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第5話
静かな室内でベッドが軋む。荒い息遣いの下で蕩けた声が漏れている。爪がシーツに縋る。深く繋がった腰を緩やかに回して打ち付ける。深く繋がっているが足らなかった。
「…ッぁぅぐ……っあぁ、」
吐精しても吐精してもまだ足りなかった。勢いよく穿っては緩やかに抽送し、時折彼の悦楽の内壁を突く。太さに慣れた後孔がフォランを締め付け、そのまま嚥下を試みる。その度に鎮まらない熱は煽られる。飽くことのない放出欲に再びベルフレイシェの身体を抱き締める。シーツを掴む腕を背に回させた。
「オレに…っ掴まって、」
返事も聞いていられなかった。聞く前に口内に侵入する。何故これ以上、この男と繋がれないのか。背に放られた腕はシーツに落ちそうだったが激しい律動が始まるとまだシーツの上にある片腕もフォランの背中にしがみついた。短く切り揃えられた爪が指の肉を押し退けフォランの皮膚に刺さる。フォランが引いた舌をベルフレイシェの舌が追った。
「ぅん…っは……んっ」
フォランの舌に必死に舌を絡め、下唇を吸って離れる。唾液の糸が切れると同時に頭の中が真っ白になる。短い爪に皮膚を引っ掻かれる痛みにさらに興奮した。
「ぁ、あっアっ、か、たい…ァ、っん、かたい、ぃ…ん、」
こぼし荒れるほど吸って赤い唇が互いの唾液に濡れて光る。
「かわいい…」
「あっ、あンッはぁ、ぅんっあぅ…ァ、ぃ、あ、」
「ここ、好きでしょ?」
指で刺激し達してしまったことのある部分を意識し猛りで摩る。されるがままの肉体がフォランへさらに密着した。腰を揺らし内部で楔を探る。
「ンんっあぁっ、そこ…ァんぁっそこ、だ、め……ぅぁアんっ」
「気持ちいい?」
悩ましげに歪んだ眉と吊り目に浮かぶ涙。嬌声を上げ、飲み込めない唾液が決壊している唇を蹂躙する。爪が薄皮を裂く。痛みがさらにベルフレイシェを犯していると実感させた。
「あっ、ンんあっあぁんんンっ!」
内部が大きく蠢き、強烈な射精感に抗えなかった。痙攣しのたうつ身体を潰すほど抱き寄せる。重ねても、重ならない。
「…っあぁッ」
腸内の奥を汚した。勢いも量も衰えることのない怒涛を解き放つ。思考を凌駕する快感と、同時に快感を凌駕する落胆。気が狂いそうだった。だが正気だった。これが限界なのだ。この快感とこの肉感とこの欲求はここまででしかない。耳に口付ける。髪に鼻先を埋め、後頭部を抱いた。引き攣る身体に胸や腹や腰を当て、ベッドと挟む。下腹部と下腹部に迫られた陰茎から白い粘液が漏れていた。
「イけたね。まだイけるかな」
幼い表情で首を振る。
「イけるよ。イかせてあげる」
いやだいやだと首を振り続けている。額にキスすると、唇をねだられた。
◇
シャールファシーを訪ねてオフィス2課のガラスのパーテーションで簡易的に作られた個室に入ると、先客がいた。兄の自宅は綺麗に片付けるくせ、狭いとはいえシャールファシーが個人で使っているこの個室は散らかっていた。とにかく上に積み上げ、ガラス張りだというのに外から見てもどこか不透明だった。ソファに銀髪の青年が座っている。しかしシャールファシーの姿はない。
「こんにちは」
翠の瞳がフォランを捉えた。強張った顔をしたが何度か見た毒のない柔らかな笑みを浮かべる。
「ああ、どーも」
ベルフレイシェに不埒な通話をさせたのは数日前だがどのように接しているのだろう。この疑いも怒りも軽蔑も無さそうな穏和な男は。
「シャールファシーさんならラウンジですよ。今日は商談ですので」
「あんたは」
「シャールファシーさんを待っているんです」
フォランはシャールファシーが独占しているドリンクサーバーに向かった。ココアか炭酸飲料か、リンゴジュースだ。デスクの引き出し前に飲料水のボトルが何本も入っていたが紙コップに氷を落とすと炭酸飲料を2杯入れた。銀髪の青年に出すと、ありがとうございますと微笑まれた。銀髪の青年の対面に威圧的に座った。脚を組み、無遠慮に目の前の青年を品定めする。当人は眉を下げ微笑んだままだった。
「シャーリィと、どうなんだ?」
「良好です」
即答。銀髪の青年は疑いもなく言った。用意されている答えをそのまま言ったのかと疑うほど。
