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第5話 泣きぼくろ
輝の実の父親は、文字通り口うるさかった。婿養子で高卒の自分のコンプレックスを輝に託して、輝が地元の国立大学に進み、地元の大企業に就職することを願ってやまなかった。逃れたかったのはバイト先の先輩だけではなく、この父親からでもあった。
富樫さんは父親とは全然違う、と輝は思う。見た目だって全然違う。少し白髪が混じり始めてはいるが、豊かな髪。輝より背が高く、がっしりと筋肉質な体躯。笑うと目尻に皺が寄るところは年相応だけれど、皺に隠れる小さな泣きぼくろが色っぽいと思う。
「俺の顔に何かついてるか?」あまりに見つめすぎたのか、富樫が聞いてきた。
「いえ。」輝は慌てた。慌てつつも、少しだけ本音を言ってみた。「富樫さんのそのほくろ、いいなって思って。」
「ほくろ? ああ、これだろ? このへんにある、泣きぼくろ。」富樫は自分の目尻のあたりを指差した。輝がそうそうと頷くと、「子供の頃、これがある奴は泣き虫なんだってからかわれて、そいつの前では絶対に泣くもんかって思った。」
「泣かなかったんですか?」
「泣かなかった。」
「泣き虫じゃなかったんだ。」
「それが、陰ではよく泣いてた。そいつはリトルリーグのエースでね。何をしても敵わなくて、試合のたびに隠れて泣いた。でも、一番泣いたのは、そいつを負かして、俺がレギュラーに選ばれた時かな。」
「そう言えば僕も見たことないですね、富樫さんが泣くところ。悲しいドラマ見てても、泣かないじゃないですか。」
「気が張ってたんだよ。おふくろのことも、君たちのこともね。」
「僕たちのこと?」
「だって人様から預かってる大事な息子さん方だ。何かあったら申し訳が立たない。」
輝は改めて富樫を見た。「そうなんですね。……今まで、ありがとうございました。」それからニコッと笑う。「あと2年、よろしくお願いします。」
「まったく、手のかかる。」
「でも。」
「ん?」
「これからは泣いていいですよ。僕の前だったら、そんな気を張らなくていいでしょ?」
「輝……。」
「今日だって、少しは役に立てたでしょ。もっと頼ってくれて、いいんですよ。」
「はは。」富樫は乾いた声で笑った。「生意気な奴めと言いたいところだけど、すっかり世話になっちゃったもんな。」
「富樫さんは今までひとのために我慢しすぎだったんですよ。お母さんのため、僕らのためって。そういう富樫さん、尊敬するし好きだけど、時々心配になります。」さりげなく好きだという言葉を混ぜ込んで、輝は言った。
「大人になったな、輝も。」富樫は眩しそうに輝を見た。
「だといいですけど。」
輝は立ち上がり、マグカップを片付けた。
夜、湿気をまとわないうちにと洗濯物を取り込んだが、干したのが遅かったせいか、わずかに乾ききっていない様子だ。輝は食堂の片隅に組み立て式のバーを設置して、それらの洗濯物を干し直した。この部屋が一番暖かいから、室内干しならここと決まっていた。
「乾かなかったか。悪いね。」富樫もやってきた。食事場所。トイレや浴室に行くにも、庭に出るにも通る部屋。大型テレビもある。そんな風に用事の多い部屋だから、エアコンが稼働していることが多い。それが食堂が一番暖かい理由だった。だが、今の富樫の用事が何か、輝には分からなかった。
「お風呂ですか?」
「輝はもう入った?」
「いえ、まだです。これ干してからにしようと思って。」
「じゃあ、その後でいいや。」
「大丈夫ですか、腰。」
「ああ、おかげさまで、すっかり元通り。」
「そうだ、布団は敷けます? 僕、敷きましょうか?」
「平気だって。」
「ベッド、処分しなきゃよかったですね。ベッドなら布団の上げ下ろししなくて済んだのに。」
亡くなった老母のベッドは介護用のリース品だったから、亡き後は返却したのだ。そのことを知らずに輝はそう言い、富樫は特に訂正もしなかった。この若い下宿生には関係のない話だと思ったからだ。
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