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【8】
洞窟の前で牛車から降りた弥白は従者たちが並ぶ間を抜け、いつもは厳重に施錠されている観音扉の前に立った。
すぐ隣に立つ灰英をちらっと見上げ、泣き腫らした目で精一杯の笑顔を作って見せた。
「灰英……いろいろごめん。ありがとう……」
掠れた小さな声。その言葉を紡ぐ唇は血色を失い、微かに震えていた。
灰英はすぐ脇に控えていた従者から扉の鍵を受け取ると、無言のまま南京錠に鍵を差し込んだ。
幾重にも巻かれた太い鎖がガチャリと音を立てて解かれていく。山の中腹にぽっかりと口を開ける洞窟の中からは、晩夏とは思えないほどの冷気とピリピリとした異様な気が放たれていた。
湿度の高い風が弥白の頬を撫であげると、それだけで背筋が凍りつくような気さえした。
「――蛇神様の元へ参る」
灰英が笏を手に従者に声をかけると、彼らは洞窟の入り口から奥へと岩肌に沿って並び、その手には手持ち行燈のオレンジ色の光が揺れていた。
その光は淡く、中に置かれた蝋燭の細い炎が闇を照らした。明かりがなければ進むことを憚れる闇は奥へと続いていた。
灰英が祝詞を唱えると、その光は大きくなり弥白の青白い頬を照らした。
差し出された灰英の手に、そっと自身の手を重ねる。緊張のせいか大きな手がひんやりと冷たい。
「灰英……」
小さく呟いた弥白を見つめた灰英の瞳が金交じりの青色に変わる。その美しさに弥白は思わず息を呑んだ。
「――ここは聖域だ。何が起きても蛇神様の御意志に委ねられる。心を静めて……その身を捧げよ」
抑揚のない事務的な言葉。彼は同じセリフを今まで何人の花嫁に言ってきたのだろう。
わずかに頷いて、綿帽子にその視線を隠す様に俯くと、弥白は一歩、また一歩と足を進めた。
小石や砂が入り混じる、お世辞でもいい足場とは言えない。ぼんやりとした足元を気にしながら、灰英の手に誘われるようにして奥へと進んだ。
慣れない草履、おぼつかない足取り、闇に閉ざされた空間。
そのどれもが、弥白の心を表しているかのようで、息がつまりそうだった。
弥白が通り過ぎたあと、行燈の火は次々と消されていく。振り返ることは許されない。なぜならば、振り返ったところで出口さえも見えない闇に閉ざされ、方向すらも分からなくなっていたからだ。
白装束の従者が行燈と共に消えていく。その気配に気づいて、もう一度灰英を見上げた。
弥白の視線に気づいた灰英は、真っ直ぐ前を見据えたまま硬質な声で応えた。
「お前が気にすることではない。彼らの役目は花嫁を神殿に迎えること……。それが済めば元の姿に戻るだけだ」
「元の……姿?」
岩の根元で細かな砂をザリザリと擦る音が四方から聞こえる。まるで長いものが地を這うような音……。
弥白は自身の足元にも、その音の正体がいるのではないかと恐る恐る俯いた。
しかし、そこにあったのはオレンジ色の行燈に照らされた弱々しい自身の足のみ。
決して平坦とは言い切れないその道を進むしかない、唯一の手段。
「――心配するな」
弥白の耳元でそっと囁いた灰英の声に、ほんの少しだけ心が和んだ。
そうすると、彼らを包み込んでいた冷気がふわりと和んだような気がした。
そのことに真っ先に気付いた灰英は、握った手にわずかに力を込めた。
(弥白の心を乱すことは、この聖域の空気をも乱す……ということか)
力を封印された黒芭とその眷属である灰英。二人とすでに契りを交わした弥白は、その体を本質である『神』へと確実に変化させていた。
彼の心の奥に根深く巣食う闇を取り除くことが出来れば、弥白は二人を心から受け入れてくれるだろう。
しかし、その闇は弥白ではなく玄白のモノである。彼が黒芭と解り合えなければ、弥白はその想いに耐えかねて自ら命を絶つ。
