90 / 116
fantasia5
§・・§・・§・・§
翌日の夜。
藤堂さんとの事を話す為に、木崎さんの寮部屋を訪れた。
「失礼します」
その言葉の何が可笑しいのか、突然木崎さんが笑いだしたからちょっとビックリした。
先輩の寮部屋へお邪魔する際の挨拶としては、一般的な言葉のはず。
室内へ足を踏み入れて背後でドアが静かにしまっても、まだ木崎さんから笑いは消えない。
「なにか変なこと言いましたか?」
「その堅苦しいところはいいかげんにどうにかならねぇのか」
「堅苦しいって…」
これは当たり前で、木崎さんが砕け過ぎているんだ。
そう言おうとしたけれど、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた木崎さんに、
「恋人相手にその態度はないだろ」
なんて言われ、更には軽く身を屈めてきたかと思えば触れるだけのキスをされてしまった時には、…もう何も言う事が出来なくなった。
怒ればいいのか照れればいいのか、もしくは喜べばいいのか…。
混乱している俺の顔はかなり面白い事になっていたらしく、思いっきり頬を摘ままれて引っ張られた。
「いッ!」
「変な顔してないで座れ」
「………」
…変な顔。
ショックで固まっている俺のことなんてお構いなしの木崎さんに、背を押されてラグの上に座りこむ。
ミニカウンターキッチンの方へ向かった木崎さんは、前もって用意してくれていたのか、コーヒーメーカーから熱々のコーヒーをマグカップに注いでいる。
本当に何をしていても絵になる人だ。ただコーヒーを注いでいるだけなのに、バリスタに見えてくるのだから凄い。
辺りにふわりと漂い始める香ばしい良い匂いに癒されながら、やはり今日も床の上に散らばっている楽譜を一枚一枚拾い上げて纏めてみる。
あと数枚で拾い終えるというところで、横に腰を下ろした木崎さんが俺の手からそれを抜き取ってしまった。
「どうせ明日になればまた同じ状態になってんだから、放っておけ」
そう言って少しだけ手を伸ばし、壁際の棚の中に無造作に突っ込むその行動。
木崎さんは、感覚に対しては繊細だけど、基本生活の大部分に関しては大雑把なんだと思う。
もしかすると、そういう部分では棗先輩の方が几帳面かもしれない。
そんな事を思いながら差し出されたマグカップを受け取り、礼を言って口元へ。
「俺に話があるって連絡を寄こしたからには、藤堂と別れたんだろ?」
「ッブフ!」
口に含んだコーヒーを噴き出した。あまり量がなかった事がせめてもの救いだ。
俺が咳き込んでいる間に、木崎さんがティッシュで床に零れた分を拭いている。
それを申し訳ないとは思う。でも、今みたいな不意打ちはやめてほしい。
藤堂さんといい木崎さんといい、前置きの必要性を少しは感じてもらいたい。
「…ゴホッ…、すみません」
「ワザと言った俺が悪いと言えば悪い」
「ワザとだったんですか!?」
「…にしたって噴くか?コーヒーを」
「………すみません」
俺が悪いのだろうか…。違うような気がする…。けれどコーヒーを噴いたのは事実だ…。
混乱して項垂れていると、頭の上にポンっと木崎さんの手が乗せられた。そのまま髪の毛をグシャグシャに乱される。
「それは何に対しての謝罪だ?まだ藤堂と別れてませんって謝罪だったら許さねぇからな」
「違います!藤堂さんとは昨日別れました!」
「…へぇ…」
…しまった…。つい反射的に答えてしまった…。
ニヤリと笑う木崎さんと頭を抱える俺。
こんな風に告げるつもりじゃなくて、もっとしっかり色々と話す予定だったのに。
木崎さんといると、俺の予定していた行動は見事に崩される。気が付けばペースを乱され、向こうのペースに巻き込まれている。
あ~、もう…本当に…。
腹いせに、頭の上に乗っている木崎さんの手を払い落として、グシャグシャになった髪を手櫛で整えた。
一度深呼吸をして気持ちを整えてから、木崎さんに向き直る。
「昨日、藤堂さんと別れました。俺が木崎さんの事を好きだって事も、あの人は知ってます。…背中を…押してくれました」
「………そうか」
揶揄めいた調子から一転、木崎さんは静かに微笑んで瞼を伏せた。たぶんそれは素の表情。
ともだちにシェアしよう!