112 / 116
Eins
ドイツに来て早1ヶ月。
引っ越しだの各種手続きだの構内の説明だの…と、とにかく忙しい日々を送っているうちに、あっという間に過ぎた1ヶ月。
ようやく練習に集中できる状態が整ったところで、今日から本格的に個人講師がつくようになると聞いた。
アパートの隣同士の部屋を借りている俺と木崎さんは、ドイツに来てからは出来る限り朝食と夕食を一緒にとるようにしている。
1ヶ月もたてば既にそれは当たり前の光景となって日常に馴染んでいた。
今日も今日とて、クロワッサンサンドとフルーツという朝食を終え、留学先である『ベルリン音楽学院』へ一緒に向かう。
この学校は、“ムジュークシューレ”といって、音楽専門高校だ。
日本とは教育制度が違うから少し驚いた。
この『ベルリン音楽学院』は州立の音楽学校で、講師陣が音大の講師を兼任している人が多く、レベルが高いと言われている。
だから、今日紹介される講師がどんな人なのか、楽しみでもあり不安でもある。
その時、隣を歩いていた木崎さんがいきなりフッと笑った。
「…?」
チラリと見ると、力強く大きな手に髪をぐしゃりと撫でられる。
「そんな不安そうな顔するんじゃねぇよ」
「なっ…」
自分では無表情でいたつもりだったのに思いっきりバレてる。
熱くなった頬を隠すように顔を背けると、髪を撫でていた手が滑り下りて優しく肩を抱き寄せられた。
「お前なら大丈夫だ。合わないようならハッキリそう言ってやればいい」
耳元で囁く声が甘いのはワザとか…。
更に赤みを帯びているだろう顔を自覚してキュッと口元を引き締める俺に、木崎さんは楽しそうに笑っていた。
『初めまして。君の講師となるElias ・Cruger だ。宜しく』
個人レッスン室に入って数分後。ドアを開けて入ってきたのは、これぞ紳士と呼びたくなる爽やかな美丈夫だった。
癖のあるダークブラウンの髪を後ろに撫でつけた背の高いイケメン。
彼と並ぶと自分はまるで子供のようだと…、身の置き所のなさに思わず瞳を揺らして目線を逸らしてしまう。
そんな俺に失礼だと怒るでもない彼は、楽し気に小さく笑うと大きな手を伸ばして優しく俺の頬に触れてきた。
ビクッと肩を揺らして目を合わせればすぐにその手は離れていき、首を傾げて顔を覗き込んでくる。
『日本人はシャイな子が多いけど、君はまた格別にそのようだね。改めて、名前を教えてもらってもいいかい?名簿は見たけれど、発音が不安でね』
ドイツ人は厳格なイメージがあったけれど、どうやら彼は違うらしい。若いからだろうか。30歳くらい?
『湊響也です。…あの、俺、ドイツ語苦手で…。お手数をお掛けすると思います。すみません。宜しくお願いします』
このセリフだけは、発音もしっかり練習してきたから大丈夫。ただ、これ以上の会話となると、ドイツ人にしてみたら幼稚園児のような言葉遣いにとれるだろう酷いものとなる。
木崎さんには、「話せないものは仕方ねぇだろ。開き直って自由にやればいい」と言われた。
だからもう覚悟はできている。それに、この先生なら大丈夫な気がする。人となりを見て、少し安心した。
『響也だね。留学生はだいたい皆そんなものだ。慣れていけばいい』
『ありがとうございます』
穏やかな笑みに、心がふわりと軽くなる。
『では始めようか』
緊張と興奮とで乱れそうになる呼吸を整え、ピアノに向かった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
毎日会っているのに、それでも顔を合わせるたびにドキドキしてしまう木崎さんを部屋に迎え入れる。
今日は俺の方が帰りが早かったため、夕食の準備は先に済ませてある。
これはいつの間にか二人の間で出来上がった決まり事だ。
先に帰った方がその日の夕食の準備をし、翌朝は、夕食の準備をしなかった方が朝食の準備をする。
夕食を食べた後、一旦それぞれの部屋に分かれて勉強や練習をし、その後シャワーを浴びてから、朝食を用意する方の部屋で一緒に眠る。
二人で寝るのが当たり前になりすぎて、今では一人で寝ると眠りが浅くなってしまうほど。
『木崎さんがいないと生きていけなくなりそうで怖い』
つい先日、冗談混じりにそんな事を言ったら、真顔で『そうなればいいだろ』なんて言われたものだから、嬉しいのと恥ずかしいので憤死しそうになった。
――――――――――
番外編のドイツ編SSです。短いですが、お付き合い下さると嬉しいです。
ともだちにシェアしよう!