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#12-8

「なんもわかんねえよ、わかんねえけどっ」 達規が引いた境界線を踏みつけている。自分でもわかっていた。でも止められない。声がつい強くなる。 「だってお前、嫌なんだろ、なんで大人しく言うこと聞いてんだよ!」 お前くらい頭良かったら、どうにでも逃げ道見つかるんじゃないのかよ。逃げないのはなんでだ。俺にあんな話をしておいて、そこまで拒むのは、なんでだ。 言いたいことはいくらでも出てくる。聞きたいことはまだまだある。全部を言葉にしてしまったら決定的に壊れてしまいそうで、すんでのところで噛み殺す。 それでも達規は十分表情を強張らせていた。口元を歪め、吊り上がった目に苦痛に似たものを滲ませて、息を飲む。 すでに日が落ちたとはいえ、周囲はそれなりに人通りがあった。ジャージと私服姿で口喧嘩をする男二人。 ちらちらと視線を感じる中で、達規は唇を噛んでいる。血が出るんじゃないかと心配になるほど強く噛みしめた唇が、やがて小さく開いた。 「あの人、シュミなんよ」 消え入りそうに細くも、何か大きな感情を抑えつけているような声で言う。 「自分のテリトリーに俺呼びつけて……今までのバイト先とか、学校とか、全部」 俺を睨みつけていた目は伏せられ、風に揺すられる前髪の下で、足元を見つめていた。 「今だって、水島が来なかったら、トイレかどっか連れてかれてやってたんだよ。どこでやる気だったのか知んねーけどさ」 耳を澄まさないと聞こえないくらいの声は、もう明確に震えている。俯いた瞳が揺れて、泣き出しそうに見えたけれど、達規は泣かなかった。ただ浅い呼吸の合間に掠れた言葉を零していく。 「わかってんの、やなの、でも呼ばれたら来るしかねーの。コワイから。コワイんよ、あの人」 不意に顔を上げた達規の、その目に射抜かれる。今にもぼろぼろに砕けて崩れ落ちそうな虚勢を張ったまま。 「水島に何がわかんだよ」 絞り出すような声を最後に、動けない俺の横をすり抜けて達規はその場を立ち去った。 肩が触れるほどの距離だったのに、手を伸ばして引き留めることが俺にはできなかった。 足音が遠ざかるのさえ、雑踏に紛れて聞き分けられない。夜の匂いの風が吹く。 やっとの思いで振り返ると、茶髪の後ろ姿は人の波の向こうでとうに小さくなっていた。

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