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#1 face

机上に並ぶアルファベットの羅列。 蟻の行列みたいに脳を右から左へ抜けていく。 「水島ってさぁ、エースなんしょ?」 降ってきた声が、穴埋め問題の括弧の中にすとん、と腰を下ろした。 He has been ( ACE ) in me. 意味がわからん、0点解答だ、邪魔すんじゃねえ。 「何だよいきなり」 かじりついていた課題のプリントから顔を上げる。 ひとつ前の席の椅子に後ろ向きで跨るのは、先々週からクラスメイトになったばかりの男。 俺の机に片肘をついた達規悠斗の、キツネを思わせる吊り気味の目が、茶色い前髪のあいだから覗いていた。 「佐々井がめっちゃ言ってたし。水島はサッカー部でダントツ上手い、先輩より上手いって」 ほとんど初対面に近い相手からの、唐突な賛辞、しかも又聞き。 流せばいいのか謙遜でもすればいいのか、咄嗟の反応に困った俺は、口を開けたまま一瞬固まった。 そんな俺の返答など待ってもいない様子で、達規は「でもさあ」と続ける。 「エースが練習チコクはダメっしょ」 にや、と持ち上がる口角。人を馬鹿にするというよりは、悪戯を暴くような表情だった。 開いていた俺の口から「な」と意味を成さない音が零れる。 「う……っせ、わかってるよ」 「お。エースは否定しねえのな。カッコイー」 傾けた椅子をぎこぎこ揺らす音が、軽口と重なって耳障りだった。 思いきり眉根を寄せてじろりと視線を走らせると、奴は更に愉快そうに目を細める。 「でも居残りだしやっぱダッセェ」 ――本気でうるせえ。シャーペンを握る指がじわじわ白くなっている。 こいつ何でここにいるんだ。 俺は人影も疎らになったクラスを見回す。 終業時間はとうに過ぎていた。確か帰宅部だったはずの達規が、なぜまだ教室にいる。 ヤンキーらしく駄弁りたいなら勝手にすればいいが、誰かとつるんでいた様子もないし、そもそもお前の席はそこじゃない。 何でわざわざ俺に絡んできたんだ、この学年首席様は。 「……何か用かよ」 邪魔だ失せろ、という言葉は飲み込みつつも、ニュアンスはしっかり滲ませて吐き捨てる。 達規は頬杖をついたまま、もう片方の人差し指で机上の英文をトン、と叩いた。 「佐々井にさあ、頼まれたの」 「は?」 「水島が英語やべえから、教えてやってくれって。毎日居残りとか、補習とかになられたら困るんだってさ」 サッカー部の明暗はお前に懸かってるらしいよ。 わざとらしく溜め息混じりに言いながら、達規は肩を竦めてみせた。 おいこら勝手に何言ってやがる佐々井。今頃グラウンドの隅でウォームアップ中であろうチームメイトに、内心で中指を立てる。 「いらねえよ。余計なお世話だっつの」 「エンリョすんなって。だって水島さ、わかってる?」 いい加減イラついてきて言葉尻が荒くなるが、当のエセヤンキー野郎は意に介さない。 あろうことか俺が先程まで向かい合っていたプリントを抜き取り、雑巾か何かのように指先で摘むと、顔の高さまで掲げ上げてヒラヒラと揺らした。 そして言い放つ。 「新学期早々、こんな小テストごときで居残り喰らってんの、お前だけだよ。しかも内容、一年の復習じゃん。秒でデキるやつじゃん。今の時点でコレってさ、今後けっこーヤバくね? 取り返しつかねー事になんね?」 俺は突然の正論に腹を殴られて呻き声をあげた。 わかってはいる。 中学の頃から苦手意識のあった英語が、高校一年目を終えた今、悪性腫瘍となっているのだ。他の科目は平均かそれ以上なのに、英語だけがどん底。 まず間違いなく、このままではヤバい。 わかってはいるのだが、今俺の目の前にいるのは、曲がりなりにも学年首席様だ。 その口から突きつけられる現実は、容赦のないハードパンチとなって俺のメンタルを襲った。 「……だから、マジでヤバくなる前にさあ」 呻いたっきり言葉に詰まった俺の顔を暫し眺め、首席様は白い歯を見せて人懐こく笑う。 「達規さんが教えたるわーって言ってんの。文句あんなら俺を任命した佐々井に言ってよ」 自尊心に重傷を受け、危機感を煽られた俺に、もはや拒む術はなく。 達規悠斗と俺の関係は、表面上、こうして始まった。

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