3 / 17

第3話 腐ったイワシの頭とカレー弁当

カラスの声が真上に聞こえる。 それ以外は落ち葉を吹き上げる風の音が、時折聞こえるだけだった。 今何時頃だろう? 時間の感覚が曖昧だ。 それもそのはず。この雑木林にテントを張って、もう3日目になっていた。 「暇だー!」 暗い林に向かって、俺は叫ぶ。 木の上のカラスが驚いて、飛び立つ気配がした。 と、それと入れ替わるようにして、別の何かが近づいてくる。 タタタ、と落ち葉を踏む確かな足音。 それはダンスでもしているみたいに軽快だった。 (来たか) だらけきっていた気持ちがきゅっと引き締まる。 俺が心待ちにしていたのはあの足音ではないけれど、暇しているよりマシだ。 「志童」 テントから出て立ち上がると、小走りに駆けてくる背の高いシルエットが見えた。 「天心! いたいた、まだいた!」 「嬉しそうにすんなよ、俺だって好きこのんでこんな場所に長居してんじゃねえ……」 「だって、せっかく来たのにいなくなってたらイヤじゃん」 「で、例のものは?」 「持ってきたよ~!」 志童が右手にぶら下げていた、買い物袋を持ち上げた。 ふたりテントの中で額を寄せ合い、袋の中のものをさっそく取り出す。 そしてプラスチックのふたを開けると、狭いテントが独特の香りに包まれた。 「うわ、うまそ……」 ここに来てから温かいものを口にしていなかった俺は、思わず生唾を呑み込む。 今の俺ほど飢えていなくても、この琥珀色のソースに食欲をそそられない人間はそういないと思う。 そう、今目の前にある食べ物は現代日本人のソウルフード、カレーライスだ。 「そうそうこれ」 志童が袋の中から小袋をつまみあげる。 そこには唐辛子のイラストと『辛みスパイス』の文字が描かれていた。 「トッピングしちゃう?」 「いや、待て!」 「天心、辛いの好きでしょ?」 「非常~に残念だが……これを食うのは俺じゃない」 首を傾げる志童に人差し指を立ててみせ、俺はカレーを手に林の奥を窺う。 さっきまでなかった、『ヤツ』の気配が近づいていた。 姿までは見えない。 けれどタイミングからいって、『ヤツ』がこのカレーの匂いに引かれて来たのは間違いなさそうだ。 俺はすり足で進み、テントから離れた木陰にカレーを置いて戻った。 それからテントに戻り、息をひそめること数分。 (……来た!) それは小さなツノを生やした子鬼だった。 人間の幼児くらいの体の大きさで、下駄履きにはんてんといういでたちをしている。 そいつはカレーを見つけるとそこへ座り込み、一心不乱に食べ始めた。 「あれって……?」 すぐそばで志童がつぶやく。 「ここに出るってウワサだった子鬼だな。腐ったイワシの頭で誘ってたんだが、全然ダメだったからもしやと思ったんだ」 「イワシじゃダメだったから、今度はカレー? ちょっとよく分からない」 「お前にも分かるように説明するとだな」 美味しそうに食べる子鬼を見ながら、俺は解説する。 「鬼は生き物の死体を食うって言われてるんだ。それで腐ったイワシの頭でおびき寄せるっていう方法は、定番中の定番だ。けど今の時代、イワシの頭はないだろうって気もしていて……」 「それでカレー?」 「ああ。向こうが子供なら、カレーの匂いに引かれないわけがない」 「で、ビンゴだった?」 「そういうこと」 カレーを食べ終わり、子鬼は腹を撫でながらプラスチックのスプーンを置いた。 「けど、あいつ捕まえる必要はなさそうだよな。スプーン使ってカレー食う生き物が、そう簡単に人を襲うとも思えない」 「まあ、確かに」 志童も納得の顔になる。 「とりあえずカレー食ってたってことで、クライアントには報告だな。引き上げよ」 子鬼が林の奥へ消えていく背中を見送って、俺はテントを畳んだ。 すると荷物をまとめるのを手伝いながら、志童がきらりと光る笑顔を浮かべる。 「じゃあさ、天心、夕飯時だしなんか食べに行こうよ! 駅の方にいろいろあったよ、ファミレスとか居酒屋とか」 「確かにいろいろあったな……」 けれども、頭に浮かぶものはひとつだった。 「さっきのカレー弁当にしよう」 「え、ここ離れられるのにわざわざ弁当?」 志童が手を止め、不思議そうに俺を見上げる。 「いいだろ、食いたいモンは食いたいんだよ!」 「ははっ、分かった! 大盛りカレー弁当ね!」 林に漂うカレーの残り香を吸い込み、俺たちは足早に弁当屋を目指した――。

ともだちにシェアしよう!