生まれ変わっても、何度となく繰り返される負の連鎖。そのたびに黒芭は心を痛め、苦しみ続ける。そして、その器である弥白を失うことは、灰英にとってのこれからを左右するものとなる。
いにしえから続く負の連鎖を食い止めるのは自分でしかない。
それが出来るのは蛇神守であり、末裔である灰英の手腕が試される。
無言のまま奥へと進む二人の目の前に突如として開けた空間が広がる。
積み重なった岩肌の隙間から流れ出る清水が小川を成し、その袂には目を瞠るほど豪奢な白木の神殿が設けられていた。弥白は綿帽子の下から見えたその光景に息を呑み、その足を止めた。
周囲に敷かれた玉砂利の向こう側にある数段の階段の先――神殿の正面には、建物と同じく白木で作られた格子の観音開きの扉が佇んでいた。その扉が二人の到着を待っていたかのように軋んだ音を立ててゆっくりと開かれた。
彼らのすぐ脇に控えた従者が一歩後方に退き、その場に片膝をついた。
その気配を感じ、わずかに後方に視線を向けた灰英もまた、同じようにその場に膝を落とした。
「今宵、蛇神様に於かれましては、めでたき婚姻の宴――。花嫁様をここにお連れいたしました」
凛とした灰英の声が広い空間に響き渡ると、その場の空気がピンと張りつめる。
弥白は、帯に挟んだ懐剣の柄に手を添え、いつでも抜き出せるよう準備していた。
自分の命など、いつ消えても構わない。そう――こうしている今、この剣を抜いて左胸に突き立てればすべてが終わる。
しかし、弥白の手は動くことはなかった。先程のタキの言葉が彼の頭の中で大きな意味を示すかのように膨れ上がり、弥白の手を動かなくさせていたのだ。
『誰かを愛することに正誤はない。あんたがしたことは正しかった……。だから、長い年月を経ても巡り逢えたんだろうが。すぐそばにいる、あんたを大切に想ってくれる者たちを……真実の瞳で見るがいいよ。そこにはね、嘘偽りのない本当の想いがあるから』
この期に及んで、なぜ決断出来ないのかが不思議でならなかった。
あんなに苦しんで、異常な虚無感の中で暮らしてきた二十四年間。愛する人と想いが通じて、それが神へ対する大罪であったと分かっても。蛇神様に捧げるこの体を非情な男たちに穢され、愉悦に啜り泣きながら声を上げても……。
(俺は――ここにいる)
啼き縋り、許しを乞うつもりはない。犯した罪はすべて認め、その罰を受ける。
幾度の涙に崩れた薄化粧を蛇神様に晒すのは気がひける。しかし、ここは全てを受け入れるためにと、弥白は唇を噛みしめたまま顔を上げた。
真正面にある観音扉の奥の闇をぐっと見据えると、張り詰めた空気を爪弾くように低く甘い声がどこからともなく響いてきた。
それは夢の中で幾度となく弥白の名を呼んだ声――。
与えられる快楽の狭間で、時に心を揺さぶり、時に静めてくれた優しい声だった。
『待ち焦がれたぞ……花嫁』
「蛇神……さま」
『何を躊躇っておる? 我の懐に参らんか?』
その言葉に一瞬目を泳がせた弥白は、傍らに座る灰英をちらっと見て、草履で玉砂利を踏みしめた。
柔らかく足元を保つ砂利を鳴らしながら、扉の前に設けられた白木の階段の前で足を止めると、手を添えていた懐剣の柄をぐっと強く握りしめ、それを一気に引き抜いた。
そして、その研ぎ澄まされた刃を自らの首筋に押し当てると声を震わせた。
「私は……貴方の花嫁にはなれません。この体は穢されてしまいました……。嫌だと心は拒んでも、嬉々として悦ぶ体は……淫らに……」
剣を持つ手が震え、その刃が弥白の白い首筋に細い朱を引いた。
薄らと滲んだ血の匂いが、周囲に張り巡らされた気をさらに冷たく、そして恐ろしいものへと変えていった。
弥白の所業を見ていた灰英がわずかに腰を浮かす。しかし、蛇神の結界内にいる弥白に手を出すことは許されない。
