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#10-9
「夏休み明け……、顔に痣つくってただろ」
「あー、あれはね、勝手にトラガス開けたら怒られたの」
軽い口調で言いながら、左耳にかかった髪をかきあげた。トラガスってこれね、と指差す耳の真ん中あたりには、黒っぽい丸いピアスがひとつ刺さっている。
そういえばあの日、佐々井が気づいて指摘していたのを薄っすら思い出した。
怒られた。誰に。
親ではないだろう。
聞かなくてもわかるし、半ば予想通りではあったが、それでもにわかに信じがたくて絶句する。
あんな痣ができるほど殴られたのか。自分の耳に勝手に穴を開けた、そんな理由で?
「そんなキレると思わねーじゃん。ビビったね、殴られたのはさすがに初めてだった」
枕の上に小さな頭を乗せ、乾いた笑い混じりに達規は続ける。指先で耳朶の端に触れながら。
「まあでも、さすがに俺も腹立ったから、一週間シカトしたんだけど。そしたらそれ以降は殴られてない、今んとこ」
深刻さを一切感じさせない、軽薄ですらある口調は、さっきのオクターブ高い女声のようにわざとらしくはない。
それでも作った声であることは、いい加減、俺にも見抜けた。
たぶん、達規のこれは、もう癖みたいなものなんだろうということも。
痛いとか辛いとか苦しいとか、きっと誰にも言わずに生きてきたんだろう。
もしかしたら自分でも目を逸らしながら。
これが普通だ、何でもないことだと、自分に言い聞かせながら。
「あのさ」
俺は言葉にする覚悟を固める。頭の中で、腹の中で、どうしようもなく渦巻いている重たいものを。
「お前がそうやって、殴られたり、したくもないこと無理矢理されたり、してんの……すげえ、嫌だ」
達規には達規の事情があって、自分の中で折り合いをつけているんだろう。これは俺のエゴかもしれなくて、そうだとしても、だ。
「嫌だけど、どうしていいかわかんねえ」
俺は達規に傷ついてほしくない。そういう存在にいつの間にかなっていた。
エゴだ何だと言うのなら、深入りした時点でとっくに。
「俺、……何ができる?」
できることがあるなら、教えてくれ。
こっちを向いて寝転び、福助を腕に抱いたまま、じっと俺を見上げてくる達規の瞳は静謐だった。
表情は読み取れず、その向こうの思考も俺には見えないから、ただ見つめ返す。
身じろぐ福助の被毛に片方の頬を埋めて、達規はふっと頬を弛めた。
「水島が俺の病気、治してくれんの?」
問いに問いで返されたそれは、どこか諦めに似た響きを伴った。
ビョーキ、という音が心臓を掬う。笑みになる半歩手前のような目が、茶色い髪の狭間、やわらかく霞んでいる。
「しんどいくらい誰かに求められてないと、生きてるって思えない、病気」
ほとんど囁きに近いその穏やかな声は、波打つように鼓膜を叩く。
俺は初めて達規の本当の声を聞いた気がして瞬きも忘れた。
「水島が俺のこと、しんどくさせてくれんなら、治るかもね」
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