67 / 142
#8-3
少し前なら声を弾ませていたであろうその名前を、佐々井はぽそりと零すように口にすると、机の上に置かれていたスマホを手にする。
電話ではなくメッセージだったようだ。画面をタップし数秒間眺めたかと思うと、「んあー」と変な声を上げながら両手で頭を抱えた。
「何、どうしたん」
「……うちで一緒に勉強しよう、って」
「マジか」
一線を越えた結果、心にダメージを負ったあの日以来、佐々井は珍しくぐじぐじと悩み続けていた。
工藤のことは好き、やりたい、でもセフレは嫌だ、でもそれを伝えて重いとフラれるのも辛い。ドラマのOLか、とでも言いたくなるような葛藤を抱えながらも、誘われてその後も二回ほど会ったらしい。
「うちで、は完全にアレじゃん。その流れじゃん」
「だよなぁ……どうしよう……」
「どうしようっつっても、結局行くんだろお前、どうせ」
「どうせとか言うなよぉ……」
またぐじぐじと不満をこねくり回し始めた佐々井だが、達規が「行ってマジで勉強だけして帰ってくれば?」と言うと、それだ! と顔を輝かせた。
「向こうの思い通りになるから、都合のいい男と思われるんだ。やらないで勉強だけなら、健全なおうちデートだ。俺はおうちデートをする!」
そう宣言すると、音の速さで工藤に返事を打ち、光の速さで荷物をまとめると「じゃあな!」と無駄に爽やかに手をあげて去っていった。
ひらひらと手を振り、佐々井の背中を乾ききった目で見送ってから、達規が言う。
「あれさあ、誘われてもやらずに我慢できると思う?」
「無理だろうな」
明日も新たなぐじぐじに付き合わされる予感がしてならない。想像して二人同時に溜め息をついた。
「工藤もなんであんなアホ相手にしてんだよ」
「アホだからじゃん? 手玉に取れる男がいいんじゃねーの。つーか、勉強を口実にしてんのがムカつくね!」
達規は突然拳を握り、ダンッ、と机に打ち付けた。
「一緒に勉強しよ、とか、どの口が言っとん。てめー佐々井のアホに数学教えられんのかよ、保健体育しかできねーくせに。俺くらい点数とってから言ってみろっつーの、バーカ、工藤のバーカ!」
「おお……そこにキレんのか……」
さすが勉強オタクは着眼点が違う。今まで見たことのない勢いで捲し立てる達規に、軽く尊敬の念すら覚えた。
ともだちにシェアしよう!