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fantasia12
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あの植木鉢落下事件からは特に何もなく、問題も起こらず、ひたすら練習室にこもって最後の調整をした二週間。
全ての音がしっくりとハマるようになり、ここまで仕上がればとにかく弾く事が楽しくなってくる。
自分の指から、思う通りの音楽を奏でられるこの幸福感。
平面に描かれた音符に命が吹き込まれ、まるで生きているように宙を踊る。そんな感覚。
コンテストまであと4日。最高のコンディション。
これがもし20日も前に最高のコンディションを迎えていたら危険だった。
何故って、コンテストまでの3週間ずっとそのコンディションを保たなければならないからだ。
それはキツイ。いちばん上まで辿り着いたコンディションはいずれ落ちる。
だから、今この日に最高の状態へ辿り着けたのは本当に嬉しい。
今なら誰にも負ける気がしない。
…例え木崎さんが相手でも。
大切で、尊敬していて、そして何よりも大切だと思える人。
だからこそ優勝は譲れない。
そんな相手だからこそ、本気でぶつかって、本気で勝ちたいと思う。
ふぅ…と嘆息しながらピアノを閉じ、椅子から立ち上がった。
腕を上に伸ばして、凝り固まった筋肉をほぐす。
もうがむしゃらに練習する時期ではない。今日はこの辺で終わりにしよう。
携帯が表示する21時という時刻。
部屋へ戻ってゆっくりお風呂に入って体を休めたい。
暗譜をしているから見る事はしないまでも、確認の為に持ってきている楽譜を手に取って踵を返した。
その俺の目の前で、誰も来る予定のないはずのドアが、ゆっくりと開いた。
20時半。
梶封馬は、部屋の時計を確認すると顔をヘラリと緩め、抜き足差し足で音を立てずに自分の部屋を出た。
べつにそんな歩き方をしなくてもいいのだが、今から向かう先を思えば自ずとそうなってしまう。
音楽棟にある個人練習室。
今行けば、たぶんまだ湊響也は練習しているだろう。
コンテストを数日後に控えた今、彼の事だから完全に曲を自分のものにしているはずだ。
柳に言われたという事もあるが、それ以上に梶は響也の事が気になって仕方がない。
毅然としているように見える彼は、何故か自分の保護欲をいたく刺激するのだ。
まるで弟のよう。
一人っ子で良かったと思う事は数あれど、兄弟がほしいと思った事はいまだかつて一度も無い。
だが、響也だったら弟にほしい。
そんな事を思うくらいには、彼の事が心配で見守りたくなる。
柳のお気に入り確定の彼に、柳に内緒で会いに行くなど、バレたらどんな嫌がらせをされるかわかったものじゃない。
だからこそ、自然と忍者のような歩き方になってしまう。
どれだけヘタレなんだ俺はっ!
と思わなくもないが、相手が柳なのだからこれはもうどうしようもない。
正面切って対峙できる範囲を超えている人物。これが怯えずにいられようか。
「……それでも、今日は行っちゃいますよー俺は」
小声で呟きながらヘラヘラと笑う。
寮脱出は成功。次は音楽棟への侵入だ。
柳にさえ会わなければ身の安全は保障される。こんな時間のこんな場所で会う確率など、無いに等しい。
校舎内を歩きながら、もうすぐで響也のいる練習室に辿り着けるところまで来た時、静寂が支配する校舎内の奥の方から何かの物音が聞こえた。
他のコンテスト参加者が、練習を終えて出てきたのだろう。
最初はそう思ったが、すぐに違うとわかった。
練習室が並ぶ廊下には誰の姿も見えないからだ。
それなら今の音は?
緩んでいた梶の顔から表情が消える。そして、眼差しが鋭くなった。
この先、廊下の一番奥にあるのは、響也が借りているはずの練習室だ。
音はそこから聞こえたような気がする。
何か嫌な予感がすると思うのは考えすぎか?
止めていた足を再び動かした梶は、さっきまでの忍び足とは違う素早さで、響也のいるだろう練習室へ向かった。
ノックもせず、中にいる人間の応答も確認しないままに勢いよくドアを開ける。
通常ならこれは、非難されてしかるべき行動だ。中の人間の練習を妨げる行為。
けれど、今ばかりはその行動が正しかった事を、梶は目に映る光景から悟った。
「……お…まえら、何してんだよ…」
大柄な生徒が二人。
そして…。
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