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第3話 腐ったイワシの頭とカレー弁当
カラスの声が真上に聞こえる。
それ以外は落ち葉を吹き上げる風の音が、時折聞こえるだけだった。
今何時頃だろう? 時間の感覚が曖昧だ。
それもそのはず。この雑木林にテントを張って、もう3日目になっていた。
「暇だー!」
暗い林に向かって、俺は叫ぶ。
木の上のカラスが驚いて、飛び立つ気配がした。
と、それと入れ替わるようにして、別の何かが近づいてくる。
タタタ、と落ち葉を踏む確かな足音。
それはダンスでもしているみたいに軽快だった。
(来たか)
だらけきっていた気持ちがきゅっと引き締まる。
俺が心待ちにしていたのはあの足音ではないけれど、暇しているよりマシだ。
「志童」
テントから出て立ち上がると、小走りに駆けてくる背の高いシルエットが見えた。
「天心! いたいた、まだいた!」
「嬉しそうにすんなよ、俺だって好きこのんでこんな場所に長居してんじゃねえ……」
「だって、せっかく来たのにいなくなってたらイヤじゃん」
「で、例のものは?」
「持ってきたよ~!」
志童が右手にぶら下げていた、買い物袋を持ち上げた。
ふたりテントの中で額を寄せ合い、袋の中のものをさっそく取り出す。
そしてプラスチックのふたを開けると、狭いテントが独特の香りに包まれた。
「うわ、うまそ……」
ここに来てから温かいものを口にしていなかった俺は、思わず生唾を呑み込む。
今の俺ほど飢えていなくても、この琥珀色のソースに食欲をそそられない人間はそういないと思う。
そう、今目の前にある食べ物は現代日本人のソウルフード、カレーライスだ。
「そうそうこれ」
志童が袋の中から小袋をつまみあげる。
そこには唐辛子のイラストと『辛みスパイス』の文字が描かれていた。
「トッピングしちゃう?」
「いや、待て!」
「天心、辛いの好きでしょ?」
「非常~に残念だが……これを食うのは俺じゃない」
首を傾げる志童に人差し指を立ててみせ、俺はカレーを手に林の奥を窺う。
さっきまでなかった、『ヤツ』の気配が近づいていた。
姿までは見えない。
けれどタイミングからいって、『ヤツ』がこのカレーの匂いに引かれて来たのは間違いなさそうだ。
俺はすり足で進み、テントから離れた木陰にカレーを置いて戻った。
それからテントに戻り、息をひそめること数分。
(……来た!)
それは小さなツノを生やした子鬼だった。
人間の幼児くらいの体の大きさで、下駄履きにはんてんといういでたちをしている。
そいつはカレーを見つけるとそこへ座り込み、一心不乱に食べ始めた。
「あれって……?」
すぐそばで志童がつぶやく。
「ここに出るってウワサだった子鬼だな。腐ったイワシの頭で誘ってたんだが、全然ダメだったからもしやと思ったんだ」
「イワシじゃダメだったから、今度はカレー? ちょっとよく分からない」
「お前にも分かるように説明するとだな」
美味しそうに食べる子鬼を見ながら、俺は解説する。
「鬼は生き物の死体を食うって言われてるんだ。それで腐ったイワシの頭でおびき寄せるっていう方法は、定番中の定番だ。けど今の時代、イワシの頭はないだろうって気もしていて……」
「それでカレー?」
「ああ。向こうが子供なら、カレーの匂いに引かれないわけがない」
「で、ビンゴだった?」
「そういうこと」
カレーを食べ終わり、子鬼は腹を撫でながらプラスチックのスプーンを置いた。
「けど、あいつ捕まえる必要はなさそうだよな。スプーン使ってカレー食う生き物が、そう簡単に人を襲うとも思えない」
「まあ、確かに」
志童も納得の顔になる。
「とりあえずカレー食ってたってことで、クライアントには報告だな。引き上げよ」
子鬼が林の奥へ消えていく背中を見送って、俺はテントを畳んだ。
すると荷物をまとめるのを手伝いながら、志童がきらりと光る笑顔を浮かべる。
「じゃあさ、天心、夕飯時だしなんか食べに行こうよ! 駅の方にいろいろあったよ、ファミレスとか居酒屋とか」
「確かにいろいろあったな……」
けれども、頭に浮かぶものはひとつだった。
「さっきのカレー弁当にしよう」
「え、ここ離れられるのにわざわざ弁当?」
志童が手を止め、不思議そうに俺を見上げる。
「いいだろ、食いたいモンは食いたいんだよ!」
「ははっ、分かった! 大盛りカレー弁当ね!」
林に漂うカレーの残り香を吸い込み、俺たちは足早に弁当屋を目指した――。
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