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fantasia11

§・・§・・§・・§ コンテストまでひと月を切れば、さすがに学院内もそれ一色の空気となってくる。 奏華学院内にある音楽ホールには準備の為の業者が入り始め、毎年の事で段取りがわかっている先生達も、放課後は忙しなく動きだす。 刷り上がったパンフレット見本が各教室を回り、学院外の参加者には当日のスケジュールが記載されているDMが郵送された。 12月18日声楽部門 12月19日ヴァイオリン部門 12月20日ピアノ部門 午前10時開始、午後17時終了予定。 一般客の開場、午前9時。 出場者の集合時間、午前9時。 当日の休息は各自で自由。 夜の就寝時間前、ベッドの上に寝転がりながらタイムスケジュールが書かれている紙を見ている最中、不意にとある事を思い出した。 俺が中等部二年生の時、高等部声楽科の一年生が優勝したと騒がれた事があったけれど、あれってよく考えたら柳先輩の事だ。 当時はまったく関わりのない人だったから、あまり気にしていなかった。 不思議なのは、木崎さんや棗先輩がコンテストを受けるのは今回が初めてだという事。 なんで一年生の時に出場しなかったのか…。あの2人なら確実に入賞しただろうに。 今回は、各部門に錚々たる出場者が揃っている為、歴代稀に見る華やかなコンテストになると前評判が高い。 その為、一般客用のチケット争奪戦が激しく、既にプレミアが付いているとか。 いちばん音が綺麗に聴こえるS席のチケットに関しては、プラチナチケットとまで言われていると噂に聞いた。 審査員にも音楽界の著名人が名を連ね、木崎さんの母親である木崎真弓さんもその中にいる。 身内の審査では甘くなるのではないか?という声も上がったらしいが、木崎真弓という人物を知っている人達が、 『彼女はそう甘い人ではない。身内だからこそ、もっとも厳しい点数を付けるような人だ』 と口を揃えて言ったらしい。 俺達の事を真っ向から反対している人。 親ともなれば当たり前の反応だと思う。でも、これだけは譲れない。…絶対に。 そんな事を考えていたら、いつの間にか意識は眠りのふちを漂い、緩く静かに底の方へと沈んでいった。 そして、紙を握りしめたまま迎えた朝。 変に力が入っていたせいか、目が覚めても頭がスッキリせず、なんとなく疲れて全身が重い。 午後の授業も終えてようやく放課後を迎えた頃には、既に睡魔が襲い始めていた。 練習室に入る前に調べておきたい事があるとはいえ、図書館まで歩くのさえ面倒くさい。 こんな時ばかりは、何故図書館を校舎内に作ってくれなかったんだと愚痴をこぼしたい気分だ。 欠伸を堪えながら、校舎の壁に沿った小道を歩く。 最近雨が降っていないせいで、空気が乾燥している。こんな時のピアノは、変に甲高い硬質な音を奏でるからあまり好きじゃない。 部屋の湿度を少し上げておかないと…、そう思って溜息を吐いた時。 「危ない!」 突然聞こえた鋭い声と、いきなり引っ張られた腕。そして、一瞬後に響いた耳障りな破壊音。 足元に砕け散るレンガ素材の鉢植えと黒い土が、まるでカメラで捉えた瞬間のコマ送りのように視界に焼き付いた。 …な…に…? 「大丈夫か?」 茫然としている耳に、誰かの声が入り込んだ。 我に返ってみれば、背後の誰かに思いっきり凭れかかっている自分がいる。 「…す…みませ…、あ…」 驚きから冷めやらぬままギクシャクと振り向くと、相変わらずの頼もしさを醸し出す藤堂さんと目が合った。 ただ、今はその顔に怒りともなんとも言えない張り詰めた表情を浮かばせている。 背中に当たる藤堂さんの体温と、しっかり支えてくれる力強い腕に安堵感を覚え、ようやく頭がまわりはじめた。 「…この鉢植えが、上から落ちてきたんですね」 「そうだ」 「どうして藤堂さんは、こんな所に?」 