「良好?それは良かった。シャーリィはオレにとっても可愛い妹だからな」
「素敵な兄が2人もいて羨ましい限りです」
話に聞いているのかフォランについては何も聞かず、フォランもまた名前だのの青年自体のことを訊く気は起こらなかった。冷えた茶褐色の炭酸飲料を飲む。つられて銀髪の青年も紙コップに口を付けた。驚いた顔をして、慌てて紙コップをテーブルへ戻した。茶褐色の雫が伝う唇を指で拭う。
「炭酸は苦手か」
「すみません、お見苦しいところを。びっくりしてしまったもので」
噎せながらも落ち着いていた。
「苦手かどうかって訊いてんだよ。これは些細なことに思えて重要な問題なんだからな?別にあんたの心配をしたわけじゃねぇし、非難したわけでもねぇ」
あえて刺々しさを感じさせ、銀髪の青年の真っ直ぐ向けてくるメロンソーダの注ぎ込まれた双眸を迎え撃つ。
「飲み慣れないという点では苦手かも知れません。嫌いではないです。この部屋のドリンクサーバーにあったということは、シャールファシーさんはお好きなんですね、よく飲んでいましたから」
「食生活の不一致は大きなディスアドバンテージだな」
銀髪の青年はキョトンとしていた。
「妹とは合わないんじゃないか?ん?どうなんだ?」
銀髪がさらさらと揺れる。
「多少の違いはきっとすぐに慣れます。恋愛結婚ではありませんが、せめて僕はシャールファシーさんが望めなかった恋愛結婚に近い形に似せていきたいんです」
「ふぅん、じゃああんたはどうなんだい?あんたは恋愛結婚でもない夫婦生活に抑圧されるってかい?え?」
いいえ。はっきりとした爽やかな声で、全肯定しかしなげな柔らかな声音で否定する。
「彼女を愛します。抑圧を感じる日が来るかもしれない。それは断言出来ませんが。人生を頂いてしまうわけですから」
「負い目から作った愛情か?よせよ、そんなんでシャーリィを泣かせるな」
「負い目の裏側にある愛情ではいけませんか。湧き起こした愛ではいけないですか」
口調こそ穏やかさを欠かさないが真剣な眼差しにフォランは圧倒される。自ら吹きかけた問答だったはずだ。
「それは同情っていうじゃねぇの」
「この人を愛すると決めた時に浮かんだものがすでに愛情です。僕はそう思っています」
「悩んでもか?愛せないと悩んでもか?むしろこういうのはどうだ?この人を好いてはいけない、というのはあんたにとってのなんなんだ?この道化師め」
道化師は自身だった。自嘲を相手への嘲りに変え、口角を吊り上げる。
「……っ何の話ですか?すみません、あの…これはシャールファシーさんのお話、ですよね?彼女に誰か好きな人がいるのなら仕方のないことです」
形の良い眉が寄った。翠の目がフォランから外れた。大して崩れてもいなかった姿勢を直し、俯いている。部外者からは説教をされているように見えるだろう。
「オレはその逆はどうなんだって訊いているんですよ、先生?」
「誰にでも、不合理な感情はあるものですから…表沙汰にしなければ個人の中のことです。僕は知らないことだ。自分しか知り得ない…」
動揺しはじめた青年を無言で値踏みする。薄桃色の唇が乾いている。そろそろ切り時の爪。ささくれのある指。絆創膏が巻いてある関節。安くもなく高くもない、機能ばかりの腕時計。胸元に瞳と同じ色のペン。梳かされた銀髪は少しグレーがかっている。霜柱のような長い銀の睫毛。
「貴方はシャールファシーさんの兄貴分ですから、彼女の配偶者となる僕を確かめなければならないだけなんですよね」
顔を上げた。笑みは浮かべてはいるが引き攣っている。フォランは紙コップに残った氷を呷り、噛み砕く。青年はただ苦笑している。笑ってやり過ごせばいい相手でしかないのだと言っている。口にはせずに。実際その通りだ。分かってんだぞ、とばかりに半目で青年の困惑を滲ませた笑みを受け入れる。何となくその落ち着き払った雰囲気からいくつか年上だと思っていたがきちんと話すと同じ歳の頃かも知れない。
長らく沈黙の中に身を置いた。睨み合っていたわけではなかったが、心持ちフォランは睨んでいたし青年もまた微笑みの裏の警戒心を隠しきれていなかった。シャールファシーが戻ってくるのがガラスのパーテーションの奥に見えた。
