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第3話
ベルフレイシェの目が覚め、あどけない表情で室内を見回している。対面のソファで妹に淹れてもらったコーヒーを啜るフォランを捉え、顔面は不機嫌一色に染まった。
「おはよう」
「何故ここにいる…」
声が嗄れていた。頭を押さえて、まだ眠そうだった。
「運んだんだよ。妹ちゃんから電話来たから」
「…シャーリィに会ったのか」
段違いに留められたホワイトシャツの釦、緩く締められたベルト、乱雑に着せられたスーツを整えながら姿勢を正しフォランに対する。
「会ったどころじゃないよ。さっきここで話した」
「かわいいだろう」
「そうだな、オレの妹の次くらいに」
「違う…そんな話がしたいんじゃない……」
背を丸め、両膝の上に肘をつくと頭を抱えてしまった。俯き、身を縮め、脚が震えている。
「用は済んだはずだ…!とっとと失せたらどうなんだ」
ふん、とフォランは鼻を鳴らした。
「1度きりだと思ってる?」
「当然だ!要求は全て飲んだだろう…」
「でも妹さんはさぁ…シャーリィは、そう思ってないよ」
汚らわしい!気安く呼ぶな!とベルフレイシェは吼えた。
「何だいそれは。公認なんだよ。妹公認の、そう、恋人だし婚約者だ」
はははっと高らかに笑ってやるとベルフレイシェの顔面はまた犯される前のように真っ青になった。眉間に刻まれた皺が小刻みに痙攣している。
「まぁ、実質はセックスフレンドってところだけれども、オレたちはレイプエネミーってところか?」
「ふざけるな…!とっとと失せろ…二度とその面を見せるな……」
無言でソファから立ち上がるとベルフレイシェの身が強張る。近寄ると荒い吐息が聞こえた。肩や膝が震え上がりフォランを見上げる目は逸らされる。追い詰めた御馳走(えもの)をどう食べようか思案した。どうせ喰らうのだ。窮鼠に噛まれるのも悪くない。
「近寄る、な…」
凍えているのかと思うほどに震えている。仄暗い悦びに支配されていた。目の前の美しい男をどう甚振ろうか考えるのも惜しい。今すぐに喰らいたいが、一方でまだ何もせずにいたさもある。ベルフレイシェが固く目を瞑った。部屋の扉がノックされる。どうぞ。フォランは我が物顔で入室を許可した。シャールファシーかと思ったが、入ってきたのは華奢な銀髪の青年だった。
「お取り込み中でしたか」
物腰は柔らかく、フォランやベルフレイシェより少し年上らしいが若々しさがあり、シャツ1枚にスラックスといった格好だ。冷淡な印象のあるベルフレイシェとは違い、穏やかな雰囲気を醸し出した麗らかな顔立ちをしている。
「いいや…シャーリィはいなかったのか。ラウンジにいると思うが」
蒼白だったベルフレイシェの頬が薄紅を差し、青年を見ては逸らし、青年を見ては逸らした。
「そうなんですね。ありがとうございます。帰りに覗いてはみますが、会えなかったら連絡を入れておきますね」
鈴の鳴るような声で、嫌味のない爽やかな笑みをベルフレイシェへ向け、隣に立つフォランにもにこりと笑った。毒気を抜かれ、フォランは特に何の意図もなく頷く。
「帰りと言わず今すぐにでも会ってやってくれないか。君には苦労かける」
「とんでもないです。ここのところお休みがないとお聞きしました。あまり無理はなさらず、お身体には気を付けてくださいね」
小さなディスプレイが埋め込まれた車の遠隔キーのような小物をベルフレイシェに手渡す。セキュリティトークンだ。フォランも見たことがある。
「ご苦労。シャーリィを頼む」
「はい。それでは失礼しました」
青年はベルフレイシェと、さらにはフォランの目も見つめ退室する。室内一面が花畑に代わり、花弁の風吹が舞い散るような朗らかさに中てられる。ベルフレイシェはじっと退室していった扉を見ていた。はっとして、フォランを見ると今までの警戒や怯えがひどく些細なことだったとばかりに何事も無かったような態度に戻った。
「ベルフィ~」
馴れ馴れしく隣に迫る。近寄るなと距離を置かれ、物思いに耽ってしまう。捕食者の目の前で。怒りとは違う頬の赤み。耳まで淡く色付いている。何か焦がれたような横顔が部屋の扉から切り離される。