「弥白っ」
思わず出てしまった声に、ハッと息を呑む。
「灰英は黙っていてっ!――私は蛇神守である灰英とも体を繋げました……。誘ったのは私、です。この淫らな体が疼いて……幼い頃から想いを抱いていた彼を……。貴方に捧げるはずだった処女を……彼に差し出した」
首筋に押さえつける力が徐々に強くなっていく。このまま力任せに引けば、確実に絶命するほどの切れ味を持った懐剣。
弥白の白い肌に一筋朱が流れた。その瞬間、ごうっという低い地鳴りと共に、足元が大きく揺れた。
その揺れに対応出来ずにその場に倒れ込んだ弥白の手から、刃先に血を滲ませた懐剣が離れると、灰英が急いで駆け寄り、その剣を離れた岩場へと放り投げた。
命を絶つすべを失い、恐怖に身をすくめたまま動けずにいる弥白に蛇神の怒りが炸裂するかと思われた。
しかし、地鳴りが治まりかけたその時、弥白の耳に聞こえてきたのは、どこまでも優しく、そして心が締め付けられるほどの憂いを秘めた低い声だった。
『――お前はまた、この日の為に刀匠に作らせた花嫁道具を血で汚す気か? そして……我をひとりにさせる気か?』
「え……」
『生きている意味を見い出せない苦しみと悲しみの闇の中で生きろと言うのか。自ら命を絶つことも許されず、ただ罪ばかりを重ねていく邪神として。また……お前を助ける事も出来ずに、自分を責め続けろというのか』
弥白はゆっくりと上体を起しながら、その悲痛な叫びを聞いていた。
胸が苦しい……。きつく締められた帯のせいなんかでは決してない。
彼の心の奥底にある何かを揺さぶるのは、それまで抱え続けてきた虚無感の正体。
『一度は神の世の底辺に落ちた我を救ったのは、たった一つしかないお前の命だった。お前を失うくらいならば、そんな力なぞ戻らなくても良かった……。今も、蛇神守に封印された力は戻っては来ない。力のない神は不要か? お前を愛する想いだけでは、その命を繋ぎとめることは出来ないのかっ』
「私は穢された……。貴方のもの、だったのに……」
弥白は無意識に口を突いて出た言葉に驚いた。自分の意思とはまるで関係なく、蛇神の声に応えるように言葉を紡いだのだ。
慌てて口元に手を運ぶと、神殿の奥をじっと見つめた。
闇が支配するその場所に何があるのか。肉眼では見えないものが見えたような気がしたからだ。
『――すべてを話してくれないか。もう、何も隠す必要はないだろう。我は真実を知りたいだけだ……。真実を見極める力を持ったお前が、その瞳に映したすべてを……知りたい』
「何を……言ってる……?」
蛇神の言葉に困惑の色を隠せない弥白は、何度も視線を宙に彷徨わせた。
薄暗い空間、湿った空気、闇の中に浮かび上がるように見える白い岩肌。
(ここは……)
ふと既視感を覚えて、後ろに控えていた従者を振り返った。
『――もう、隠れ遊びは終わりだ。器である弥白が戸惑っておるぞ……玄白』
誰も助けてくれない。誰も見つけてくれない……。
孤独と、どこまでも続く闇の中で動けずに蹲ったままだった。
そして――きつく閉じたままの目を薄らと開けた時、そこには見たことのない景色が広がっていた。
緑のない、灰色の世界……。高層ビルに囲まれ、騒音と曇った空しかない息詰まる世界。
(やはり、生まれてこなければ良かった……)
自身が探し求める最愛の男の姿はどこにもない。
再びこの世に生を受けたにもかかわらず、強烈な虚無感と失望に圧し潰されそうになった。
そう――何度も。
でも……。夢の中で彼の声が聞こえるたびに、ほんの少しだけ生きてみようと思った。それなのに、それを打ちのめすかのように、あの男たちの粗暴な手が私を犯していく。
快楽と深い傷を刻み込むように……。
苦しい……。痛い……。こんな体なんか消えてしまえばいい!