「お待たせしました」
微塵も悪いとは思っていない態度で謝り、ソファの真ん中を占拠するフォランの隣に座り、銀髪の青年に斜めに対する。銀髪の青年の目がフォランを気にした。立ち上がろうとしたがシャールファシーに膝を押さえつけられた。
「あなたも迦陵頻伽 の雄鳥の囀りでも聞いていくといいですわ。さて、なんでしょう」
遠州の幻獣に喩えられた青年は眉を下げる。カラヴィンカは声の良い人面の怪鳥だったとフォランは昔読んだ本で記憶している。先程見せた困惑より同情心を煽る仕草で小さくなっている。
「休憩時間をあたくしを待つのに使ってしまうなんて、エリッセ海域のネオンテトラといったところかしら?」
脚に乗ったままの小さな手は、フォランの膝を潰さんばかりの握力だった。
「なるほど、救いようのないやつってことか」
たまげたね、とフォランはソファの背凭れに大きく寄りかかる。
「すみません…ですが、どうしても相談しておきたいことで」
「何かしら?次の作業がありますから、どうぞ続けなさいな」
フォランの膝を叩き、シャールファシーはデスクに回った。怖いねぇと冷やかして、高みの見物でいることにした。
「貴方の兄上のことで」
興味が無さそうにコンピュータの起動を待ちながらデスク周りを片付けはじめるシャールファシーに視線を寄越される。
「何かしら。余程のことらしいわね?それともあたくしを慮ってのことかしら?ありがたいったらありませんわ!」
ドリンクサーバーの紙コップにボトルの水を注いで青年の前に置く。フォランの座るソファに寄り、手で払うように脇に寄せさせられる。
「ありがとうございます」
「勘違いなさらないでくださいませな。貴方が有益なことを喋ると思っての当然のもてなしですわ」
青年は自信なく、はい、と小さく返した。
「それで?」
「あの…最近、ベルフレイシェさんに避けられているような気がして…」
フォランは目を見開く。
「知りませんわ。気のせいでしかないことをあたくしに相談なさいますの?」
「そうですね。気のせいですよね。きちんと口は利いてくださいますし…」
「私情で必要事項を告げない、確認しないだなんて人がこの社にいていいはずがありませんからね。その…貴方を"いびくる"上司どもにも言っておやりなさいな」
青年は、叱られている新人そのままに肩を落としている。シャールファシーの返事は腑に落ちていないらしく、さらに社内での立場も明らかにされる。フォランの存在に躊躇していたが、鋭く青年を睨んで強く出る。
「ええ。貴方の言葉は力強くて、励みになります。僕の気のせいでした」
ごめんなさい。失礼します。銀髪の青年は辞儀をしてガラスのパーテーション扉の奥へ去っていく。
「疲れる演技ですな」
「本心なんだから、疲れない」
フォランはガラスのパーティション扉の奥、コンピュータディスプレイや資料ラックに紛れていく背中を見ていた。
「何、あの人"いびられ"てんの」
「聞かなかったことにしておいて、それ」
「あの容姿に、社長令嬢の婚約者、しかもそこそこかわいいときた。やっかまれる要素はまぁあるな」
「それにあの年でなかなかやり手でさ。そのうち重役になるんだろうケド、周りに揉まれて凝り固まって、今よりずっとつまらない人間になるワケ。あ~あ、先の見える結婚生活だ」
青年に出した水と炭酸飲料をドリンクサーバーの脇にあるドリンク処理の穴へ捨てた。
「あの男、炭酸なんか飲むワケ?」
「努力するってさ」
座り心地の良いソファに後頭部を預け、青年が座っていたソファの奥にある一面のミラーガラスに広がるビル群を望む。
「いい傾向だ、まったく」
デスクに戻り、呟くとキーボードを叩きはじめる。引き出しを開け、小さな板状の物を取り出した。曇った銀色が光る。
「お兄ちゃんも食べる?」
「うん、ああ、あんがと」
半分に割られ、薄い断面にシャールファシーの髪より少し赤みの強いブラウンが収まっている。
――フォリー、ほら!半分こね
シャールファシーはコンピュータディスプレイから目を離さず、半分を差し出す。受け取るためソファから立った。キーボードの音を聞きながら、チョコレートを齧りパーティションの個室を出て行った。
――ダメダメ!フォリーは大きいんだから、大きいほうあげるの!
