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fantasia3

§・・§・・§・・§ 昨日藤堂さんと話をしてからというもの、頭の中の靄が晴れない。 自分のエゴを押し付けている事が苦しくてたまらない。 でも、これだけはもう譲れないんだ。 昼休みの廊下を歩きながら、ひたすら自分に言い聞かせる。 すぐに揺らいでしまう自分が情けなくて仕方がない。 深い溜息を吐いて廊下の角を曲が……ろうとしたけれど、曲がれなかった。 何故って…、誰かが後ろから俺の襟首を掴んだから。 一瞬息が詰まって咳き込むと、何やら慌てふためいた声が聞こえる。 「うわっ、ゴメン響ちゃん!けっして殺意があったとかじゃないから!?」 「殺意がなくても相手が死んでしまったら同じ事だ」 「ちょっ脩平!縁起でもない事言わないでくれるかな!?っていうか、いつからそこにいたんだよ!」 …いつからそこに…って、それは俺のセリフなんですけど、棗先輩。 掴まれていた襟首が解放されて後ろを振り向くと、ムッとしている棗先輩と、相変わらず無表情の御厨先輩がいた。 棗先輩が「シャー!」と威嚇している猫で、御厨先輩が「フンッ」と鼻先で笑う狐に見える。 「私の目と鼻の先でお前が後輩の首を絞めている。注意するのは当たり前だろう」 「だ~か~ら~、殺意はないの!それに、首を絞めたんじゃなくて、襟を掴んだら偶然にも絞まっちゃったんだって」 「………」 「………」 俺と御厨先輩の目付きが胡乱なものになったのは仕方がない事だろう。 偶然で窒息しそうになった俺はどうすればいいんだ。 俺達の微妙な眼差しに気が付いたのか、棗先輩は気を取りなおすかのようにゴホンと咳払いをした。 「とにかく、僕は響ちゃんに用事があるんだよ。って事で、脩平はハイさようなら」 毎回思うけど、御厨先輩相手によくこういう態度を取れるよな。 手をヒラヒラと振ってにこやかに笑う棗先輩と、それを無表情で見つめる御厨先輩。 この凍てつく空気に気が付かないのだろうか。それとも、気が付いてはいるけれど気にもならないのか。 どちらかといえば、棗先輩は後者な気がする。 居心地の悪いこの場から離れたくても、いつの間にか棗先輩の手が俺の腕を掴んでいるからそれも叶わない。 「私も湊に用事がある」 「は?」 「えっ!?」 凍りついた空気は、御厨先輩の一言で木っ端微塵に吹き飛んだ。 いや、だって、御厨先輩が俺に用事なんて…。ここ最近は、怒られるような何かをした記憶はない…はず。 顔を引き攣らせている俺と、 「ちょっと脩平。響ちゃんは皇志のモノなんだから手を出さないように」 なんて、見当違いな発言をしている棗先輩。 そんな俺達の様子を見た御厨先輩の表情に、疲労が浮かんだように見えたのは気のせいじゃないと思う。 「…棗」 「なに」 「黙れ」 「………ひどッ」 御厨先輩に賛成。棗先輩は少し黙った方がいい。 冷たい眼差しに負けたのか、それとも、これ以上は身の危険が…とでも思ったのか、棗先輩は珍しく、 「わかったよ。今日は僕が引き下がる」 俺の腕から手を離した。 でも去り際に御厨先輩に向かってビシっと人差指を突きつけ、 「脩平には負けないんだからね!」 と叫んだのはなんだったんだろう。相変わらずよくわからない人だ。 棗先輩がいなくなって、ようやく空気が落ち着いた。 御厨先輩と顔を見合わせた瞬間、同時に溜息を吐きだす。 「そんなに時間は取らせない。そこの空き教室で話をしても構わないか?」 「はい、大丈夫です」 穏やかな口調に安心して、数歩先にある空き教室へ足を向けた。 毎日しっかりと掃除されている空き教室は、使用されてはいないものの埃っぽさなどはない。 ただ、机も椅子も無い状態の教室というのは、どこか落ち着かない感じがする。 そんな室内に入って数歩進んだところで、お互いに向き直った。 逸らされる事のない真っ直ぐな眼差しが、御厨先輩の強靭な内面を窺わせる。この人は、周囲からどんな圧力がかかったとしても黒を白とは言わない人だと、そう思う。まさに風紀委員長にうってつけ。 そんな事を思っていた俺の耳に、珍しく物憂げな声が届いた。 「うちの科のトップが必要以上に近づいている事は知っていたが、どうやら気紛れではないらしい。それが気にかかってな」 「御厨先輩の科…?」 誰の事だ?と湧いた疑問は一瞬で消えた。 例え一瞬でも、わからなかった俺は鈍すぎると思う。 御厨先輩は声楽科。そのトップといえばあの人の事だ。間違いなく。 最近では、訳のわからない言動や行動に振り回されて、あの人の肩書を忘れてしまいつつある。 「…柳先輩、の事ですか」 「あぁ、そうだ。あの人が他者に関わる時は、そのほとんどが気紛れだ。すぐに興味を失って関わらなくなる。だが、お前に関しては違う」 「………違う…って、それはどういう…」 「あの人はフラフラとして緩く見えるが、本質は誰よりも冷静で理知的。相手によっては冷淡ですらある」 「………」 「…いずれ、お前に関連する事で途方もない事を言いだすぞ。絶対に」 「…え…」 途方もない事ってなに? 今以上に訳のわからない事を言いだすっていうのか? …無理、俺には対処できません。 都築の言葉が脳裏に浮かぶ。 “高尚過ぎて理解できん” その通りだ。 「………」 「………」 固まってしまった俺を見た御厨先輩は、フゥと嘆息した。 「だから、いつ何を言われても慌てないくらいには、心の準備をしておけ。この数年間、近くであの人を見てきた私が言うんだ、何かをやらかす時はだいたいわかる」 いったい何をやらかすんだ。と思ったのも束の間、俺は気付いてしまった。 「…もしかして先輩…、それを言う為にわざわざ?」 これは明らかに俺に対する気遣いだと。 思い返してみれば、普通科役員との合同会議の時もそうだったし、棗先輩に練習室へ連行された時もそうだった。 御厨先輩は、厳しい中にも優しさがある。 それも、言い方がぶっきらぼうで無表情だから、その優しさが気付かれにくい。 「………何を笑っているんだお前は」 「いえ、なんでもないです」 無意識に顔が緩んでしまったらしい。御厨先輩の顔に呆れの色が浮かぶ。 「とにかく、あの人は悪い人ではないんだが、だからと言って問題児である事にかわりはない。それを常に頭に入れておけ」 「わかりました。ありがとうございます」 「べつに礼を言われるような事じゃない」 つれなくそう言いながらも、先輩のキリっとした目元のすぐ下あたりがホンワリと赤らんだのを、俺は見逃さなかった。 “ツンデレ”という言葉を脳裏に重い浮かべてしまった俺を誰が責めよう。

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