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canon45
「できましたけど、起きられますか?」
「病人扱いするなよ。問題ない」
ミニカウンターキッチンから身を乗り出して聞くと、木崎さんらしい答えが返ってきた。
しっかりした足取りでベッドから下り立ち、カウンター前に置いてあるスツールに座る。
卵粥の入った器にレンゲを添えて目の前に置くと、立ち上る湯気を見た木崎さんはゆっくりと口に運びだした。
味見はしたけれど、木崎さんの好みの味じゃなかったらどうしよう。
変な緊張感と共に様子を見ていると、無言で食べていた木崎さんが下を向いたままフと笑いを零した。
「……そんなに見つめんな」
「え、いや、あの、」
「美味い」
「……ッ」
顔を上げて俺を見つめたまま言った一言に、やられた。叫びそうになる。
卵粥を美味いと言われただけなのに、どこかへ隠れたくなるくらいに恥ずかしい。
なんだよこれ。おかしくなりそう。
この人の事が好きだと、好きで好きでどうしようもないんだと…、俺の中の細胞全てが訴えてくる。
…もういいや。木崎さんが誰と付き合っていたって、俺のこの気持ちは変わらない。
誰を騙せたとしても、きっといちばん騙せないのは自分自身の心なんだと、今ようやくわかった。
本当に今更だけど、心の置きどころを見つけた気がする。どこに置いていいのかわからなかった感情が、ある場所へストンと落ち着いた。
そんな事を思っている内に、けっこうたくさんあったはずの卵粥は、全て綺麗に木崎さんの腹へ消えていった。
もう一度「美味かった」と言った木崎さんが、シャワーを浴びてくるとバスルームに消えた後、部屋で一人になって気付いたのは、もう俺がここにいる必要はないという事。
洗い物をしたら、ここを出ていくんだ。
片付けをしながら自分に言い聞かせる。
そうでもしないと、いつまでもここに居座ってしまいそう。木崎さんの傍から離れられなくなってしまう。
出来る限りゆっくり片付けをしたって、かせげる時間なんてたかがしれてる。
バスルームのドアが開くのと同時くらいに、片付けの最後だったレンゲを引き出しへしまった。
黒のスウェットを穿き、上半身は裸。濡れた髪をバスタオルで拭きながら姿を現した木崎さんは、キッチンから出た俺と擦れ違いざまに腕を掴んできた。
「お前に話がある」
そう言って俺を引っ張りながら歩き出し、ベッドに腰を下ろす。
バスタオルを床に落として乱れた髪を手で撫でつけながら、鋭い視線が俺にも座れと言ってきた。
それに従って隣に座りながらも、落ち着いたはずの心臓がまた嫌な鼓動を刻みだしたのを感じ始める。これまでの経験上、木崎さんから「話がある」と言われて良い話だった事はほとんどない。
今度は何を言われるのか。
心の置きどころが定まったからといって、動揺しないわけじゃない。不安にならないわけじゃない。
まるで、ピアノに向かっている時のように真剣な木崎さんの雰囲気に、体が強張る。
でも、緊張していたのは俺だけじゃなかったみたいだ。突然隣から、意識して体の力を抜くような溜息が聞こえてきた。
「…木崎さん?」
「悪い。ちょっとな」
自嘲なのか苦笑なのかわからない笑み。
その表情の意味がわからず見つめていると、もう一度嘆息した木崎さんは、開いて座っている大腿に両腕を置いて俯きながら、今度こそ話を始めた。
「今から話す事は、俺の気持ちの部分も含めて全て真実だという事を先に言っておく」
「…はい」
俺の返事を聞いた木崎さんは、俯き気味だった体を起こし、静かに、そしてハッキリとした口調で、夏休みから今日までの間に起きた出来事を語ってくれた。
…その内容は、俺が思いもしなかったもので…。
木崎さんの親が関わっていた事。俺の退学の事。二条先輩の事。
それらを自分の力では防げなかった情けなさ、悔しさ、俺を傷付ける事しか出来ない自分の存在への疑問。懺悔の念。
隠すことなく全てを教えてくれた。
そして、
「お前が藤堂と付き合いだしたと聞いた時、何かが壊れる感覚を味わった。…親の言う通りにしか出来ない、お前を苦しめる事しか出来ない、自分の感情すら制御できない、…結局何一つ出来ない自分が、どれだけ無力なのかを思い知らされた」
「……木崎さん…」
昨夜の様子を思い出して泣きそうになった。
木崎さんの心の内側は、ボロボロになっていたんだ。
裏でそんな事が起きていたなんて知らなくて…。
…木崎さんは二条先輩と上手くいっていると思っていたのに…。
自分だけが苦しいと思っていた昨日までの自分を、思いっきり殴ってやりたい。
あんなに棗先輩が、木崎さんの本心からの行動じゃないと訴えていたのに、結局信じきれなかった。
常に俺の前を行く木崎さん。何も見えない未来への道で、先へ進んで道標を立ててくれる。
いつもそんなだから…、俺の見えない物が見えている人だから、と、考え違いをしていた。
頭を冷やして考えてみれば、わかったはずだ。
俺と木崎さんは、たった一歳しか違わないのだと。
この人なら完璧だ。この人は強い。この人は間違わない。この人なら…、って…。
そう思っていたのは、きっと俺だけじゃない。
たぶん、棗先輩以外の人はみんな思っていたはず。
全ての人からそんな風に思われてしまったら、それはどれほどの重圧となっていただろう。
なんという暴力的な思い違い。
どれだけ凄くても、俺達と変わらない年齢なんだと。ガキっぽくて当たり前、間違えて当たり前なんだと。この人に対して思う人間はいたのだろうか。
この人の甘えを、間違える事を許している人はいるのだろうか。
出来て当然、失敗しても絶対にそれ以上の挽回をする、生まれ持って鉄壁の理性があると、皆が当たり前のように思っている。
その暴力的思考の筆頭が、
…俺、だ…。
俺が苦しむ事でも、木崎さん程の人なら苦しまないだろう。
俺は子供っぽい感情を持ってしまうけれど、木崎さんはそんな感情は持たないだろう。
…俺達の年齢で、完璧な人間性だなんてありえない。
ありえないのに、俺は無意識の内にそれを木崎さんに求めていた。
どうして俺を苦しめるんだ!って…。木崎さんほどの人が、どうして…、って。
そんなふざけた事を思っていた。
…なんて馬鹿な…。
木崎さんをロボットだとでも思っていたのか。傷つかないとでも思っていたのか。悩む事なんてないとでも思っていたのか。
これまでの自分の全ての言動・行動・考えを思い出して、吐き気がした。
…涙が…溢れてきた。
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