「お前の呼び出しには応じよう。自宅の鍵もくれてやる。ただし二度と、この会社には近寄るな」
スラックスに手を突っ込んで革製のキーケースから自宅のものと思しき鍵をもぎ取った。
◇
ホテルを出て、パラボレーにいる間はベルフレイシェの自宅に転がり込むことにした。タワーマンションの上階で、エレベーターの浮遊感が苦手なため、6階までは非常階段を使ったが、そこからさらに19階分はエレベーターを使うことに妥協する。1フロア2部屋で、エレベーターから出ると部屋が左右に分かれている。
鍵は解かれていた。不用心だと思いながらチャイムを鳴らす。
「きっといらっしゃると思っておりました」
シャールファシーが出迎える。
「あ゛、何!お兄様と同居してんのか?」
妹と同じ屋根の下で隠れながらの交接が瞬時に計算される。あの男の新たな側面が窺えるのではないか。空想に意識が持っていかれたが、目の前にずいと義妹が迫った。
「あたしたち、兄妹ですのよ。何か問題がございまして?」
「でもオレ恋人」
冗談、冗談とシャールファシーは笑った。恋人という響きが気に入ったようだった。リビングへ通される。別居しているようだが、頻りに兄の自宅を訪問しているようで、彼女の私物らしきものが置かれている。カウンターキッチンから料理の良い匂いがした。
「シャーリィが飯作ってるの?」
「…あなたにははっきり言っておきますわ。兄様、あたくしかハウスキーパーさんの作ったものか、市販の物しか食べませんからね。あなたは気を利かようも思わなくて構いませんから」
「神経質なのか?」
リビングのテーブルにフォランを座らせ、シャールファシーは電子ケトルに水を汲む。蛇口には浄水器が取り付けられていた。
「兄様、美しいでしょう。月も恥じらいますわ」
「うん?ああ。まぁ、美人だよな。オレのタイプじゃないけど」
湯を待ちながらシャールファシーの鋭い眼差しがフォランを威圧する。まぁいいですのよ、と言って、タイプだけが恋愛ではないですもの、と続けると、でしょう?と首を傾げた。
「不健全なお考えの方がいらっしゃいますのよ。あなたがそうだと言っているんじゃあないんですのよ?皆までは言いません!兄様の腹の中に!自分の悍ましい一部分でも侵入し、血となり肉となりたい輩がいるんです!許せますか!」
シャールファシーは拳を強く握り、怒りに震えた。
「ほとんど皆までは言ってるけど、何?精液入り玉子焼きとか、経血入りチョコレートとかか?」
電気ケトルが沸騰を告げた。怒りに燃えていた妹は陵辱の前の兄と同じように蒼褪める。
「あなたも、何かそういう経験がありまして?生爪とか、毛束とか入っているんですのよ!」
「文化は違えど考えることは同じなわけね。オレのところにもそういうおまじないあったから」
「全く許せませんわ!食べ物に罪は無いだなんて兄様は召し上がるけれど、結局耐えきれず吐いてしまうんだから!そういう方なの。あなた、兄様と上手く付き合えまして?……兄さんのこと捨てたら殺すからな」
はは、と痙攣したように笑い電気ケトルでアップルティーを淹れる。白と茶の角砂糖を3つ交互に受け皿に重ね、フォランに出した。
「―そういうお覚悟で、どうぞ兄様をよろしくお願いしますわ」
「聞き間違いかと思ったよ。猫被りのわんぱく娘め」
対面に座る妹は露骨に嫌悪を示した。
「兄さんに苦労かけたくないんだよ。あたしはバカでノロマな白痴のほうが、兄さんは兄さんをやれる。楽だろ?あたしもそのほうがいいのさ」
冷蔵庫から冷やした瓶を2本出す。茶褐色に気泡が浮いた液体だ。コカの実の風味を持った炭酸飲料で、地域によっては飲めるほど澄んだ水よりも安かった。
「紅茶なんて何の味もしないし、コーヒーなんてただ苦いだけじゃん。大っ嫌い。アンタも飲んだら」
フォランに一度出したティーカップを遠ざけ、瓶に替える。
「お兄様が見たら嘆くな。会社から身投げしちゃうかもな」
「だから隠してるワケ……いい?誤解しないでよ。あたしはそれで満足してるワケ。多分兄さんも」
栓抜きで2本の瓶を開けると、シャールファシーは自分の瓶をぐびぐびと飲んだ。
「妹なんて手が掛かってなんぼだろ。そのほうがかわいいだろうに。恋人できるまでの話だろうけど、な?いやぁ、悪いねぇ」
