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【7】

 その日、蛇水神社は早朝から慌ただしかった。  普段は灰英一人で切り盛りしている雑事を、大勢の神職が境内のあちこちを行き来し、供物や祭壇の準備、花嫁が乗る牛車の手入れまでこなしていた。   皆、白衣に浅黄色の袴という身なりで、宮司である灰英よりも階級は低い。  それもそのはず。彼らは皆、黒芭の従者たちだった。本来の体は蛇でありながら、黒芭の力によって人型に姿を変え、この大祭を滞りなく遂行する。  主である黒芭の命は絶対ではあるが、彼の眷属である灰英もまた彼らを指揮する立場であることには変わりない。  昨夜は洞窟の中にある黒芭の神殿で一夜を過ごした弥白だったが、目が覚めぬうちに離れへと運ばれていた。 部屋に差し込んだ眩い光に目を覚ました弥白は、見慣れた風景に安堵したのと同時に、あれが夢であったら……と願った。しかし、節々の痛みや異常なまでの気怠さを感じ、自身が正幸たちに犯されたという事実を認めざるを得なかった。  正幸に痛めつけられた体にはいくつもの傷が残ってはいたが、不思議と痛みもなく出血もなかった。  体はさっぱりとしており、誰かに拭いてもらったことは明確だった。  ただ、無理やり抉じ開けられた後孔は熱を持ち、身じろぐたびにわずかな痛みを感じた。そのたびに、胸が苦しくなり、ぎゅっと自身の胸を拳で押さえつけた。 (今日で最後。これで、やっと楽になれる……)  蛇神への生贄としてこの身を捧げる。この命が神のものになるのならば本望だ。  不貞をはたらいたこんな花嫁を受け入れてくれるのであれば――だが。 「――弥白様。湯浴みの用意が整っております」  障子越しにかけられた声にハッと息を呑み、慌てて乱れた着物の前を掻き合わせた。  神社の敷地内には部外者は立ち入れない。それなのに、不意に聞こえた灰英や水越以外の男の声に、弥白は身を強張らせた。 「あの……」  聞き慣れない声に戸惑いを隠せない弥白を気遣うように、その男は優しく諭した。 「ご心配なく。私は灰英様のもとに仕える神職。すべて私どもがお世話させていただきますので、何なりと仰ってください」 「あの、灰英は……」 「灰英様は朝の神事のあと、弥白様をお迎えにいらっしゃいます。それまでにこちらも準備を……」  淡い光が差し込む障子の向こう側で床に膝をつき恭しく頭を下げる影に、弥白は徐々に増していく緊張感に細い指先を震わせた。  今まで何度も死にたいと自殺を図った。しかし、命を絶つことは出来なかった。  それがどうだろう。いざ死を目前にしてみると、なぜか底知れぬ恐怖と不安が弥白を襲った。  蛇神へと嫁ぐ前に正幸たちに犯され、この体を穢された。いや――それだけじゃない。灰英とも体を繋げた。  与えられる快楽に身を委ね、声を上げた愚かな自分。絶対に許されるはずはない。  それなのに、幼い頃から抱き続けてきた虚無感が不思議と今は感じられない。  こんな状況であれば、自分を貶めるほどの思いがあってもいいくらいなのに……。  正幸たちに犯されている時、夢を見ていた。夢であると分かっているのに、その場の匂いや空気、痛みや苦しみまでもがリアルに感じられ、弥白は気が付いた。  これは前世の自分なのだと――。  その男が愛した人、永遠の時を共に生きると誓った伴侶は、この神社の御神体である黒蛇。  自分と結ばれたばかりに神の力も地位も失い、彼が守ってきた村までも失いそうになった。それをくい止めるために自らの命と引き換えに彼を救った。  この選択は間違ってはいない――でも。  弥白は小さくため息を吐いて、だんだんと朧げになっていく夢の記憶を辿るのをやめた。 「――弥白様」 「行きます。すみません……お待たせして」  糊のきいた白い敷布に片手をついて重怠い体を起すと、弥白は逸る気持ちを落ち着けるかのように、静かに息を吸い込んだ。  *****  湯浴みを終え、座敷に用意されていた純白の白無垢を纏った弥白は、村の人たちに顔を見られぬよう綿帽子を目深に被った。