そうやって刃物を手首に当てては、彼の声に止められるという繰り返し。
悩んで、苦しんで、絶望して……。それでも生きろという。
低くはあるが優しい声音に導かれ、大きな手を差し伸べたその男に縋りつく。
手を伸ばせば届く……。今なら……その手を……。
「――分からない。自分がどうしたいのか、分からないっ」
奥底に溜まっていた澱を吐き出す様に、苦しげにそう呟いた弥白。目深に被っていた綿帽子が風に煽られるようにふわりと舞った。彼の栗色の髪がそよぎ、伏せたままの勝ち気な瞳がゆっくりと蛇神がいるであろう方へと向けられる。
その瞳は透明度の高い宝玉のような紅。長い睫毛に縁取られた美しい瞳は、ただ神殿の奥を見つめていた。
弥白の栗色だった髪が艶やかな銀色に変わっていく。
乱れた白無垢の襟元からのぞくのは、白い肌に浮かぶ月白の蛇の頭。
「弥白――いや、玄白様……なのかっ」
目の前で妖艶な姿へと変わっていく弥白を目にした灰英が思わず声を上げた。
その声に、わずかに視線を伏せたまま肩越しに灰英を見た弥白は、薄く赤い唇にふわりと笑みを湛えた。
「その名はこの体が朽ちると共に失いました。――皮肉なものですね。私の器が愛した男は蛇神守の末裔。そして……この体と私の体を穢したのも蛇神守の一族。人間を信じない黒芭がそばに置きたいと眷属にし、同じ神として生かしている貴方と同じ血が流れているとは思えない……」
「まさか……っ」
弥白のものとは思えない凛とした響きのある声が紡いだ言葉に、灰英は瞠目したまま息を呑んだ。
確かに、弥白を犯したのは蛇神守の血族である正幸だ。しかし、昔語りの中の玄白を犯したのも同じ蛇神守だったとは、にわかに信じ難い話だった。
「待ってください。まさか、貴方たちを護る蛇神守が……? 荒れ狂う黒芭の力を鎮めたのも、確かご先祖様だと聞いています」
「その通り。だから、貴方がいる……。彼の力を封じたのは直系である貴方の祖先。私を犯したのはその兄弟……。昔も今も、因縁は途切れることはない。時代は繰り返された……」
白無垢の袂を引寄せながら、ため息交じりに向き直った弥白――いや玄白は、穏やかな声音でそこにいるであろう最愛の伴侶に声をかけた。
「貴方の方こそ、いつまで隠れているおつもりですか? それほどまでに、私の前で弥白を抱いたことを後ろめたくお思いですか?」
すべてを悟っているかのように落ち着いたその声は、まるで子供をあやす母親のように温かく、そして愛情が感じられた。
その声に導かれるかのように衣擦れの音が暗闇の中から聞こえた。一寸先も見ることの出来ない闇の中から、その空間を切り取るかのようにして現れたのは、豪奢な紋様の入った純黒の衣冠単 に身を包んだ黒芭だった。岩場にそよぐ風に艶やかな長い髪を揺らし、頭上には灰英と同じく長い纓 が伸びた冠を乗せている。
その神々しいまでの佇まいに、普段目にしている彼とのギャップを感じた灰英は呼吸すら忘れて、彼を見つめる事しか出来なかった。
『――後ろめたいことなど何もない』
玄白の言葉に動揺を見せるかと思いきや、彼は至って余裕あり気な低い声で応えた。
『久しいな……玄白。いつ見ても美しい我が伴侶……』
言いながら、ゆったりとした足取りで白木の階段をおりると、草履を履くことなく白い玉砂利の上に足を置いた。
「貴方の目には何が映っていらっしゃいますか? 私の体はもうこの世にはありません」
『じゃあ、なぜ――俺たちを導いた? 体は朽ち果てても、その本質は変わらず弥白の中で蘇り、生き続けていた。俺の前にその美しい姿を現しては、幻のように消えていく……。そのあとに残るのは、お前を護れなかった罪悪感と深い悲しみだけだ』
美しい顔を歪め、眉を顰めた黒芭は玄白の前にその膝をつくと、冷たい指先を掴みよせて唇を寄せた。