「早く妹離れすべきだよ、あの人は……ねぇ、フォランさん」
唇を舐めて大きく崩していた姿勢を整え、前にのめる。真っ直ぐな眼差しは兄の面影を強く留めている。
「お兄ちゃん」
すかさず訂正する。
「は?」
「フォランお兄ちゃん。オレは誰?君にとっての何?兄の恋人。違う?じゃあ何かっていったら、オレも君のお兄ちゃんだろ?」
シャールファシーは小さく鼻を鳴らす。一口炭酸飲料を飲んで、フォランお兄ちゃん!と何か強請 るように呼んだ。
「何?」
「兄さんを頼むよ、ホントに。あたしはね、兄さんに愛されてるケド、同時に兄さんの癌なワケ」
フォランもまた口内で弾ける蜜液を飲んだ。冷たさと炭酸の刺激が心地良い。
「じゃあ転移する前に取り除かなきゃな」
「もう遅いのさ。だからフォランお兄ちゃんに頼むんだよ」
何か只事ではない響きを持っている。まだ理性は利くくせ、わずかに酔いに任せて酒を飲む者のようだった。
「君のカレシのあの銀髪の好青年のことか?」
「やっぱ知ってんだ……っていうかなんであの男が出てくるのさ!」
不愉快そうに顔を顰められる。それにカレシじゃないんだケド、と陰険な色を帯びて否定された。誰にでも好かれそうな雰囲気を纏っていたが、シャールファシーはそうではないらしかった。
「半分正解だケド半分不正解。あれは勝手に決められた婚約者なワケ」
「ふぅん。でもそれだけじゃないんだな?」
「……それだけ!それだけさ。それだけだし、何か疑いでもあるの?」
空色の目が泳いだ。
「分かった、分かった。恋人のオレがお兄様の卑劣な恋心をぶち壊せばいいんだな?」
「知らない!ご飯食べるでしょ!出来るまで黙ってテレビでも観ていて!いい?何も話さないで」
シャールファシーは怒り出してカウンターキッチンへと行ってしまった。
「おかえりなさい、あ・な・た」
会社から戻ってきたのはフォランがベッドに入って暫く経ってからだった。ベルフレイシェはうんざりした顔でフォランの横を通っていった。無言のままリビングを通り過ぎ、フォランが勝手に寝ていたベッドの脇にあるチェストを開く。空いたカバンにシャツや下着やタオルを突っ込んでいく。
「もしかして、また会社戻るの?」
「今日はよせ。明後日だ。明後日…」
背後から近付くと、腕を回して遠ざけられる。
「明後日だぁ?明日は?」
「おそらく無理だ」
カバンを閉め、部屋を出ようとしたがフォランに阻まれる。胸にベルフレイシェがぶつかる。何かふわりとした微熱が足元から脳天を駆け上がった。言葉を失ったが、突き飛ばされる。
「ふぅん。晩飯くらい食べていくでしょ」
微熱は一瞬のもので、頭は真っ白になったがそれでも無理矢理に言葉を探した。
「下に部下を待たせている…!」
隙があれば触れようとするフォランの指先を払う。喧嘩し家出するように寝室を出ていく。事情は分かったが、まだ声を聞いていたかった。家主を追う。
「あの銀髪の人?」
肩を掴む。だが強く振り払われた。
「お前には関係ない!」
「君たち兄妹はよっぽどあの銀髪くんに爆弾を抱えてるんだな」
「シャーリィが…?そんなはずはない。照れ隠しだろう。お節介なやつだ」
相手にしていられないとばかりにベルフレイシェは廊下を進んでいく。
「行ってらっしゃいのキスさせてよ」
「ふざけるな。鍵は閉めておけよ」
乱暴にドアが閉まる。その夜は、ベッドの匂いと胸にぶつかった感触を思い出してフォランは自らを慰めた。
◇
シャールファシーに招かれ、オフィスの一角にあるガラス張りの壁で作られた個室のソファに座っていた。
「ほら、あの方。どう思いまして?」
コンピュータから顔を上げたシャールファシーが窓から街を一望していたフォランの横に寄り、オフィス2課に入ってきた銀髪の青年を顎でしゃくった。随分な嫌いように苦笑する。
「どう思いまして?まぁ、好青年とは思うけどな…あ~、シャーリィには合わないかもな。と、お兄ちゃんは思うけど」
炭酸蜜液の入った紙コップを泳ぐ小さな氷が軽快に鳴った。
「もっとおっしゃって。あの人、あたくしのことを毎夜毎夜、兄様に報告なさるのよ。息苦しいったらありませんわ」