繊細な紋様が織り込まれた帯には、蛇神から贈られたという白金地に三匹の蛇が絡み合う見るからに高価な懐剣と末広を差し、凛とした佇まいではあるが、薄化粧に赤い紅を引いた唇と勝ち気な栗色の瞳はどこか憂いを秘めている。  その装いは息を呑むほどに美しく、そして儚げだった。  白装束に身を包んだ神職たちが並ぶ中、境内の玉砂利を踏みしめて進み、石段をゆっくりとした足どりでおりると、黒い漆塗に金箔が施された豪奢な糸毛(いとげ)の牛車が弥白を待っていた。  恭しく頭を下げた神職のすぐ隣に、大祭での正装とされる黒い衣冠単(いかんひとえ)に身を包んだ灰英が薄い唇をきつく引き結んだまま立っていた。  栗色の髪に後ろに長い(えい)が伸びた冠を乗せ、最上級の位を現す純黒の(ほう)がいつも以上に彼を凛々しく精悍に見せていた。  (しゃく)を手にしたまま弥白の元に近づくと、ゆっくりと頭を下げた。 「弥白……」 「灰英……」  長い片想いだった。しかし、想いが通じ合ったにもかかわらず運命は残酷だと弥白は思った。  そんな運命を望んだのは弥白自身だというのに、この期に及んで逃げ出したい思いでいっぱいだった。 「これから村内を巡る。牛車の簾は下されたままだから、弥白の顔を見る者はいない。誰が何を言おうと気にするな。お前は俺が――守るから」  幼い頃から耳にしてきた彼の言葉もこれで最後かと思うと、弥白の胸が締め付けられるように痛んだ。 「灰英っ。俺――」 「さぁ、乗って……」  言いかけた弥白の言葉を遮るように、彼の手をとって牛車へと導く。  後方に用意された踏み台に草履を脱いで上がると、弥白は灰英の手を強く掴み返した。  驚いた彼は顔を上げ、綿帽子の奥にある弥白の顔をじっと見つめた。 「――守って、くれるんでしょ?」  喉の奥から絞り出したかのような細い声に、灰英は余裕あり気に微笑むと「あぁ……」と短く答えた。  いつでも自信に溢れた彼の表情が好きだった。絶対的に頼れる存在として、幼い頃から弥白の中で大きく占めていた。  そんな彼の顔を見て、ホッと安堵する一方で死への恐怖に慄いていた。  たとえ灰英でも、相手は蛇神だ。絶対に勝てるはずなどない。  分かっていても何かに縋りたくて、弥白は彼の手を離せずにいた。 「弥白。さぁ、この手を離して……」  どこまでも優しい声音で囁く灰英に、弥白は目を伏せたまま恐る恐る絡めていた指先を解いた。  厚い畳が敷かれた床に着物の裾を気にしながら腰を落ち着けると、しゃらりと音を立てて背後で簾が下りた。  簾に囲まれた内部からは外の景色は見える。しかし、外からははっきりとした様子を窺い知ることは出来ない。  車体が傾き、白装束に身を包んだ神職者たちが牛車に寄り添う。  牛に付けられた手綱を持つ者が灰英と共に歩き始めると、牛車は道に敷かれた細かな砂利を跳ねながら動き始めた。  蛇水神社がある山の麓から村へ向かう道は長く緩い下りとなっている。関係者以外の立ち入りを許可していなかった敷地から出ると、沿道にはカメラを構えた観光客や村の住人が並び、蛇神様へと嫁ぐ花嫁の姿を一目見ようと躍起になっていた。  そんな村内の好奇の視線に晒されながら、弥白は膝の上で白くなるほど組んだ手をわずかに震わせていた。 「今年の花嫁は美丈夫だって話だ」 「おや? 私は可愛い女の子だって聞いたよ」  村人は花嫁の真の姿を知らない。それ故に噂ばかりが拡がり、真実をいつしか曖昧なものへと変えていく。  所詮は戻ってくることのない他人の事だ。自分に関係することでなければ興味本位で祭りを楽しむしかない。  村役場の前では、職員が真面目な顔で出迎えた。村の存続が危ぶまれ、正幸の父親が絡んだリゾート開発企業の買収に頭を抱えている今、古い信仰に縛られた祭りを心から楽しめるはずもなかった。  災害は蛇神の怒り。ここ何十年、災害に見舞われることがなかったのは、穏やかな気候のお陰だとしか思っていない。たまたま雨が降らなかった。たまたま台風が直撃することがなかった――で片付けている現代。  