『お前を失い、邪神として力を封印され……。もう生きていても仕方がないと何度も思った。しかし、神が己で命を絶つことは出来ぬ……。生き地獄とはまさにこの事なのだと』
遠い過去に失った最愛の伴侶の感触を思い出すかのように、黒芭は白く細い手に頬を寄せて肩を震わせた。
長い黒髪が肩を滑り落ち、彼の顔を覆い隠す。
灰英の位置からはその表情を窺い知ることは出来なかったが、黒芭の底知れぬ悲しみが眷属である彼にも伝わるかのように胸が押し潰されそうになっていた。
『――あの夜、何があった。お前を殺したのは蛇神守の男なのか? 教えてくれ……お前が見た真実を。すべてを……』
「それを聞いて何になるというのですか? 人間への復讐――貴方がそれを考えているのであるならば、私は閉ざした口を開くことはないでしょう」
数百年という長い年月。時代が流れ俗世で語られていた昔語りはいつしか、夜な夜な白蛇が村の男を誘い、その妖艶な体を繋げては生気を奪い、そして殺されたのだと……。
最愛の伴侶が犯していた人間との不貞関係。それを知った黒蛇が怒り、村を襲った――と。
人は時代の流れによって事実を無理やり捻じ曲げては、面白おかしくする傾向がある。
山間の小さな集落に伝わる蛇神の伝説もまた、一部の人たちの間ではそう伝えられていた。
だが、黒芭はそれを真っ向から否定した。玄白に限ってそんなことはあり得ない……。
自身の目で見ていたことであれば、何の揺るぎもなく言い切れたものが、心の奥底に根付いたほんの小さな闇が大きな疑念を抱かせていく。
神としての力を失った蛇神に愛想を尽かした――と言われても、その時の黒芭は何も言い返せなかったのだ。
『何も知らないとは恐ろしいことだ。それが最愛の伴侶のことであれば尚更だ。不安、疑念、嫉妬、失望……そして悲しみ。逃れようともがいても、いつでも俺を雁字搦めにする。もう……苦しくて、堪らない。いっそこの場でお前に……』
決して口に出してはならないその言葉が黒芭の口をついて出ようとした時、玄白の凛とした声が鋭く制した。
その声は神である黒芭の動きを止めさせた。
「この村の鎮守である貴方が何を仰っているのですか? 私の命よりも大切なもの……。それは民の命です」
『玄白……』
「でも――。私はその大切なモノを貴方に奪わせた罪深き伴侶。この罪は何度生まれ変わっても赦されることはありません」
長い睫毛を揺らして目を伏せた玄白は、何かを決意するかのように赤い唇を微かに震わせて、ゆっくりとそのおもてを上げた。
「貴方は私の思った通りの人……。あの時、私が見ていたのは暗鬼に憑りつかれた幻想。自身の地位も身分もかなぐり捨てて、人間だった私を神に迎えてくれた。それなのに……その愛を信じきれなかった」
大祭の夜とは思えないほど静寂に包まれた洞窟内には小川のせせらぎと、岩肌から落ちる水滴の音だけが響いていた。
誰もが息を顰め、神殿の前に佇む今は亡き玄白の姿をただたた見守る事しか出来なかった。
玄白は膝に添えていた片方の手を、そっと帯の上に重ねられた純白の帯揚げに当てた。
きつく結ばれた唇が先ほどとは違った様相を見せる。苦しげに、そして何かに耐えるように――。
花嫁衣装の帯揚げは『子宝に恵まれるように』という願いが込められている。それを愛おしそうに何度か撫でた後で、すぐそばにある黒芭の顔を見上げて一筋だけ赤い涙を流した。
「――あの夜の真実を、すべてお話します」
溜め込んでいた息を吐き出す様に重々しく口を開いた玄白は、黒芭の手を握り返しながらぽつり、ぽつり……と話しはじめた。
河原で黒芭のことを想いながら笛を吹いていたこと。その帰りに偶然耳にした蛇神守の声。
鎮守として大切に守ってきた村を隣村の役人に売り払おうとした企て……。
そして――納屋での出来事。
