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fantasia18

最後の一音を弾ききった。 空間に響いた最後の音の余韻が消える。 多人数がいるホール内は、まるで一人もいないかのような静寂に満ちていた。 ……弾ききった、弾ききれた…。 全て出しきれた。 悔いは無いと言いきれる。 鍵盤から指を離した瞬間、そこに傷口があった事を体が思い出したかのように激痛が走り、その部分を咄嗟に右手で抑え込んだ。 呻きながらも、ところどころが赤く染まった鍵盤が視界に入った瞬間、茫然とした。 そして、コンテスト実行委員の一人が、後ろに数人のスタッフを従えてステージに姿を現した。 『皆様、コンテストの途中ですが、鍵盤の清掃に入らせて頂く為、10分間の休息とさせて頂きます。ご理解の程、宜しくお願い申し上げます』 当たり前だが、鍵盤を清掃するらしい。 象牙なだけに染み込みが早い。専用のクリーニング剤を使って綺麗に落ちればいいけれど…。 申し訳なさと、弾き終わった後の余韻にボーッとしていると、突然誰かに腕を掴まれて椅子から立たされた。 「来い」 「………え?」 ビックリした。 なんでこの人がこんな所に? ステージの袖から出た俺を引っ張っているのは、今頃まだ控室にいるだろうはずの木崎さん…、だった。 医務室のドアを勢いよく開けて室内へ入った木崎さんは、いくら見渡しても、いるはずの医師がいない事に気付いて舌打ちをする。 腕を掴まれたままの俺は、いまだに何がなんだかわからず茫然。 押されて無理矢理椅子に座らされ、置いてある医療器具からピンセットやら綿やら消毒液やらを慣れた手つきで用意している木崎さんの姿を、ただ見ているだけ。 何も言わないまま、俺の顔を見る事もしないまま、正面の椅子に座った木崎さんは手際良く指先を処置してくれた。 包帯を巻かれて、テープで留められる。 傷口がジンジンと痛みを訴えてくるけれど、それどころじゃない。 「…なんで、木崎さん…」 目の前で揺れるプラチナブロンド。 手当は終わったのに、顔を上げない木崎さん。 戸惑いながら名を呼んだけど、反応はない。 もしかして、あまりの不甲斐なさに怒っているのだろうか。 そんな不安が首をもたげた時。 「よく、頑張ったな。…お前の演奏、体が震えるくらいに凄かった。今まで聴いた中で、最高の出来だった」 静かな声が、放たれた。 そして、ゆっくりと顔が上がり、力強くも綺麗な眼差しが俺を見据える。 「次は俺の番だ。しっかり聴いてろよ」 椅子から立ち上がり、僅かに身を屈めた木崎さんは、その手を伸ばして俺の頭と肩を優しく抱きしめてきた。 温かなぬくもりに包まれた瞬間、 …あぁ…、本当に木崎さんだ…。 ようやく全ての感覚が戻ってきた。 それと同時に、今日この日が来るまで、なんだか本当に色んな事があって、途中で投げ出したくなったりもしたけど、こうやって納得出来るようなピアノを弾けた事が出来て本当に良かったな、って…。心から思った。 木崎さんの腕の温かさに、張り詰めていた糸がプツンと切れる。 「………ッ」 ジワリと熱くなった目元から涙が溢れだす。 こぼれそうになった嗚咽を堪えて木崎さんにしがみ付いた。 たぶん、俺が泣いている事に気がついたんだろう。木崎さんは何も言わずに俺の背を軽く叩き、少したってから僅かに身を離して額に優しく口付けを贈ってくれた。 その間にコンテストは再開された。 鍵盤に血液が付着し始めたのは中盤以降に差しかかっての事だった為、よくよく見れば一部分が茶色っぽくなってはいるものの、一見何事もなかったように見えるくらいには綺麗にクリーニング出来たらしい。 大丈夫だったとわかって安堵したのは言うまでもない。 ステージ袖へ向かう木崎さんを見送り、俺はこっそりと客席へ。後ろの方でも構わないから、木崎さんの本気の生音が聴きたかった。 19番の人の演奏が終わり、いよいよ木崎さんの番がきた。 高校生ではあるが、既に知名度が高い人物の登場に、今回ばかりはさすがに客席からざわめきが上がる。 木崎さんが堂々たる姿でステージに現れて一礼すると、その端正な容姿と落ち着きに誰もが感嘆の息をこぼす。 まるで、木崎さんのソロステージを聴きに来たと錯覚をしてしまいそうだ。 他の出場者とは何もかもが違う木崎さんは、その指先から奏でる音も、他の人とは全く違っていた。 最初の一音から、凄いとしか言いようがない、圧倒する音。 聴けば聴くほど、これぞまさに帝王だと、誰もが認める、認めざるを得ない音。 体を突き抜けるような太い旋律。それなのに透明。 ガラスのような繊細さに、ダイヤモンドのような美しさと強さを感じる。 広がる世界と、色づく空気。 こんな音色を、今この場にいる誰が出せようか。 瞬きする事を忘れるくらいに魅せられる演奏に、いつの間にか俺はその場でしゃがみ込んでいた。 立っていられなかった。 そして、木崎に勝負を仕掛けた柳も、これにはさすがに完敗だと客席で静かに溜息を吐き、そしてゆるりと笑んでいた。 木崎皇志の演奏が終了。 ホール内は暫しの静寂に包まれ、そして、 スタンディングオベイションが起きた。 客席からの拍手喝采。 奏華のコンテストではあまり見ない光景に、さすがの木崎も驚きを隠せず、珍しく戸惑った表情を浮かべながらも客席に向かって一礼してステージを後にした。 時刻は17時少し過ぎ。 途中のハプニングはあったものの、おおよそ予定通りのタイムスケジュールでコンテストは終了した。 17時45分に、ピアノ部門の結果発表が行われ、18時からは、声楽・ヴァイオリン・ピアノの全3部門入賞者達の授賞式が始まる。 一般客はそのまま休憩となり、ピアノ部門の20名は一旦個人控室へ。 声楽・ヴァイオリンの入賞者は、その後の授賞式に出る為、やはり同じく与えられた控室へと向かった。 俺は…と言えば、ホール内の客電が点く前にその場から立ち去り自分の控室へ。 室内に入って椅子に座っても、まだ全身に木崎さんの奏でた音の残響が残っている。 今回のコンテストで、ある程度は木崎さんに近づけるだろう…なんて思っていた。 それくらい練習した。自分でも満足の出来る完成度だった。 でも、木崎さんはそれ以上に先へ進んでいた。 悔しいとも思うし、凄いとも思う。 ただ何故か、その事に安心している自分がいるのも事実。 まだまだだいぶ先に木崎さんがいる事。とても大切な人で、尊敬出来る人で、いつか絶対に隣に並びたいと思える人。 そんな人が自分の先にいて目標となっている事が、何故かとても幸せだと感じた。 ふと気付けば、手当てしてもらった傷口の痛みは消えていて、心も落ち着いていて、いつもの自分に戻っているのを感じる。 もうすぐ始まるピアノ部門の発表。 そこでどんな結果が出たとしても、たぶん今の俺は、真摯に受け止められると思う。 あと数分で、木崎さんと共に歩む未来か、別々の未来か、それが決まる。 大きく吸い込んだ息を吐きだしながら、もうすぐ来る審判の刻に向け、目を閉じた。

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