それは蛇神守である灰英とその両親が、封印した黒蛇の力を加護し、毎日祈り続けてきた結果なのだと誰が知るのだろう。 「灰英……」  小さな声で呟いた弥白に気付いた灰英は牛車を止めさせ、足早に前簾に近づいた。 「どうした?」 「俺……。こんな体で嫁げないよ。蛇神様を怒らせたら……俺のせいだ」  しばしの沈黙の後で、灰英は落ち着いた口調で応えた。 「大丈夫だ。蛇神様は許してくれる」 「嘘だ!――ねぇ、黒芭さんは?」  朝から一度も姿を見ていない水越のことがふと気になり、そう問いかけると、灰英は「さあ……。どっかで取材でもしてるんだろ」と、さほど興味がないように答えた。  自身の先輩であり、この奇祭を特別に取材させているのであれば、それなりの待遇があってもいい。  それなのに灰英は、まるで自分には関係ないとでも言いたげな様子で、水越のことについてそれ以上触れようとはしなかった。  再びギシギシと軋みながら牛車が動き出した時、粗暴な男たちが数人、牛車の行く手を阻むように立ち塞がった。 「おい! みんな聞いてくれ! 今年の花嫁は処女じゃないっ! いい声あげて男のモノを咥えこむ淫乱花嫁だ」 「処女をご所望の蛇神様も失望するだろうな。インチキ宮司に騙されて、お手付きの花嫁を押し付けられるんだからなっ! 古い仕来りだか何だか知らないけど、この村は神様が守ってるんじゃねぇ! 勘違いも甚だしいよなぁ?」  沿道に集まった人々に聞こえるようにわざと大声を上げた人物の声に弥白は戦慄した。  着物をぐっと握りしめた手は震え、うまく呼吸が出来ない。  全身に鳥肌が立ち、昨夜のことを思い出させるかのように体に残った傷がシクシクと痛みだした。  乱暴に体を開かれ、灰英しか知らないその場所を穢した男――。 「――そこを退け」  抑揚なく低い声でそう言い放った灰英に、声の主――正幸は詰め寄った。 「はぁ? お前と同じ水神の血を引く俺に、よくもそんな態度で言えたもんだなっ」  正幸の取り巻きの男たちも灰英を囲むようにして睨みをきかす。  しかし、灰英はその表情を崩すことなく、従者に目配せをして自身は弥白の元へと足を向けた。  その背中を追うかのように足を踏みだした正幸たちの前に、白装束の従者が立ちはだかった。 「ここを退きなさい。蛇神様の花嫁への冒涜。これ以上は黙っていませんよ」  筋肉質で端正な顔立ちの男にそう言われた正幸は舌打ちをして、背を向けたままの灰英に叫んだ。 「お前! そこにいる奴と寝たんだろ? 祭りを司る宮司が花嫁に手ぇ出すとか、そんなことが許されると思ってんのかよ! 村を守るとかなんとか言って、結局は欲望に負けたクソ野郎だ! もう間もなく、この村は親父の物になる。あんな神社、真っ先にぶっ潰してやるからなっ!」  沿道に立つ観光客や村人は皆、正幸の怒声を固唾を呑んで見守るしか出来なかった。  下手に口を出せば、村の権力者である彼の父親に何をされるか分からないからだ。自分が気に入らなければ即刻排除する。  そうやって、この村の住民を苦しめ続けてきたのだ。  取り巻きの男が咥えていた煙草を、騒動で興奮し始めている牛へと投げつけた。  その瞬間、従者がそれを薙ぎ払い、その男の胸ぐらを掴みあげた。 「――やめておけ。手を出すな」  肩越しに振り返り、鋭い声を放った灰英の瞳が薄らと青く染まる。 「しかし、灰英様っ」 「花嫁の前で無礼は許さん。放っておけ……」  灰英は純黒の(ほう)を翻し、前簾の前に片膝をついて頭を下げると、穏やかな声音で中の弥白に問いかけた。 「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。お体の方はいかがですか?」  その問いかけにも答えられないほど、弥白は青ざめて止まらない震えにガチガチと歯を鳴らしていた。  蛇神様に嫁ぐこの日。お世辞でも幸福感を味わっているとは言えなかった。  自分は死にたくてここまで来た。その願いを、誰の目も気にせずに叶えてくれるのは蛇神様しかいない。  しかし、彼の力の糧となるはずの処女ではない男が供物として捧げられるのだ。  