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canon40

§・・§・・§・・§ 「瑞樹」 突然呼ばれた飛奈は、何故かとてつもなく嫌な予感に襲われた。 放課後の生徒会室に入って仕事を始めてから、まだ10分ほど。 手を止めて顔を上げた藤堂の顔には、どこか昨日までとは違うものが潜んでいるようで…。 思わず息を飲んだ。 「…な…んですか」 「お前にだけには隠さず伝えておこうと思う。音楽科の湊響也と、付き合う事になった」 「……ッ」 耳の奥で響いたキーンという不快な音が、一瞬だけ全ての音を掻き消した。 …尚士と湊君が、付き合う事に…なった…? 聞き間違い? いや、ハッキリそう聞こえた。 「瑞樹?」 怪訝そうな藤堂の声にハッと我に返る。 それでも、資料を持っている手の震えは治まらない。 とにかく落ち着こうと、手をグッと握り締めて震えを止め、奥歯をきつく噛みしめた。 「…そう…ですか。…尚士は、湊君の事、気にかけてましたし、…良かった…ですね」 心にもない事を口にする事が、これほどまでに苦しいとは。 どうやっても笑顔までは作れない。 このままここにいたら、遅からず本音が漏れてしまうだろう。 「…すみません、受け取ってこないといけない資料があったのを忘れてたので、ちょっと行ってきます」 「あぁ、わかった」 藤堂の応えを背に、逃げるように生徒会室を出た。 いちばん起きてほしくなかった事態が、現実のものとなってしまった。 あまりに湊君の事を気にかける尚士の様子から、まさか…とは思っていたけれど、本当にこうなってしまうなんて…。 動揺で胸の内がグチャグチャになったまま、飛奈は一般棟を飛び出した。 資料を取りに行くだけなら、すぐに戻らなければおかしく思われるだろう。 でも今は、そんな事すらどうでもいい。とにかくあの場から逃げ出したかった。 茫然としたまま早足で歩を進め、気が付けば背後に一般棟、横に中庭、斜め前方に音楽棟が見える小道まで来ていた。 1人になって、少しだけ頭が冷える。 「…尚士と湊君が…」 衝撃が去った後の、なんとも言えないこの空虚感。自分の半身が消えてしまったような…心にポッカリと空洞が出来てしまったような感覚。 これから先の時間どころか、今まで過ごしてきた二人の時間までもがなかった事になってしまった気がする。 思い返してみれば、どうしてこうも盲目的に、自分達二人はずっと一緒の道を歩んでいくだろう…なんて思い込んでいたのだろう。 言葉で交わした訳でもないのに、尚士は自分のものだと当然のように思っていた。 …なんて恥ずかしい勘違いをしていたんだ…。 ずっと助けられてきた事で、自分の守護者だとでも思っていたのか。 情けなくて恥ずかしくて、自嘲がこぼれ落ちる。 その時、 「普通科の副会長はんやおへんか」 聞こえた声に顔を上げると、中庭の小道から音楽科の柳聖人が姿を現した。 これにはさすがに飛奈も驚きを隠せず、相手が近づいてくるのを瞠目したまま見つめる。 この人物の存在は、普通科でも有名だ。 木崎達と違って表に出ない分、謎の有名人として数々の噂が飛び交っている。 「飛奈がそないな顔してはるなんて珍しいなぁ、どないしはったん」 「柳さん」 横に来て顔を覗きこまれた瞬間、つい咄嗟に顔を俯かせてしまった。 今の自分は醜い顔をしているだろう。それを見破られるのが怖い。 すると柳は何を思ったのか、飛奈の手首を掴んで歩き出した。 お構いなしに進んでいく柳に引っ張られ、問答無用で着いていく事に。 「まぁここに座り」 「…はい」 何がなんだかわからないまま中庭のベンチに座らされた飛奈は、同じく隣に腰を下ろした柳を窺い見た。 前髪が邪魔で全く表情がわからないが、たぶん、今はなんの表情も浮かべていないと思う。 飛奈が知っている柳という人物は、基本的に何かを気にかける事もなく、何かに執着する事もない。 こうやって自分を呼びとめたのも、単なる暇つぶしか何かだろう。 名前の通り、本当に柳のような人だ。つかみどころがない。 そんな相手をボーっと見つめていたら、不思議そうに首を傾げられた。 「ホンマにどないしはったん?」 穏やかな口調に、張り詰めていた心がホロリと崩れたのが自分でもわかった。 何も考えられないまま、意志の外で唇が勝手に動き出す。 「…先ほど、尚士から告げられたんです」 「………」 「湊響也君と付き合う事になった、と」 「……へぇ…、それは驚いたな」 そこで飛奈の目がハッと見開かれた。 …今、僕は何を言った? 今、言葉を返してきたのは、…ダレ…? それまでの柔らかい口調から一転、柳の口からこぼれ出た硬質な響きの標準語に、飛奈の意識が覚まされる。 ギシリと音を立てそうな首を動かして柳を見ると、すでにその顔は正面へ向けられていた。 「…手ぇ出すな言う言葉、忘れはったんやろか」 その呟きが藤堂へ向けられたものだという事は、飛奈にもはっきりわかった。 背筋を冷や汗が伝い落ちる。なんだろう、この押し寄せてくる威圧感は。 畏怖ともいうべきそれに、無意識に息を飲む。 「…今のは、尚士の為にも、絶対に誰にも言わないで下さい」 「そない面白う無い話、僕が言うわけないやろ。周りに知られはったらロミオとジュリエットや。響ちゃんが苦しむのは見とうない」 柳の言葉に、ひとまずホッとした。 何を考えているのか全くわからないこの相手。 互いの根底にある思いのベクトルは違えど、他人に言いふらす気は全くないという部分は同じ。 二人の事が周囲にバレず、藤堂の立場が悪くならないならそれでいい。 安堵に体の力を抜いた飛奈だが、ふと湧いた疑問に再度隣を見た。 何事にも興味なく関わる事もなく執着もない。…はず。 それが、今なんと言った? “響ちゃんが苦しむのは見とうない” それはいったい…、どういう…。 さっきまでとは違う意味で固まってしまった飛奈には、前髪で隠された柳の眼差しが鋭いものへ変化したなど到底気付けるはずもなかった。

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