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fantasia17

現在の奏者は12番目。 ステージ袖にある控室の椅子に座りながら手を揉みほぐす。 ホール全体に暖房が利いてはいるものの、冬という事に変わりはない。動かさずに放置していると、どうしても指の動きが鈍くなる。 そして改めて、包帯をしていない左手の人差指と中指を見た。かろうじて傷は塞がっているものの、衝撃を与えればすぐに開いてしまうだろう。 そっと右手で触れてみると、鈍い痛みが走った。 正面の椅子に座っている一人が、そんな俺の様子を不思議そうに見ているのが視界の端に映る。 この場に控えている4人の中で、のんきにそんな事をしているのは俺だけ。 他の3人は、指を動かしながらも楽譜の最終チェックやイメージトレーニングをしているのだから、ただ指先をじっと見つめている俺の行動はおかしく思えるのだろう。 そんな中、12番奏者が終わって、俺の前である13番奏者がステージへ向かい、そして代わりに17番目奏者が控室に入ってきた。さすがに緊張で手が震えだす。 心臓が縮みあがるような緊張感。 この緊張感が、曲者であり、必要でもある。と、以前先生に言われた事がある。 “曲者”。 それは、緊張している事によっていつもの80%しか力が出せなくなるから。 だから、100%で満足するのではなく、120%の完成度で本番に臨みなさい、と。 “必要”。 それは、弾く事への必死さ。緊張感があると言う事は、それだけ“上手く弾きたい”“失敗したくない”という思いが強いからこそ。緊張感がないと、音にもそれが表れる。 『だから、本番前の緊張は、曲者であり必要でもある』 そんな先生の言葉が脳裏に浮かんだ。 そしてもう一つ思い出した言葉。 『湊君だけじゃない。全員が同じだけ緊張してる』 ふと視線を巡らせてみれば、楽譜チェックをしている人は落ち着きなく足を動かしているし、イメージトレーニングをしている人は頻繁に深呼吸を繰り返している。 一見落ち着いているように見えて、その実、物凄く緊張している事がわかるそんな些細な動き。 その事に、少しだけ体の力が抜けた。 みんな心臓が縮むような緊張感の中にいるんだ。 そんな、自分だけが勝手に感じている連帯感が、なんだか可笑しい。 そしてとうとう13番奏者が終了し、ステージ出入り担当の人に名前を呼ばれた。 椅子から立ち上がり、ステージへ向かう直前に一度だけ深く息を吸い込む。 …よし、行こう。 自分に気合いを入れ、顔を真っ直ぐ上げて、暗がりから光の中央へ。 明かりの落とされた暗い客席に向かって一礼し、光り輝くピアノの前へ行く。 目の前には、普段弾いているグランドピアノとは明らかに違う、何千万円レベルのコンサート用グランド。 象牙の鍵盤は指から滲む汗を吸い取る為、使用される回数が多い中央付近の鍵盤ほど色が変わっている。 こういうレベルのピアノは、長時間弾いても指が疲れにくいように鍵盤のアクションが軽く、普段のグランドと同じように弾いてしまったら指が転んでしまう可能性もあるから気を付けなければいけない。 でも、何はともあれ、弾きやすく音が良く響きも綺麗。 最高級のピアノを弾く事が出来る喜びが勝る。 椅子に座り、鍵盤に指を乗せた。 響也の奏でる音は、それまでの奏者達とはレベルが違っていた。 繊細かつ透明。そして、醸し出される色気。 音楽ホールに、キラキラとした光が舞い踊るような幻想を浮かばせる。そんな音。 誰もがうっとりと聴き惚れる中、まず最初にその異変に気がついたのは、控室のモニターで響也を見ていた木崎だった。 「……あれは」 手元を映し出すモニター。 象牙色の鍵盤に、 「………赤…?」 なぜか、赤い点が。 ポツンポツンと、鍵盤に描き出される小さな点。 気のせいか?照明の具合でそう見えるのか? そう訝しむ木崎の目が、ある一点を捉えた。 それは、響也の左手。その指先。 「………っ」 チラリとモニターに映った指先は、赤く染まりはじめていた。 その異変は、客席にも気付かれ始めた。 壁に設置されている大きなスクリーン。手元が映しだされた時、鍵盤に付く赤い何か。 並んで座っていた御厨、柳、棗、都築の4人は、一瞬だけ互いの目を見交わした。 でも、明らかに怪我をしているというこの異常事態にも関わらず、誰も演奏を止めないし言葉も発さない。 それは、奏者である響也自身が、そんな事態にも気付かないくらい演奏に没頭しているから。 その血で染まった指先から奏でられる旋律が、響きが、世界が…、 あまりにも凄くて、圧倒されて、誰も動く事が出来なかった。 鍵盤を押さえる指には、想像以上の負荷がかかる。それも、繊細に弾きこなすには相当の技術が必要だ。 痛くないはずがない。辛くないはずがない。 それなのに、弾き続ける響也。 音は更に深みを増し、感情がこもる。 益々世界は広がり、体が音の洪水に浸る。 木崎や柳達にはわかった。 音楽に没頭している響也の姿。たぶんあれは、脳内麻薬と呼ばれるものが出ている状態だと。 曲に入り込み、トランス状態となり、今は痛みを感じていないはず。 だから、傷口を無視したあんな弾き方が出来る。 都築は、自分だけが知っている怪我の事実に唇を噛みしめた。何も出来ない自分が、悔しくて。 だが実際は、柳も梶から話を聞いて知っていた。表だって顔には出さないまでも、前髪の下の眼差しは険しくなっている。 そして、怪我の事を知らなかった木崎は、控室でひとり、暴れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいた。 この一ヶ月近く、会ってもいないし言葉も交わしていないから、響也が怪我をしていた事なんて知る事も出来なかった。 苦しんでいただろう。 悩んでいただろう。 助けたい。今すぐ、なんとかしてやりたい。 それでも、こうやって乗り越えようとしている響也の姿を見れば、心の奥底から込み上げてくる熱い何かに体が震えそうになる。 少し離れていた間に、ここまでの音を出すようになった響也。 モニターを通してでもこれだけの音だという事は、生音はもっと凄いという事。 …手助けよりも、信じる事が大事、だな。 自分の出番までは、あと5人。 時計を見た木崎は、静かに個人控室を後にした。

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