時に声を震わせ、その時の想いを挟みながら、玄白は全てを告白した。
自身を犯した男たちが立ち去ろうとしたところで、黒芭は耐えきれずにその美しい顔を歪めた。
「なんてことだ……。なぜ、我を呼ばなかった……」
長年蓄積された想いと苦しみが入り混じった呟きは、玄白の心を大きく揺さぶった。
契りを交わした伴侶であれば、思念を飛ばして相通じることが出来た。しかし、それをしなかったのは黒芭のことを思ってのことだった。
「――ただ闇雲に怒りに任せて人間を襲う貴方を見たくなかった。それならば、この村を守るために……と。私は蛇神守に殺されたのではありません。自ら命を絶ちました……。貴方から貰った懐剣で、この喉を切り裂いたんです。神の自害は禁忌とされているのは分かっていました。でも……私は完全な神ではなかった。もとはちっぽけな儚い人間だったのです。再び生まれ変わることなど出来ないと覚悟しました。それでも、最後に願ったんです。出来ることならば、もう一度……貴方の腕の中で……と」
『玄白……』
赤い涙が白無垢に次々と流れ落ちる。それはまるであの夜のことを思い出させるように、襟元を赤く染め上げた。
「――『蛇抜』が引き起こした未曾有の災害。そんなことが起きる村など誰が欲しがるものですか。この村の民は皆、強く前向きです。それを知っていたから……荒れ果てた地でも、必ずもとの美しい村に戻してくれることを信じてみたのです。山々に囲まれ、澄んだ空気と清らかな水、穏やかな時間の流れ……。なに一つ、あの時と変わっていない。私が愛した村……。そして、貴方が愛した村が今でもここにある」
静かではあるが、力強さを秘めたその言葉に、すべてを聞いていた灰英と従者は頬を伝った涙を乱暴に拭った。
技術が進み、何もかもが便利になった世の中。不自由など何もない。それでもまた、人間は貪欲に新しいものを築こうとする。その犠牲になるのは決まって時代錯誤の古びた風景。
玄白が黒芭と共に恋に落ち、愛を育んだこの村を守るがゆえに散らした命。
その命は、昔と変わらぬ景色を保ったまま現代に継承していくための尊い絆。
「――私の役目はもう終わりました。ここにいる弥白の中で眠ります。自身の身勝手でその命を失った……この子と共に」
玄白は帯締めをぐっと押えこみ、無理やり笑顔を作って見せた。その笑みは黒芭が見たどんな彼よりも悲しく、そして慈しみに満ちていた。
『この子……?』
「貴方には黙っていた……。私が犯した罪はもう一つ……。貴方の子を身籠っていました」
過ぎ去ったことを笑い話にでもすり替えようとしているのか、玄白は泣きながら唇を一生懸命引き上げて笑っていた。
『我が子を身籠っていたのかっ!』
「謝って赦してもらえることではありませんよね。私はどこまでも愚かな……人間でした」
『何を言っている! お前は我が選んだ伴侶だぞ! 契りを交わし、白蛇となった神ではないかっ』
黒芭の力強い腕が玄白の体を引寄せた。着物越しに感じる最愛の伴侶の温もりに、玄白は堪えていた嗚咽が堰を切ったように溢れ出した。
もう、二度とないと思っていた。どれだけ望んでも、黒芭に抱きしめて貰えることなどないと……。
大きな手が透き通った銀色の髪を何度も撫でていく。
そのたびに何百年も前に、閨での激しくも優しい夜を思い出す。
互いを気遣い、幸せを感じたあの頃のように……。
玄白はゆっくりと目を閉じて、いにしえの香りに想いを馳せた。
『玄白……。力と共にお前を幸せにする自信さえも失った我を許せ……。お前は我には勿体ない男だ。愛している……もう、離さない』
「私は弥白、弥白は私です……。この体と心を満たせるのは貴方と灰英だけ。失った小さな命はきっとこの体に宿りましょう……。愛する者たちの想いを繋ぐために」
背中に回された黒芭の手に力がこもる。その強さを心地よく感じながら、玄白の気配はすぅっと音もなく消え去った。