割れたチョコレートの欠片を口へ放る。
――もう!フォリーの一口は大きいんだから!バカぁ!
薄暗い階段を上る。2階上で、廊下に出る。一度来たことのあるベルフレイシェの私室をノックする。小さな音楽が聞こえたが、止められてしまった。ノックはしたのだからと勝手に扉を開ける。
「ノックするなら名乗れ…っ」
苛々とした調子でデスクにいたベルフレイシェが入室者を確認する。目を剥いて、鼻梁に皺が寄る。
「ここには近付くなと言っただろうが…!鍵を没収するぞ…」
「ごめんごめん。シャーリィから預かりものでさ」
怒気は治まらないが、関心はあるらしくわずかに眉間の険しさが和らいだ。促されるまで黙っているとベルフレイシェはデスクを発ち、目の前までやってきた。
「なんだ」
「うん」
アルミホイルに包まれたチョコレートの欠片を自身の口に放る。反射か否か逃げた肩を反射で掴み、唇を奪った。溶けたチョコレートを纏ったチョコレートの塊を相手の口腔に移す。蕩ける。チョコレートも。唇も。胸にチョコレートが広がっていくような。瀞むのだった。
「…ッな、ぁっ」
チョコレートは形を失った。突き飛ばされ、そのまま従う。
「会社ではよせ!早く渡せ。なんだ」
唇を指で拭い、チョコレートの汚れを確認する。
「うん」
差し出した半分の板チョコレートを、厳しい顔で認めた。
「シャーリィからもらったものを粗末にするな。これはお前がもらったものだろうが。お前が食え」
「うん、じゃ、はい」
受け取らないチョコレートの半分をさらにベルフレイシェと差し出す。
「話を聞いていないのか?」
「いやいや、聞いてた。素敵な声で聴き入ってはいたけど」
美麗な顔に怒気が増す。デスクへ戻ろうと踵を返す背中へ距離を詰める。肩を掴んでデスクから軌道を逸らし、壁一面のガラスから光をもらえない暗がりにある壁に誘い込む。観葉植物もまた暗がりの下にあった。
「なんだっ!仕事中なんだぞ。お前みたいな無職じゃないんだっ!」
「タバコ休憩より短く済ますからいいでしょ?な?」
「くだらん!生憎だがタバコを吸わん社員には手当がある!」
壁と胸と両腕に囲まれベルフレイシェは逃げ場を失った。
「アンタの口で食わせろ。チョコ食わせて。じゃなきゃここでアンタを食う」
「……どんなくだらんことを言うかと思えば…っ!」
「ねぇねぇ、ベルフィ、お願い。フォリーがかわいくないの?」
空色の双眸を覗き込む。ついでに口角に付いていたチョコレートの小さすぎるほどの欠片を舐め取った。
「貴様…」
「ほら、ここで言い合ってても仕方ないだろ。ただこの綺麗な唇で食べさせてくれたら何もしないから。ほんとに!シャーリィに誓って」
「シャーリィの名をこんな場所で出すヤツがあるか…!」
壁についた手からチョコレートを割り、フォランの口に欠片を運ぶ。渋々受け入れた。
「口がいい」
「断る!」
思い通りにいかなったが、何故か心地良かった。濃い甘さが舌にまとわりつく。
「放せ。これ以上はない」
「うん。じゃあお仕事頑張れな。無理はするなよ。ああ仕事のほうじゃなくて。まぁ、仕事のほうもだけど」
ベルフレイシェを放し、背中を軽く叩くと、私室を出た。エレベーターのドア脇のパキラの傍で、シャールファシーの婚約者が立っていた。オレンジのファイルと大判の茶封筒を抱えている。
「お疲れ~ぃ」
軽い挨拶をして階段へ曲がる。
「待ってください」
「タバコ休憩より短くな」
階段から爪先の方向を変えた。微笑みのない青年の顔はどこか不健康な色気があった。
「その…」
「妹離れの第一歩に必死なんだ。あんまり煽ってやりなさんな」
派手に嫌われたな。言うつもりだった言葉は出せなかった。妹には爪弾きでお兄様にも嫌われたか。まだ言うことは出来る。