「生徒会の関係で用事があって来たところだったんだが、湊の姿が見えて声をかけようか迷いながら近寄った時に上から落ちてくる何かに気付いた。…とにかく、間に合って良かった」 藤堂さんの声には、心からの安堵が伝わってくる温かさがあった。 つられて俺もホッと溜息を吐きだそうとしたけれど、今現在の格好、背後から藤堂さんに抱きしめられているこの状態を思い出して、安心するよりも前に慌てて足に力を入れて飛び離れた。 「あの、すみません、寄りかかってしまって。それと、ありがとうございました」 急いで頭を下げれば、藤堂さんから向けられたのは苦笑いのみ。 あからさまに離れた俺の態度に、そういう表情を浮かべざるをえなかったのだろう。 つくづく俺という人間は馬鹿だと思う。 「気にしなくていい。とにかく、湊に怪我がなくてよかった」 「はい。………あの、これは偶然、」 「じゃないだろう。上を見てみればわかる。どこにも鉢植えなんて置いてあるような場所はない。故意的に誰かが持ってきて落としたのでなければ、存在しないはずの物だ」 「………故意的…」 ぞっとした。 どの高さから落とされたにしろ、こんな物が真っ当に頭に落ちていたら怪我は免れなかっただろう。 それどころか、場所によっては命に関わったかもしれない。 偶然だと信じたいけれど、藤堂さんの言う通り、確かにこの上には鉢植えを置いてあるような場所はない。 「…どうして…」 足元には割れた鉢植え。それに自分の姿が重なって、恐怖を感じた。 「これは冗談で済まされる事ではない。ちょうど今から音楽科の職員室へ行くところだった。教員の誰かに話をしておこう」 そう言いながら、藤堂さんはふわりと優しい仕草でもって俺を抱きしめてきた。 慌てて離れようとしたけれど、 「震えがおさまるまでこのままで」 落ち着いた声でそう告げられて、体の力を抜いた。 言われるまで気付かなかったけれど、どうやら俺は微かに震えていたようだ。 藤堂さんの温かな腕が、心に纏わりついた恐怖という色を拭い去ってくれる。 割れた鉢植えを見て一瞬脳裏に甦ったのは、屋上で腕を折られそうになった時の事。 あの時の焦燥と恐れが、フラッシュバックのように甦った。 また誰かが、傷付けたいと思うほどに俺の事を憎んでいる。 その誰かは、例えば俺が死んだとしたら喜ぶのだろうか。 ………自分の不幸を喜ぶ誰かがいると思い知らされるのは、想像以上に精神にくる。 藤堂さんの腕の中で溜息を吐いて、なんとか気持ちを整えた。 「…ありがとうございます。もう、大丈夫です」 そっと腕を押し離してその内から身を引くと、俺の声が落ち着いているのを感じ取ったのか、藤堂さんからホッとしたような気配が漂ってくる。 「一緒に来るか?」 「いえ、今から図書館に行かなければならないので、1人で大丈夫です。先生の方にも俺から話しておくので、藤堂さんは気にしないで下さい」 藤堂さんが何か言いかけたけれど、大丈夫だと微笑みかければ、開きかけた口を閉じて頷いてくれた。 本当はこの事を誰にも言うつもりはない。 ただでさえコンテスト前で校内がピリピリしているのに、俺の事で騒ぎを起こしてこの緊張感を台無しにしたくない。 だから、申し訳ないけれど藤堂さんには嘘をついた。 「本当にありがとうございました。藤堂さんも生徒会の仕事頑張って下さい」 見下ろしてくる瞳が、気になって仕方がないと訴えてくる。それでも、今ここで何か出来る事はないとわかっているようで、「とにかく気を付けろ」そう言い残して昇降口の方へ歩き去って行った。 藤堂さんの姿が見えなくなってから、もう一度上を見上げてみる。 「………?」 一瞬、3階の窓からこっちを見下ろす人影が見えた気がしたけれど…、気のせいか。 …これだけで済めばいいけど…。 まだ衝撃から抜けきれないまま、周囲を警戒しながらも図書館へ向かって足を踏み出した。

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