何人もの男に穢された体で満足してもらえるとは思っていない。むしろ、神への冒涜に怒り、村に再び災いを起こすのではないかという不安に押し潰されそうになっている時に、自分を犯した張本人が現れれば、その心中は穏やかではいられない。  いくらそばに灰英や従者がいて守られていると分かっていても、その声を聞いただけで押さえきれないほどの自己嫌悪に襲われ、自殺願望に支配される。  弥白は帯に挟んだ懐剣に手をかけ、ぐっと握りしめた。  目を閉じれば、あの納屋の匂いが思い出され、吐き気がこみあげてくる。 「――弥白」  灰英の優しい声が鼓膜を震わせた。 「お前が悩むことは何一つない。お前は悪くない……」 「か……ぃえ……」  愛する男の名を口にするが、その唇は小刻みに震え、うまく声を発することが出来ない。  乱れきった呼吸を何とか元に戻そうと、深呼吸を繰り返す。  その時、弥白の耳に――いや、正確には頭の奥底で響いた低く甘い声。  長い睫毛を揺らして、潤んだ目で正面を見据える。  簾越しに心配そうに見つめる灰英。そして、簾上部に付けられた房がふわりと揺れた。  風は感じられない。しかし、それは温かく、弥白の濡れた頬を優しく撫でた。 『――案ずるな。我のもとに参れ』  夢の中で何度も聞いたその声に、弥白は自身の中にいるもう一人の自分がゆっくりと目を覚ますのを感じた。  春の野に咲くタンポポの綿毛のように柔らかい何かに包まれているように心地よい。  つい今しがたまで自分の生を呪っていたことが嘘のように、気持ちが落ち着いていく。  穏やかな水面に、ふわりと舞い落ちるのは淡いピンク色の芍薬の花びら。  水面に出来た波紋が徐々に広がり、弥白の中の『何か』を癒していく。 「――弥白?」 「だ、大丈夫……」  張り付いていた喉から絞り出された声は、思った以上にか細く、逆に灰英を不安にさせてしまったのではと思った。しかし、彼は安堵のため息を吐くと、すぐに身を翻し、列の先頭へと戻って行った。  従者に威嚇された正幸たちは、沿道の人々を蹴散らす様に足早に去っていった。  それを見ていた灰英は、忌々しげに唇を噛んだ。 『灰英、気を乱すな……。弥白の水面が揺れる』  耳の奥で聞こえる主の声に、イラつきを隠せないというように鼻息を荒くした。  昨夜、黒芭は弥白をあんな目に遭わせた犯人を特定していると言った。  灰英も全く見当がついていなかったわけではない。しかし、今の正幸たちの出現によって、それは確実なものへと変わった。  弥白が犯されたことは黒芭と灰英、そして当事者しか知りえない事実だ。そうでなければ、弥白の中に留まっていた灰英の精を目にすることなどないからだ。  正幸はそれを見た。だから、灰英が花嫁を寝取ったと言えたのだ。  同じ水神の血を引く男に弥白を穢された灰英の怒りは、底知れぬものがあった。でも、その怒りを今、表に出してしまえば弥白の気は乱れ、また自分を責めることになる。  簾の向こう側で彼が泣いていることは分かっていた。恐怖に怯え、罪悪感に苛まれ、その手を懐剣に添えていたことも知っていた。 この場を取り仕切る宮司が個人的な感情で安易に動くことは出来ない。 哀れな弥白の気持ちを静め、恐怖を取り去ったのは主である黒芭の力だ。何も出来なかった自分に腹が立ち、そして自身よりも弥白を思う黒芭の心に嫉妬さえ覚えた。 (俺だって……弥白を愛している)  その想いが強ければ強いほど、弥白を苦しませていることに繋がっている。  早く繋がりたい。黒芭と対等になって弥白を愛し、守りたい。  逸る気持ちとは裏腹に、灰英の中で膨らんだ不安。それは、黒芭が本来の力を取り戻した時、あっけなく裏切るのではないかという疑念だった。彼にとってそんなことはないと分かっていても、もとは邪神。玄白を殺した人間への恨みは忘れてはいないはずだ。  幼い頃から通じ合い、体を重ねてきた主であり友であり運命共同体である黒芭。  その彼を未だに信じきれない自分が疎ましかった。  神としての器。それを試される時だと灰英は思った。 「――蛇神様がお待ちだ。