95 / 116
fantasia10
そして、今日もきっちり23時まで練習。
放っておくと朝まで練習してしまう生徒がいるという事で、校舎の練習室は0時で閉まってしまう。
片付けをして練習室を後にし、寮に辿り着く頃にはだいたい23時15分くらいになっている。
ここ最近の変わらないタイムスケジュール。
けれど今日は、部屋を目指して寮の廊下を歩いている俺に、いつもとは違う出来事が起きた。
「あの、湊くん」
「…え?」
背後から聞こえた控えめな呼び声。
振り向いた先に、小柄で華奢な生徒が1人。小走りに近寄ってきた。
見知らぬ相手に多少の警戒心が湧くも、それは次の瞬間、手に抱えていた小さな小箱を渡された事で消失した。
「これ、チョコレートなんです。ブドウ糖を多めに入れてあるから、練習で疲れた時に食べて下さい」
「…え」
頬を赤く染めて小箱を差しだしてくる相手。よくよく見れば、以前廊下かどこかでぶつかった事がある人物だった。
『あ、あの、あの…、僕の方こそスミマセンっ!頑張って下さい!』
あの時も、顔を赤くして照れ臭そうに言っていた。印象深くて、なんとなく忘れられなかった人物。
相変わらずの素朴で可愛らしい様子に、なんだか優しい気持ちが湧いてくる。
「ありがとう。確か前も応援の言葉をかけてくれたよな?」
「…っ!!覚えていてくれたんですか!?」
「覚えてるよ。ビックリしたから」
笑いながら言うと、尚更顔が赤くなった。
それにしても、こんなタイミングで声をかけてくるなんて…、まさか…。
「もしかして、俺が戻ってくるのをずっとここで待ってた?」
「え、あ、あの、お邪魔してすみません!どうしても渡したくて、練習室が閉まる時間もわかってたし、少しここで待たせてもらいました」
健気過ぎる。どうしてここまでしてくれるんだ。
「全然邪魔じゃないけど、逆に嬉しいけど、…なんで俺にここまで」
「え!?…なんでって…、湊君の事を尊敬して憧れているからです!」
「……え?」
いや、ビックリしたなんてものじゃない。
俺の事を疎んで嫌っているという人はたくさんいるけど、尊敬とか憧れとか言われたのは初めてだ。
驚きすぎて目の前の相手をまじまじと見つめていたら、相手も俺の事を驚いたように見上げてきた。
「湊くん、もしかして知らないんですか?」
「知らないって…、何を?」
「湊くんの事を好きで応援している人、結構たくさんいるんですよ?」
「………」
………参った。
口元を片手で覆って顔を背ける。
それでもクスクスと笑い声が聞こえたという事は、俺の顔が赤くなったのはバレバレなんだろう。
見知らぬ相手からの悪意や敵意にはそれなりに慣れているけど、好意には慣れていない。
どうすればいいのかわからない程、とにかく照れ臭い。
「頑張って下さい。本当に応援してます」
「………ありがとう」
礼を言うと、彼はペコリとお辞儀をして去ってしまった。そして、姿が見えなくなってから気付く。
名前を聞いておけばよかった…と。
いつも思うけど、本当に俺は咄嗟の出来事に弱い。
今更追いかけるわけにもいかないし、今度会った時に名前を聞くしかない。
自分のうっかり具合に脱力しながら、今度こそ歩き出した。……が。
「見~ちゃった~」
「なッ!?」
廊下の曲がり角からヌッと顔が現れた。それも半分だけ。
「ふふふふふふふ、見ちゃったよ~、浮気現場~」
「は?何が浮気、…っていうか何してるんですか棗先輩」
顔を半分だけ覗かせて不気味に笑っている棗先輩。
ホラー小説にでも影響されたのか、変な登場の仕方はやめてほしい。
「皇志に言いつけてやろーっと。響ちゃんが鬼の居ぬ間に何かしてるよ~って」
「ちょっ、なにわけのわからない事言ってるんですか」
棗先輩なら本気で言いかねないから危ない。
足早に近づいて、いまだに顔半分だけを覗かせている棗先輩の腕を掴んで思いっきり引っ張った。
「いたたたたっ。響ちゃん意外とS!?Mだと思ってたのにまさかのSなの!?」
「………もう黙って下さい」
壁から引き剥がされた棗先輩が恨みがましい目でこっちを見てくるけれど、そんな事に構っていられない。
「先輩。間違えた捉え方のまま木崎さんに何か言うのはやめて下さいね」
「え~、僕間違えてない」
「間違えてます!」
「いや、俺もちょっと浮気現場に見えた」
「は!?」
またまた突然聞えてきた第三者の声。
棗先輩から手を離して後ろを振り向くと、こっちに向かって近づいてくる人物が一人。
「…都築まで何してるんだよ、そんな所で」
「いい情報をありがとう。会長にネタとして売っておこうかな」
「いや、意味わからないから本当に」
全てにおいて間違ってる。
このままだと変な流れに飲み込まれてしまいそうで怖い。焦って頭を抱え込みたくなるくらいには動揺。
だって、俺が何をした。チョコレートをもらってお礼を言っただけだ。どこに浮気の要素がある。
と、反論したら。
「「顔がニヤけてた」」
綺麗なハモりが返ってきた。
…殴りたい…。
「でもまぁ、響ちゃんにファンがいるのは皇志も知ってるし」
「そうですね。知らぬは本人ばかりって感じですから。会長もこれくらじゃ気にしないかもしれません」
「どうかな~、響ちゃんと両想いになってから独占欲も嫉妬もケタ外れになってるからね~」
「いや、羨ましい話ですよ」
「「あははははは」」
お前らはどこぞの爺さんだ。なんなんだよ、そのワザとらしい笑い方は。
まさか都築と棗先輩がここまで親しいなんて。不覚だった。
「もう好きにすればいい。俺は疲れたから帰る」
その場からスタスタと歩き出せば、背後から何やら「つまんない」だの、「冷たいな湊は」なんて声が聞こえてきたけれど、無視だ無視。
どうやら、さっきもらったチョコレートが早速役に立ちそうだ。これを食べて癒されよう。そうしよう。
脱力しながら片手に持った小箱を眺めると、それだけで心がホンワリと和んだ気がした。
ともだちにシェアしよう!