「なるほど。お兄様の気持ちを弄ぶ悪い雄猫ちゃんってわけだ?」
「どうしてあなたという人はそうデリカシーがないのかしら!兄様と接する時はもう少し気を付けてくださいませな」
シャールファシーはまたコンピュータに向き直ってしまったためフォランはソファに寄りかかりながら銀髪の青年の一挙手一投足に注目していた。穏和で恭しく、非の打ち所がない。甘い匂いを発するカップに口付けるついでにコンピュータディスプレイから目を離した妹に何を見てますの!と叱られる。
「大丈夫だ。彼に見惚れてお兄様から乗り換えようなんて考えは微塵もねぇからさ」
「本当かしら!本当よ。何を疑ってしまったのかしら。貴方にとって兄様より素敵な人が他にいらして?」
キーボードの音がうるさく鳴った。一打一打に恨みつらみを込めたようなうるささだった。
「あの男のことなんてどうでもいいの。お忘れになって!あたくしが悪かったわ!忘れなさいな!」
「とうに忘れてるよ。そんなことよりかわいいベルフィのこと考えてた」
フォランの戯言は無視される。ガラス扉がノックされ、銀髪の青年が朗らかに微笑んで入室許可を待っている。
「お好きに入りなさいな」
「失礼します。こんにちは」
個室の主人に固く挨拶し、ソファで寛ぐフォランにも砕けた挨拶をする。
「また兄様に言われまして?顔でも見せてやれと?まぁ、お暇なこと!貴方に出す茶は無くてよ」
「ええ。長居は致しませんので、お気遣いなく。元気そうなお顔も見られたことですし、大事な話はまたこれから少しずつしていきましょう」
コンピュータディスプレイから顔を離さず、割れるのではないかと思うほど勢いよくキーボードが叩かれ、銀髪の青年の澄んだ声を妨害する。
「兄様のお犬のくせに、兄様の本意は汲み取れないのね!」
「では、このお話をひとり進めてしまっても?それはよろしくないことだ」
「貴方との結婚生活は肩が凝りそうね!兄様に美味しい餌でももらいに帰りなさい!」
フォランは目の前のやり取りを目を左右に動かしながら追っていた。キーボードの音と、炭酸蜜液の残滓をまとった氷を噛む音が穏やかな銀髪青年に野次を飛ばしている。
「少しでも貴女の気に入るよう、善処します。それでは」
銀髪の青年はガラス張りの奥に消えていく。オフィスに溶けていくまで氷を噛みながら見ていた。
「悪い方ではないのです。誤解しないでくださいませね…なんというか、敷かれたレールにアホみたいに素直なだけで」
疲れを隠さずテーブルに頬杖をついて、片手の指でキーを何度か押した。
「時間稼ぎか」
「違いますわよ。仮にそうだとしても"恋人を名乗っている"あなたに言うことではありませんわ」
足元を探り、水の入ったボトルを取り出してシャールファシーは気取った口調のまま気取らない地声で言った。ひどく疲れているようだった。
「多分シャーリィ、君の願うとおりにはならないぜ。一思いにスパッといっちまえよ」
「分かっていますわ。だから兄様のお気持ちがそのままあなたに移ったらと。…あの方を忘れてしまったらと…思ってますし、今現在そうであること、信じておりますのよ。どうして妹というだけであたくしは兄様の癌になるんでしょう!かといって破談にも出来ない」
水をボトルの半分ほど飲むと大きく溜息を吐いてキーボードの上に突っ伏してしまった。
特にすることもなく、ボーダム社の中をほっつき歩いたり、社員食堂を回ったりしていた。夜にシャールファシーがどこかへ連れて行くらしかった。いつ頃パラボレーを出るかは決めていなかったが、突然繋がりを持ってしまった兄妹とどう別れようか思案を巡らす。ここに身を落ち着けてもいいかも知れない。落ち着けられるだろうか。まだ次の行き先は決めていない。
面白いものが見れるから。義妹は昏い笑みを浮かべていた。高級デパートが並ぶ通りの外れにある海浜公園のレストランでフォランにご飯を食べさせている間、暮れなずむ海と空を眺めていた。豪華客船を模した外観で、晴れの日に限り、外で食事が出来た。
「土地に縛り付けられるってバカらしくない?色々なところ住んでみたいし行ってみたいな」
クルトンとエビの海藻レタスサラダを食べている時にシャールファシーはそう言った。
