているのだろうか。
まぁ、それはそうだろう。この前は廊下でぶつかり、今度は階段でぶつかる。
どこかの小さな子供じゃないんだから。
「すみません。ありがとうございました」
安堵混じりに礼を言えば、フゥと溜息を吐かれてしまった。
挙句の果てには、
「大方、木崎の事で頭いっぱいやったんやろ」
なんて言われる始末。
合っているだけに否定もできない。
こんなんじゃ木崎さんとの事だけじゃなく自分の音楽もダメになってしまう。
…俺はともかく…木崎さんはどうしてスランプになってしまったんだろう。
俯いてそんな事を考えていると、突然、ギュっと強い力に体を締め付けられた。
柳先輩に抱きしめられたとわかったのは、その数秒後。
「…なっ…にを、柳先輩?」
「あいつの事なんて放っておけ」
「え?」
柳先輩の標準語にも驚いたし、その内容にも驚いた。
でもそれよりもっと驚いたのは、柳先輩の顔。
抱きしめられた事によって、いまだかつてない程の近距離で見上げる事になった為、普段は長い前髪に隠されている素顔を間近で見る事になってしまった。
たぶん、まともに素顔を見たのはこれが初めてだと思う。
ヌボーっとした雰囲気とフラフラしている様子からは、とても想像がつかないほど整った顔。
全体的にスッキリしているが、和を醸し出す黒曜石の瞳からは清廉さを感じさせ、整った柳眉とスッキリ通った鼻筋が全体的に調和し、凛とした桔梗の花をイメージさせる。
わかりやすく言えば、洋風な顔立ちの木崎さんとは対照的な雰囲気を持った美青年だという事。
抱きしめられている状態への抵抗も忘れて呆気にとられていると、何故か柳先輩は顔を近づけてきて…、
「…え…、待…っ…」
優しく唇が塞がれた。
自分の体温が高いのかひんやりと感じた柳先輩のそれは、触れた後すぐに離れたものの、だからといって無かった事にはならない。
…どう…して…。
混乱した頭で唯一良かったなと思えたのは、昼休みの移動が落ち着いた頃だったのか周囲に誰もいなかったこと。
だが、そんな事を考えていられたのはほんの2秒くらい。
目線を上げた先で柳先輩の唇が視界に入った途端、カッと顔が熱くなった。
「柳先輩!?」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃなくて!」
「親愛の口付けやさかい、そないに動揺せんでもえぇやろ」
「…親愛って…、いや…でもやっぱり…」
親愛のキスって事は、こうやって変に意識している俺の方がおかしいのか?
深く意味を考えようとする事が間違ってるのか?
いやでもだからってキスなんて普通はしないよな?
…なんだかわからなくなってきた…。
これで柳先輩に何かしらの態度の変化でもあれば完全に意識してしまったものの、実際はまったくいつもと変わりない柳先輩で、だからこそ、動揺している自分だけが意識しすぎているような気がして、それがまた恥ずかしい。
こういうのを自意識過剰というのだろうか。
頭の中でグルグルと考え込んでいる内に、背に回されていた手が外されて柳先輩が離れた。
そして軽く頬を撫でられる。
「とにかく、これ以上木崎に振り回されるんは、やめにしとき」
「俺は、別に」
「隠さんでもえぇ。ただ、視野を狭める事だけはせぇへんようにな」
「……はい」
視野を狭めるな。
その言葉が、重く心にのしかかった。
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