「本当ですか」
嘘に決まってるだろ。
「まぁ、そんな感じだよ」
銀髪の青年は微笑む。ありがとうございます。やっぱり気のせいだったんだ。変な気起こさなくてよかった。ショーケースの上で見せた笑顔。あの男を痛め付ける、何の悪意も敵意も匂わせない優しい笑み。あの生真面目な男の不器用な笑みを引き出せる、蛇蝎の潜む綻び。
「嘘に決まってるだろ。愚鈍な婚約者に戸惑ってるのは妹だけじゃねぇってことさ!」
はははは。高らかな笑い声を上げた。嫌味で醜悪で、陰険で毒々しく奸悪な喜色が失せた。
◇
暫く眠れなかったが、意識が遠退きかけた頃、寝室の扉が開いた。最近ずっとそうだった。就寝したかと思えば、寝室の扉を開け、リビングに来ては何もせず戻っていく。考えはじめると眠れなくなり、次の旅行先のことでも考えるか、という気になった。消灯したままテレビを点けて、音量を下げていく。強くはない光のもとでガラステーブルの下にある雑誌を適当に捲る。ビジネス雑誌ばかりだった。寝室の扉がまた開く。
「眠れねぇの」
「…不審者と同居しているかと思うと気が気じゃない」
寝室に戻っていくベルフレイシェについていく。
「眠れないんだな。悩み事か」
「……っ別に!コーヒーを飲み過ぎただけだ」
寝間着姿は幼く見えた。フォランといえば、シャールファシーに適当に与えられたハーフパンツに同じく適当に買い与えられたシャツの裾を入れていた。
「ほら、寝ろ。寝るまで一緒にいるぞ」
「お前がいたら余計眠れない」
不審者へ無用心に背中を見せた家主を抱き上げ、ベッドに横たわらせる。数秒の出来事で抵抗する時間も与えなかった。
「あんたヌかないもんな」
「よ、せ…!」
起き上がる胸を押し返す。股間の布に触れた。
「興奮するなって。眠れなくなるぞ」
「それなら、触るな…」
股座に伸びている腕を掴まれる。しっかりした感触が指に残っている。
「明日も出勤だろ」
「…そうだ」
「じゃあ軽くヌく。いいだろ?」
「断る」
掴まれたままの腕を、手を筒状にしてから上下に振った。ベルフレイシェは眉を寄せ顔を伏せる。この年になれば、そういった羞恥には慣れ、消え失せているものだと思っていたが目の前の男は違うらしかった。
あの穏やかな笑顔が、脳裏に浮かぶのが、それほどに。
「ベルフィ」
「だからその名、で…っぇ」
自由な片腕で肩を寄せ、首筋に口付けた。持ち上がった肩が頬にぶつかった。すべらかな皮膚を吸う。シャンプーの香りとベルフレイシェの匂いに貧血に似た浮遊感があった。
「ほら、遅刻するか睡眠不足で居眠りするか、ちょっとここで恥ずかしいことするか、自分で決めな?」
「何を言って…っ」
「1人でデキるならオレだってこんなこと言わないんだけどよ」
薄明かりの中で縋りつく顔を見た。感触を識っている唇に吸い付きたい。詰め寄る。ベルフレイシェは身を引かない。触れる、直前で思い留まる。細い顎を掬う。
「後ろ向いて。そうすればオレからは見えないから」
寝室に時計の音ばかりする部屋に響いた。長い睫毛の下で流されていく瞳。怠そうに動いて、フォランは胸に背中を預けられる。寝間着の下を結ぶリボンを解き、中へゆっくりと手を差し込む。
「力抜け。もう寝ることだけ考えろ」
強張った身体が弛緩し、胸や腕、膝に体重が乗った。片腕で抱き留める。思っていたよりも華奢だった。下着の上から膨らみはじめている根を撫でる。肘が脇腹に当たった。逃げ惑っているようで、哀れみを覚える。
「大丈夫だから。な?」
耳元で囁く。寝間着が擦れた。下着の上からゆっくり形を大きくしていく。
「…っした…ぎ、よ…ッごれ……る、」