「生まれたところにずっと居られるのも悪くないんじゃないか。なんで?パラボレーは肌に合わないか?」
会社で着ていたスーツにフリルだらけのワンピースとは違い、デニムのショートパンツにシャツを着ている。毛先のカールした長い髪をリボンを付けて下ろしていたが、一度別れて合流する時には馬の尾のように高く結い上げていた。
「無い物ねだりさ。パラボレーは多分いいところなんじゃないかな。まだまだ貧富の差は激しいケド。ライアディトラスリア町には行ったことある?」
ライアディトラスリアはエリプス=エリッセの近くにある山の斜面に作られた町で、レンガの階段と白い建物が印象的な観光地だった。ガーリックとシーフード料理が名物だ。町中にレモンやシトロンの木が植えられ、町の周りもまたレモンの樹園になっている。
「あるよ。ライアディトラスリアといわずエリプス=エリッセも」
「どう?いいところ?料理は美味しい?空気は?」
レモン味の炭酸飲料を飲みながらシャールファシーは食い付いた。その口に最後のエビを放り込んでやる。
「さぁね。美食家じゃないから。でも不味くはなかったよ。っていってもエンパナーダとマリネ串焼きしか食べてないんだけどさ。晴れた日は最高だったね。建物が白いから眩しいし、町中に洗剤の匂いがしてさ」
目を輝かせ根掘り葉掘り訊いた。その間にステーキが運ばれる。シャールファシーは同僚と遅めの昼飯であまり腹が減っていないらしかった。
「昔行ったことあるんだケドさ、もうあんま覚えてないんだ。お母さん、ホント厳しい人なんだけどね、でもやっぱり楽しかったな。ホントはあたしたちのこと嫌いなんじゃないかとも思ったんだけど、たまに昔、色んなところ連れて行ってくれたなって思い出すワケ」
ステーキを半分の半分切り分けて、小皿に乗せるとシャールファシーに差し出した。妹は少し驚いたが、ありがと、と言って笑う。
「君たちのお母さんっていったら社長だな?」
「そう」
小さく切り分けられた牛肉を齧る前に焦った返事をした。ついでにニンジンとインゲンの半分も小皿に乗せ、妹に押し付ける。
「フォランお兄ちゃん、ホントになんだか、お兄ちゃんみたい」
次々と料理が運ばれる。シャールファシーはドラゴンフルーツのシャーベットが気に入ったようだが、フォランはロブスターの香草焼きが特に美味しくすぐに気に入った。
ご馳走様と呑気にレストランから出てきたシャールファシーに言うと、メインディッシュはこれからなんだからね、と強い口調で返される。
「もう少しだから」
腕時計を確認しながら妹は臨海公園の海沿いの遊歩道に植えられた木の下に座る。その隣にフォランも腰を下ろした。ふと懐かしい気分になる。
「フォランお兄ちゃんがお兄ちゃんだったらあたし、心配ないんだろうな。なんも。兄さんのことは好きだケド、不器用だし変に真面目で…あたしは兄さんの妹で、娘でいるつもりだよ、多分これからも」
遊歩道を散歩している犬に気を取られ、きちんと話を聞いていなかった。
「オレにも妹いたけど、シャーリィ、君が妹だったらオレももう少し楽だったかもな」
隣の妹の亡霊はフォランに瞳を凝らす。フォランは知らぬ顔をして、海に向かって走った。柵が入水を阻む。胸まである鉄棒を掴んで、ああああ~と大きく叫んだ。背後から焦るでもなくシャールファシーが近付いた。
「気でも狂ったワケ?」
「いや?急に嫌なこと思い出しただけ」
「何?」
特に興味も示さず、反射で問うてしまったという風で、口にしてから、あ、と失態に声を上げる。
「妹がいたんだ。妹がいたんだな。妹がいたわ、オレ」
「ど、うしたの…」
曇った表情で見上げられる。兄によく似ていた。
「いや?そろそろ何かあるんだろ?行こうぜ」
フォランが手を差し出すと、シャールファシーはまだ幼さの残る手を重ねた。途中でソフトクリームを買ってもらい、"面白いもの"を見に行った。
高級デパート通りの歩行者専用道路の真ん中に置かれた街路樹の下に、ベルフレイシェが立っていた。気付かずに出て行こうとしたフォランは近くのビルの影に引っ張り込まれる。
「面白いものってお兄様?確かに面白いけどよ」
