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fantasia13

「確かお前、ピアノ科二年の二条志摩、だよな?……そのナイフ、なんで湊に向けてんの…」 ドアを開けた梶の目の前。大柄な生徒二人に羽交い絞めにされた響也と、小型のナイフを持って響也の腕を掴んでいる二条の姿があった。 殴られたり刺されたりはしていないらしい響也の様子にひとまずホッとして、練習室に足を踏み入れる。 そこで、梶は自分の認識が間違っていた事を知った。 殴られたり腹を刺されたりはしてない。 だが、二条が掴んでいる響也の腕、その指先が真っ赤に染まっていた。 「…おい…、なんだ、その血…」 突然の梶の登場に固まっている二条達。 そして、絶望に彩られた表情のまま茫然としている響也の顔。 梶は、自分の脳内で何かがブチ切れる音を聞いた。 「お…まえら…、自分達が何をしたのかわかってんのか!?コンテストは4日後なんだぞ!そんな時に…っ…!」 あまりの怒りに続く言葉が出ない。 楽器を弾く者にとって、指の負傷は例え大ケガじゃなくても痛みがあればそれでもう致命的となる。 それがわかっていながらのこの行為。 響也を落とし入れる為だと、コンテストに参加出来なくさせる為の行為だとわかった梶は、怒りと動揺と焦燥で、握りしめた拳を震わせた。 「…意…味のわからないこと、言わないで下さいよ、先輩。…やだな、それじゃまるでボクが湊君を傷つけたみたいじゃないですか。…これは、自傷行為をしようとした湊君をボクが止めたところだったのに…。ねぇ?」 明らかに動揺の残ったままの笑顔でそう言った二条が大柄な生徒二人に話を振ると、途端にその二人も大きく頷く。 「二条の言うとおりです、俺達は湊の行為を止めようとして、」 「……出ていって下さい…」 言葉を遮ったのは、それまで沈黙していた響也だった。 俯いたまま、感情の無い声で再度言い放った。 「二条先輩、俺はもう大丈夫なんで、出ていってもらえますか」 下を見たまま抑揚無く告げる響也の言葉に、二条はすぐさま飛びついた。 「あ、うん。それじゃお大事にね。もう変な事しちゃダメだよ?」 薄っぺらい言葉と薄っぺらい言い方。 そして三人は、自分達は何も悪い事はしていないとばかりに足早に練習室を出ていってしまった。 これに驚いたのは梶だ。どう見たって二条達のあれは虚言。それなのに何故コイツは二条を庇う? 背後でドアが閉まったと同時に大股で響也に歩み寄った梶は、その手首を掴んで真っ赤に濡れている指先を見つめた。 「…切られてるじゃねぇか、おい、なんであんな馬鹿を庇ったんだ!」 傷口からの血はある程度止まっているようで、まだ滲み出てはいるものの、これ以上の悪化はないだろうと安心したのも束の間、今度は響也に対してどうしようもない苛立ちが込み上げてきた。 だが次の瞬間、響也の口から零れた言葉に梶は唇を震わせた。 「…もし、この件が傷害事件として通報されれば、今回のコンテストは中止になる。それだけは、どうしても出来なかったんです…。…今回のコンテストは、どうしてもやらなきゃいけない。じゃないと、全てが終わってしまうから…」 いまだ俯いたままの響也の言葉に、グッと息を飲んだ。 詳しい事は知らないが、それでもひとつだけ知っている事がある。 それは、いつも余裕をぶちかましている姿しか見せない二年の木崎が、今回のコンテストに向けて死に物狂いで練習しているという事。 あの木崎が、何も顧みずにひたすら練習に明け暮れているという。 余裕のある素振りを作る事なく、いつもだったらそんな必死な姿を絶対に他人には見せない木崎が、なりふり構わず練習しているという事実。 たぶんそれは、この響也の発言と繋がっているのだろう。 それがわかった梶は、何も言う事が出来なくなってしまった。 「他の人や先生達にも内緒にして下さい。……お願い…します」 今いちばん苛立って焦っているのはコイツのはずだ。それなのに、感情を押し殺して、必死になんでもない振りをしている。 「……な…んでだよ…。なんでお前がこんな目に合わなきゃなんねぇんだよ!!」 あまりの悔しさから、梶は普段の緩さからは想像もつかない程の怒りの声を上げた。 「…俺が…もう少し早く来れば、そうすればお前はこんな事にならなかった。ゴメン…っ…」 悔しくて、助けられなかった自分が情けなくて、涙が滲み出てきた。 同じ音楽をやるものとして、これがどんなに大変な事か痛い程にわかる。 荒れ狂う感情のまま、何かを殴りたい衝動に駆られる。それほどまでに悔しい。 どうしようもなく昂る感情。 それを消失させたのは、柔らかく響いた響也の声だった。 「ありがとうございます、先輩。…先輩がここにいてくれて、良かった」 反射的に顔を上げた梶。その目には、微かに笑む響也の顔が映った。 …なんで…、なんでお礼なんて言うんだよ…。俺は何も出来なかったのに…。 言葉よりも雄弁に語るその梶の眼差しに、響也は小さく首を振った。 「俺は大丈夫です。梶先輩が来てくれたから、これだけで済みました。梶先輩が来てくれたから、俺は自棄にならずに済んだ。もし1人だったら、きっと馬鹿な事をしてたと思います」 だから、そんなに自分を責めないでくれ。先輩は何も悪くないんだから。 響也はそう言って、未だ手首を掴んだままの梶の手に、もう片方の手を添えて微笑んだ。

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