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fantasia14

§・・§・・§・・§ 当たり前だが、二条志摩に傷付けられた指先は、コンテスト当日になっても治る事はなかった。 縫う程ではなかった事だけが、せめてもの救い。 包帯の巻かれた左手の指先を見て溜息を吐きだした。 現在の時刻は午前8時半。集合時間まで、あと30分。 一見すると黒に見えるくらいに濃い紺色で、ウエストが絞られた細身のダークスーツ。 中に着ているオープンカラーのデザインシャツが白とはいえ、指先の白い包帯が目立たないはずがない。 触れればいまだに痛みが走る。どう考えたって、こんな状態でまともに弾くのは無理だ。 断続的に襲ってくる絶望と焦燥。 諦めるしかないのか? 諦めたくない。 ダメなのか? いや、なんとかしないと。 頭の中で、二人の自分が戦っている。 こんな傷に負けたくない。 自分に負けたくないのに…。 見て見ぬ振りで気付かないようにしている“弱さ”が、視界の端にチラチラと見え隠れする。 そんなの吹き飛ばしたい、けれど、どうしても吹き飛ばせない。 それどころか、“弱さ”が姿を見せる確率が、刻一刻と増えていく。 一昨日から始まっているコンテストは、いつもながらに奏華の生徒が上位を攫っていた。 当たり前と言えば当たり前。外部参加者の中には、実力不足で奏華に入学出来なかった生徒がかなりの人数でいるのだから。 声楽部門では柳先輩が優勝、御厨先輩が準優勝。3位は空席で、その次が外部参加者だと聞いた。 そしてヴァイオリン部門では棗先輩が優勝。準優勝は空席で、3位が鬼原。その次が外部参加者。 まだ彼らには会っていないけれど、噂によれば、声楽部門の時になんだか大変なざわめきが起きたとかなんとか。 …いったい何があったのか…。 こんな風に意識を他へ飛ばしてみても、結局それは一時的な逃げにしかならない。 携帯のアラームが8時45分を知らせたところで、一度瞼を伏せた。 今の自分に出来る精一杯の事をやるだけ。 無理だろう…とか、弾けるだろうか…とか、そんな事を今考えたって仕方がない。 自分にそう言い聞かせてから、ゆっくりと瞼を開く。 「…よし。行こう」 奥歯をグイッと噛みしめ、会場である音楽ホールへ向かう為に部屋を出た。 奏華の敷地内。一般棟や音楽棟の校舎、そして寮棟が並ぶ場所よりも更に奥。 木立で空間を遮られた場所に、音楽ホールは存在する。 外部の音が入って来ないように、周囲を緑で囲まれた場所。 小道を通ってホールへ辿り着いた時には、ちょうど9時になっていた。 正面入り口からではなく、ホールの側面を回ったところにある小さめの入り口から中へ入る。 そこから入れば、出場者用の控室が並ぶ通路はすぐ横。 足を踏み入れたその通路には、今日のコンテストに出場する人達がもうほとんど集まっていた。 俺が姿を現すと、近くにいた何人かが一斉にこっちを見る。 どんな奴だ?という明らかな品定め。 そして、俺の指先に巻かれている包帯を見つけた瞬間、興味がなくなったように視線を逸らす。 『なんだ…、あれじゃあ競う必要もない』 言外に伝わってくるそんな空気。 気にしない。寮の部屋を出た時点で覚悟は決まっている。もう、揺らがない。 周りの視線など気にもせず控室へ向かう。 だが、そこで思わぬ事が起きた。 廊下の先にある曲がり角から、二条先輩が姿を現した。 さすがに足が止まる。二条先輩を見て平静でいられるほど、大人にはなれない。 向こうも俺に気がついて一瞬立ち止まるも、すぐにまた歩き出した。 近づいてくるその顔には、勝ち誇った満面の笑み。 「湊君。その怪我、大丈夫?頑張ってね」 擦れ違いざまにかけられた言葉に吐き気がする。 突如として噴き上げる様々な感情。 その衝動のまま、二条先輩の腕を捕まえて怒鳴りつけたくなった。けれど、 「あれ?そこの美人なお兄さん、指怪我してんの?」 そんな緩い声に思わず毒気を抜かれた。 なに?と横を振り向けば、すぐそこにあった控室のドアから出てきた人が、俺の事をじーっと見ている。 肩くらいまでの緩いウエーブがかった髪を後ろで一つに纏め、オレンジと金で綺麗なグラデにした派手な頭。背は俺と同じか、少し高いくらい。まるでホストのような雰囲気。 そこでハッと気がついて背後を振り向いたけれど、もう既に二条先輩の姿は見えなくなっていた。 …衝動のままに行動を起こさなくてよかった…。 とりあえず、さっきまでの緊迫感を見事に崩してくれた相手に改めて向き直る。 控室から出てきたということは、この人もコンテスト出場者だろう。 俺の怪我を見て、笑うか呆れるか。 …と思ったのに、目の前まで歩み寄ってきた相手は、正面からまじまじと俺の顔を覗き込み、 「本当に好みの顔なんだけど。ここで会ったのも何かの縁って事で、俺と付き合わない?」 真顔でそう言った。 「…………は?」 なんだこの人。ちょっとおかしい。 全てがフリーズした。 こんな時に敵となるはずの相手をナンパするか?それも男を。 この軽さはなんなんだ。絶対に普通じゃない。 関わってはいけないという脳内からのシグナルを受けて、軽く会釈だけして歩き出した。 「ちょーと待ってよ、せめて名前だけでも教えて。俺は森本シズル。聖ルカ音大付属高等学校二年。よろしく!」 歩き出した俺の前に回り込まれてしまったら、足を止めざるを得ない。 一歳上か…。聖ルカという事は、かなりレベルは高いのだろう。 現在の国内にある音楽高校の中で、他の追随を許さないレベルで奏華がトップ。その次が聖ルカだと言われている。 普通に見れば顔もいいし、たぶん自分に自信があるからこその、この軽さ…なんだろうな。 こういう類の人間は、こっちが答えない限りずっと付きまとってくるだろう。 「……奏華学院一年、湊響也です」 溜息を吐きたい気持ちを堪えて、簡単に自己紹介を済ませる。 出場者同士の義理は果たした…と足を踏み出したけれど、どうやらそれだけでは不満だったようだ。俺の前から一歩も退いてくれる様子はない。 仕方がなく俺が横に避けた。 森本も同じ方向に動いた。 「………」 「………」 本当になんなの…。 顔を上げて見てみれば、にっこりと笑う森本と目が合う。 「奏華の湊っていえば、一年ながらに今回のダークホースって言われてる奴だろ?」 「………は?」 ダークホースって…なに?

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