ベルフレイシェは腕時計を忙しなく見て、周りを見渡しては再び腕時計を確認する。落ち着かない様子だった。兄に同調しているかのように苛々している妹の脇で、ライトブルー、ピンク、ホワイトが螺旋になり、さらに小さなマシュマロと仁丹が散りばめられたソフトクリームを舐める。
「ほら!」
必死になって腕を叩かれる。周辺の街並みを眺めていたが、急かされるままにベルフレイシェを見た。甘さ控えめのソフトクリームを舐める。銀髪の青年が合流した。ホワイトシャツにスラックスの姿しか見たことがなかったが、きちんとスーツを着ている。黒のシャツに赤いネクタイ、青みを帯びたダークグレーのスーツ。ベルフレイシェは一度彼を認めるとすぐに俯いてしまった。銀髪の青年は手を差し伸べ、下を向くベルフレイシェの腕を取った。何かぞわりとして、シャールファシーを一瞥した。
「ああいうところがホンットに!」
地団駄を踏んで飛び出して行きかねないシャールファシーを今度はフォランがビルの影に引っ張り込む。
「落ち着けって」
「…ごめん」
銀髪の青年は屈託無く隣の不器用な兄に微笑んで、歩行者専用道路を歩いていく。手はエスコートするように重ねられている。それを盗み見ながら、落ち着いたつもりでいるらしい妹はまったく落ち着いてなどいなかった。
「食う?頭冷えんじゃね?」
「要らない!」
面白いものを見せてもらうはずが、主催者はひとり銀髪の青年と兄を追っていってしまう。人工甘味料と保存料、人工着色料だらけのソフトクリームを舐めながら尾行人を歩いて追う。仕立屋のショーウィンドウを見たり、ブランドバッグのショップの前で親しげに話していたが2人は流れるように宝石店に入っていた。
「最低!指輪選ぶの、兄さんに手伝わせる気なんだ!ホンットにあの男!」
フォランたちのすぐ傍にある花屋の鉢植えを凶器にでもしかねない勢いだ。
「でもお兄様、案外楽しそうじゃね?」
「フォランお兄ちゃま?ホントはあんたが怒るところなんだから!兄さんは誰の恋人なんだっけ?え?どうして恋人が他所 の男と2人っきりでいるのをそう淡々としているワケ?」
「シャーリィ、義理のお兄ちゃんとして一言 言っておくけど、旦那が仕事仲間と出掛けてもいちいち怒るんじゃないぞ?結婚は我慢と譲歩なんだからな」
ソフトクリームを舐めている最中にコーンを持った手を下から押し上げられ、口周りが途端に冷たくなった。
「兄さんには我慢も譲歩も迫るなよ!」
曖昧で漠然としたビジョンが途端に輪郭を持ち始める。空想が広がり黙ったフォランに妹は怒ったとでも思ったのか小さく謝った。しかし許しを得ることも忘れ、宝石店の中を遠目に眺めた。
宝石店の薄暗く、けれど暗過ぎず調節されたオレンジのダウンライトが冷淡な美男子の白い肌を染める。病的なほど白くなった顔をし、怯えていた姿を思い出す。
「明日までお預けか~」
口周りのソフトクリームを舐め取りながら呟いた。ショーケースを2人並んで見ている姿が焼き付いた。目蓋を閉じてもまだ残っている。少し色味や生地の違うスーツが擦れ合うほど近い。柔和な笑みの横で、控えめに緩んだ薄い唇。おそらく年上と思われるが、幼くはしゃいで指差す先を捉える吊り気味の空色の目。誰の装飾品を選んでいるのかは瞭然としているというのに疑念が浮かぶほどだった。視力の良さを恨み、シャールファシーに見えなくて良かったとすら思った。
「何が?」
「お楽しみが」
「お楽しみ?」
妹は知らなくていいことだ。知っていても面白いかも知れないが、あくまで兄に対する愉しみが増えるだけでこの娘の健やかな精神を傷付けることだけは躊躇われた。
「オレとお兄様が仲良しなのは、シャーリィにとっては嬉しいよな?」
「そういう癪なこと訊くワケ?兄さんが敵を作らないことはそれなりに嬉しいケド」
「敵、ね」
ソフトクリームに濡れたコーンをばりばりと噛んだ。ショーケースを見下ろす銀髪の青年の横顔を眺め、銀髪の青年に双眸を捉えられると視線が泳ぐ。ばりばりとコーンは粉塵を散らしていく。ばりばり、ばりばりと食らっていく。同じ物を指差し、触れ合った指先にひどく狼狽える様を見据えながら。
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