先を急ぐぞ」  日没までに村中を練り歩き、花嫁のお披露目を済ませなければならない。  それが終われば、弥白は黒芭の元へ出向き、灰英は蛇石に封じられた彼の力を解放させなければならない。  たった数日の間に運命が大きく動く。それは花嫁である弥白だけでなく、それを司る灰英と長年に渡り最愛の伴侶の生まれ変わりを待ち望んでいた黒芭も同様だった。 こんな祭りは今までなかった。絶望の淵に立たされた花嫁を神に捧げるという人道に反した儀式からの解放、そして幼い頃から抱き続けてきた恋心の成就という点では、幾分気持ちが楽になっていた。  しかし、それよりもさらに大きな重圧が自身に圧し掛かってくることを思うと、手放しで喜べるほどの余裕はなかった。  完璧な力を取り戻した蛇神と運命の番。その二人に必要とされる自身のポジションは微妙だ。  一妻多夫という蛇神のシステムにうまく順応し、自身を納得させることが出来るか不安しかなかった。  弥白への愛情は変わらない。でも――黒芭への嫉妬が負の力を生みそうで怖かったのだ。  村の面積はそう驚く広さではないが、全部の地区を回るのはかなりの時間を要する。  最後の地区でのお披露目を終え、蛇水神社への帰路に至った時はもう太陽が西に傾き、重なり合う山々が村に影を落としていた。  履き慣れていると思っていた浅沓(あさぐつ)での歩みも疲労のためか、だんだんとペースが落ちていく。  やっとの思いで神社の鳥居が見え始めた緩いのぼり坂の入口で牛車は止まった。  青草が伸びた土手に腰かける一人の老婆の姿に、灰英は列を制して歩みを止めた。 「タキさん……?」  足早に駆け寄った灰英を見上げたのは、この村に住む元産婆のタキだった。医師がいないこの村で、つい最近まで子供を取り上げていた凄腕の産婆で、近隣の町に産婦人科はいくつも出来ていたが、出産の際はその病院からも声がかかるほど、彼女の腕は確かだった。  妊婦を見ただけでお腹の子の性別を判断し、どの方法が一番適切であるか、その時期も的確に判断出来た。たとえ難産であっても、彼女の手にかかれば母子ともに健康な状態で出産出来ると言われ『神の使い』とも言われていた。  かくゆう灰英も彼女に取り上げられてもらった一人だ。 「綺麗な花嫁さんだね……。でも、ちょっとばかり憂いを秘めとる」  皺だらけの顔にさらに険しく寄せた眉間。その瞳は牛車の方をじっと見つめていた。 「灰英……。もっと近くに行かせてもらえるかね? 花嫁と話がしたい……」 「タキさん、それは……」 「蛇神様に献上される花嫁と口を利くなんぞ、許されることじゃないって分かってるよ。罰が当たるのは覚悟の上さ。この老体は、いつでも覚悟は出来てる。だけどね……伝えておきたいことがあるんだよ。わしの最期の頼みだと思って聞いてはもらえんかな?」  杖なしでは歩くこともままならない老婆が、牛車に乗る弥白に暴挙を働くとは思えない。まして、彼女はこの村に住む人々に愛されている。  仕来りを重んじる大祭では異例ではあったが、灰英はタキの手をそっと引いて弥白がいる屋形へと向かった。  前簾の向こう側にいるであろう花嫁を見上げて、タキは小さく息を吐いた。 「――まだ、迷っているのかい? 命はね、神様でも一つしかないんだよ。その命で何を救ったか、誰を助けたか……あんたが一番よく分かっているはずだ。体は変わっても魂の本質は変わらない。それを見抜けるのはあんたを愛する者だけ。誰かを愛することに正誤はない。あんたがしたことは正しかった……。だから、長い年月を経ても巡り逢えたんだろうが。すぐそばにいる、あんたを大切に想ってくれる者たちを……真実の瞳で見るがいいよ。そこにはね、嘘偽りのない本当の想いがあるから」  屋形の中に座ったままの弥白は、簾越しに聞こえてきた優しく、そしてどこか厳しさを含んだ声に俯いたままだった顔を上げた。  その声は、数日前にバスの中で聞いた声だった。  なかば自暴自棄になって死ぬつもりでここに戻ってきた弥白に投げかけられた言葉を思い出す。 『――命はたった一つしかない。それを誰の為に生かすか……よく考えることだね』  自身が死のうと思っていることがなぜ分かったのか……。