101 / 116

fantasia16

コンテストに出る者は、5日前から学校に来なくてもいい公欠扱いになる。それをいい事に、俺は誰とも会わなかった。 都築にしてみれば、コンテストに向けて精神集中しているのだろうと思っていた俺が、当日になってみれば包帯なんかを巻いている。それも指に。 驚きや呆れを通り越して怒りもするだろう。 どう言えばいいのかわからなくて黙り込むと、それまで掴まれていた俺の腕が解放され、ハッと溜息を吐かれた。 「もしかして、二条志摩か?」 「…え」 「前からあの人が影でコソコソ何か動いているらしいのは、耳に入ってた。けど、…ここまでするとはな…」 「………あぁ」 そうだった。どんなツテとソースを持っているのか…、恐ろしい程に都築の情報網は発達しているんだった。 詳細はともかく、この怪我が二条先輩にやられたものだと判断したのだろう。 知られているとわかれば片意地を張る必要もなく…、力が抜けた。 背後のドアに背を預けて寄り掛かる。 「…4日前の夜、練習室に二条先輩が来た」 「………」 「一緒に入って来た二人に抑え込まれて、カッターで指を切られた」 「自分で逃げたのか?」 「いや…、ちょうど、声楽科の梶先輩が来て、二条先輩達は帰った」 「………そうか…」 なんとも小狡い。 病院送りにならない程度の傷を付けるところに、腹黒さが滲み出ている。 都築は腹立たしさに小さく舌打ちをした。 「とりあえず、やるだけやる。どんなに無様な演奏になったとしても、棄権だけはしない」 「……湊……」 都築が目を見開いたけれど、そんなに驚く事なのか。 俺にしてみれば、こんな事で逃げてなんかいられない。不戦敗なんてするつもりもない。 「お前の思う通りにやればいいさ」 驚きから立ち直った都築は笑みを浮かべてそう言ったけど、その笑みがあまりに珍しいもので…、今度は俺の方が驚いた。 いつものシニカルじゃない、優しい微笑み。 気恥ずかしさに、思わず目を逸らしてしまった。 そして時刻は9時半を過ぎた。チケットを持った一般客が次々に入場し、席に着きはじめる。 そして俺達出場者も裏口の広間に集められ、今日のコンテストに関する最後の手順確認に入った。 1番から5番までは、このままステージ袖の控室に連れて行かれ、本番に備える。 もらった用紙を見たら、俺は14番で、木崎さんは最後の20番になっていた。 広間に集まった時、長身の木崎さんはすぐに目についた。 それでなくとも目立つ派手で端正な容姿、今回の一番の注目株。俺だけじゃなく、その場に集った全員が木崎さんを意識していたのがわかった。 その姿を完全に視界に入れてしまえば目が離せなくなる事がわかっているからこそ、敢えて違う方向を見る。 そうしたら、いつからこっちを見ていたのか、森本と目が合い、おまけに俺が気付いた事がわかると嬉しそうにヒラヒラと手を振ってくる。 近辺にいた人なんかは、そのあまりの緊張感の無さに呆れた表情を浮かべている。たぶん俺も同じような顔をしていると思う。 お互いに牽制しあい、自分が一番上手いのだと神経を尖らせる。そんな中で、ヘラヘラしている森本の存在は極めて異質。 性格によるものなのか、何も考えていないのか。 …もしくは…、 周囲を気にする必要もないほど自分に自信があるか、だ。 聖ルカの生徒という事は、後者の可能性がかなり高い。 いったいどういうつもりで俺に構うのか。 そんな事を考えている内に時間となり、解散となった出場者達はそれぞれの控室へ戻って行った。 本番まですでに30分をきっている。 都筑は、そろそろ客席の方に戻ると言って広間の手前で別れた。 一人になり、控室に戻って包帯の巻かれた左手を見つめる。 傷は保護され、多少は痛みも軽減できる。でもこんな物をしていたら指先の感覚は掴めないし、鍵盤へのタッチも変わってしまうだろう。 左手を見つめたまま、刻々と時だけが過ぎていく。 気が付けば、コンテスト開始時刻の10時となっていた。 控室にあるミニモニターにホール内の様子が映し出され、ステージ袖から一番奏者が姿をあらわして一礼する。 椅子に座り、位置を調整し、ペダルに足を置く。数秒沈黙して自分の呼吸を整えた彼は、鍵盤に置いた指をそっと静かに滑らせた。 最初の一音から次々と音が繰り出され、やがてそれが美しい旋律へと変わる。 音楽ホール内が、彼の奏でる世界となった。 そして、俺は、 包帯を剥がし始めた。

ともだちにシェアしよう!