弥白の体から光の粒子が舞い散り、薄暗い洞窟を真昼のように照らした。
その眩しさに、灰英は『真実の意味』を教えられたような気がして、胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
この世の中に正しい答えなんて何一つ存在しない。
間違っていても、それが将来的に役に立つこともある。
玄白が見極めた真実は後者――。澄んだ紅の瞳が映し出していたのは、何百年もあとの未来。
最愛の伴侶が眠る弥白の体を抱きしめたまま、長い黒髪を滑らせた黒芭の肩が小刻みに揺れていた。
今まで人に弱みなど見せたことのない邪神が、眷属である灰英に初めて見せた弱さだった。
そんな彼を見ていることにいたたまれなくなった灰英は、そっと立ち上がり二人に背を向けた。
『――どこへ行く』
掠れた低い声が灰英の背中を追いかけた。
「決まってるだろ……。玄白様の願いを叶えるために、貴方の封印を解くんだよ。最近、体が鈍ってるから、上手くいくかどうかは分からないけどな……」
『灰英……』
「蛇神守の継承者として恥ずかしいよ。神を冒涜し、挙句の果てに死に至らしめた。その責任は末裔である俺がとるしかないだろ……。玄白様にも弥白にも、これ以上辛い思いはさせたくない。二度と空虚な思いなどさせない……。そのためには俺たちが満たさなきゃならないんだろ?」
オレンジ色の行燈の光に照らされた精悍な顔立ちが薄闇の中でもはっきりと分かる。
深く澄んだ水を湛える滝壺のような青い双眸が、強い意志を持って輝いていた。
「――言っておくが」
『なんだ?』
「解放した力で再び村を襲うようなことがあれば容赦しないからな。貴方の眷属として全力で阻止する……」
『その言葉、お前にそのまま返しておこう……。弥白を悲しませるようなことがあれば白い雨が降る。それだけは肝に銘じておけ』
黒芭の言葉に片手を上げて応えた灰英は、振り返ることなく洞窟の出口の方へ歩いて行った。
行燈の光も届かない暗闇――。その先にあるのは、この村の明るい未来。
そう願いながら、自らが持つ力を徐々に開放していった。
心強い眷属の頼もしい言葉に、黒芭は唇の端を片方だけ上げて口元を綻ばせた。
腕の中で力なくその身を委ねる弥白を見つめ、目尻に溢れていた滴が一筋だけ流れた。
玄白の強い意思と願いを抱いたままこの世に生を受けた弥白を愛することが、彼を愛することに繋がっていく。あの声も、あの肌も、あの香りも……。もう触れることは叶わないが、間違いなく玄白の気配を感じられる。
黒芭は弥白を横抱きにすると、ゆっくりと立ち上った。
『寝所にて待っているぞ……灰英』
そう呟いた黒芭の心は春の陽のように穏やかで、どこまでも澄み渡っていた。
蓄積した澱が消えていくように、弥白の袂から零れ落ちる光の粒子がキラキラと洞窟に舞い散った。
『――寝所にて初夜の契りを交わす。我らが出るまで、なんびとも社に近づけるな』
玉砂利を踏みしめ、白木の階段に足を掛けた時、黒芭は振り向くことなく従者にそう告げた。
そのいつになく張りのある声に、傍に控えていた従者がほっと肩の力を抜いた。
伴侶を失い、悲しみに暮れ、自身を貶め続けてきた主の復活。
雄々しくも、その心中は穏やかで愛に溢れている。その勇姿を再び目にする喜びに胸が高鳴った。
「御意……」
主の憂いは従者たちにも影響する。岩場の陰から気配を消して窺っていた者たちにも自然と笑みがこぼれていた。
洞窟の入口の脇に鎮座している『蛇石』の苔生した岩肌に、低い地鳴りと共に一筋の亀裂が走ったのは、黒芭が神殿内に姿を消して間もなくの事だった。
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