でも、その時の弥白にはどうでもいいことだった。  蛇神様に献上されること――つまり、死を意味することだと思っていたからだ。  彼女にどうこう言われたところで、逃げ出すことも出来ない。その運命を粛々と受け止めるほかないと。 「――あんたが生きることで救われる命がある。わしはもう長くはない。だから、この村の行く末を見守ることは出来ないが、あんたならそれが出来るはずだ」  正幸に犯され、穢れたままの体で羽織る白無垢の重さに弥白は耐えきれずにいた。  体も心も真っ白な自身を相手の色に染めてもらうための花嫁衣裳。  しかし、今の弥白にはそれを口にすることが憚れた。身も心も穢れた花嫁は、一体何色に染まるのだろう。  この牛車を下りたら灰英に別れの挨拶をして、それから――蛇神様の前で命を絶とうと決めていた。  その心の内を見透かすようなタキの言葉に、弥白は溢れる涙を止めることが出来なかった。 「あんたをバスの中で見た時、すぐに分かったよ。わしは自分の手で取りあげた赤子の顔は絶対に忘れない。母親の腹から出てきた直後のあんたは伝説の蛇神様のような月白の肌に、宝玉のような紅の瞳をしていた。わしはすぐに悟った。白蛇様の生まれ変わりなのだと。なぜ、この時代に再び生を受けたのか……。それは、あんたにしか出来ない使命があったからだよ。――弥白。あんたは蛇神様に愛されるために生まれたんだ。そして、今は伝説とされている昔語りの真実を黒蛇様に伝えるために。蛇神様が住まう大切な村を共に守っておくれ……」  タキはその場に崩れるように膝をつくと、皺だらけの両手で顔を覆った。堪えきれない嗚咽に骨ばった肩を小刻みに揺らす様は、傍にいた灰英の心を激しく揺さぶった。 「タキさん……」 「――あぁ、見苦しいところを見せちまったね」  真っ赤に腫れた落ちくぼんだ小さな目を何度も擦りながら、手を差し伸べた灰英にしがみつくように立ち上がったタキは、純黒の袍をギュッと握りしめて喉の奥から絞り出す様に声を震わせた。 「灰英……。弥白を守っておくれ。あんたは蛇神守として二人の傍にいなきゃいけない。そして……真実を知り、愛し、愛されることで互いの力は強まっていく。あんたも神の子として生まれたんだ。この手で二柱の神様を取り上げるとはね……。もう、これ以上の御利益はないし、思い残すことは何もないよ」  眦から大粒の涙を流しながら無理やり笑って見せたタキは、灰英の体を押し退けるようにして歩き出した。  その足取りは九十を超えた老婆とは思えないほど力強く、何よりも逞しかった。 「タキさんっ」  自身が生まれ持った霊力は、元来神になることを意味していたと知った灰英は息を呑んだまま動けなかった。薄暗い道にだんだんと小さくなっていくタキの丸い背中をただじっと見つめ、簾の向こう側から聞こえる弥白の啜り泣きに拳を強く握った。 「――ホントに神の使いだったんだね。タキさん……」  それまで思い悩んでいた自分がどれだけちっぽけなものだったのかと思い知らされた気分だった。  つまらない嫉妬、独占欲……。主である黒芭を信頼しているにも拘らず疑心暗鬼で心を閉ざしていた自分。  恋愛感情はない……。だが、そこはもっと深いもので繋がっていた。  頭では否定していても、体は何よりも素直で従順だった。眷属として黒芭に愛される悦びを知っていながら、それを認めようとしていなかった自分に腹が立った。  なにより、愛する弥白に愛されることを知った。これ以上、何を望むというのだろう。  タキの言葉を聞いて、弥白がまだ自身を許せずに死を選ぶと言うのなら、全力でそれを阻止する。むろん、黒芭だってそれを認めることはないだろう。 「――行くぞ」  灰英の声が西日も消えかけた参道に響いた。牛車の車輪がギシリと軋んだ音を立てて最後の坂道を登っていく。  白装束の従者はみな無言で、大きく揺れ動く心を抱いたままの弥白を乗せて、蛇神が待つ洞窟へと向かっていった。

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