紐部分に手を掛けて、白い腿が見えた。フォランの下腹部が微かな熱を孕む。脱ぎたがったのを、意外に思った。素肌に触れ直す。湿っている先端を指の腹で刺激してから茎をなぞる。内腿が小さく動いた。陰茎小帯を刺激すると、後頭部が肩に押し付けられる。ハーブを思わせる爽やかなシャンプーの香りと、落ち着いているが清々しくも甘さを帯びた包み込む彼の匂いに、噎せ返りそうになる。シャールファシーにもあるが、彼独特の匂い。
「…っぅん…ふ…っぅ」
自立するまでに芯を持っている。先端から滲む露を塗りたくり、根元から指の輪を走らせた。フォランの腰に密着する細腰が小さく動く。
「ぅ…ッ、ぁ…は……っぁ」
時計の針より遅いリズムでゆっくりと掌の筒を滑らせる。
「……ぅんン…」
時計の長針。吐息と、肌の摩擦、塗り込められる蜜。弛緩しているくせ、時折強張る身体を抱き寄せる腕がさらに力んだ。
「は……っ、ぁ、ん……」
段々と速度を上げ、締める力もわずかに強めた。
「ぅ…ぁ、ま、…って、まって……っぁ、ぅ、」
ベルフレイシェはフォランから離れようとする。黒髪が肩から遠ざかり、汗ばんだ手が膝に乗った。
「まって……まて、はな……ぁ、っ」
もう少しだったが、フォランは手を放す。胸に回した腕も下ろした。黙っていると、ベルフレイシェはフォランと向き合ったまま腰を下ろした。その間の仕草が、誰かと思うほど、ひどく幼く見えた。フォランの伸ばした脚の上に膝裏が乗った。何かに取り憑かれているのかと思ったほどだった。
「いいのか」
顔を見つめられる。訊ねる。頷かれる。昂りに再び手を伸ばす。破裂寸前の熱を扱く。特に珍しくもないグロテスクな造形の中でも極めて美しい色と形が歪んでしまうことを恐れながら、同時に歪むことも望んでいる。扱くことに夢中になった。歪む眉間。薄い唇が噛まれ、さらに薄くなる。固く閉じられる目蓋。
「あ…出る、イく……イくっ…出、る…」
目元を引攣らせながら眇めた双眸がフォランを貫く。
「………ッあ、ああ…」
掌に飛び散る微かな体温。ベルフレイシェは緩やかに崩れていく。頭を打ちはしないかと、一瞬呼吸を忘れた。だが眠そうに目瞬きをしてフォランを見ていた。洟をかむか、虫を摘むことくらいにしか使われなさそうなティッシュボックスからティッシュを抜くと、受け止めた欲望の粘り気を拭き取った。下げたままの下着と寝間着を直し、掛け布団で腹を隠す。
「…フォ、ラン…」
消え入りそうだが、確かに耳に届いた。
「ありがと…う」
掠れた囁きが鼓膜を揺るがす。
「おやすみ、ボーダムさん」
リビングに出て、点けたままのテレビを消した。掌が熱い。指が。精液を受け止めた掌が。下腹部が熱い。彼の匂いが鼻に残り、目眩がする。艶やかな、まだ半乾きだった黒髪が当てられた肩が空虚だ。薄い胸板に回した腕は、何かを探している。
――あんたにとって他人なんてね、人形なんだから!
ソファの弾力に身を委ねる。母親に、この身を作った卵子の持ち主に言われたことだった。妹を殺したから。妹を殺した容疑をかけられたから。誰もがそれを信じたから。母親が、この身の半分を組織した卵子の提供者がそう言ったから。
――どうして、あの子は生きてたっていうのに!あんたに人形みたいに殺された!人形はあんたのほうなのに!
大きく息を吸う。胸がせり上がっていく。家主を寝かせたはいいが、自身が眠れなくなっていた。
――同意書にサインはしたから、あとはあの人と、あなたの。
何故忘れていたのだろう。頭を抱えて、けれど明日にはけろりと、どうでもよくなる。おそらく。きっと。経験上。フォランはそうだった。
――作られた人形なんだから、作った人たちの手で終わりなさい。
殺処分の同意書だ。何故それも忘れていたのだろう。忘れてはいなかった。考えていなかった。考えていたかもしれない。だが取るに足らないことだと判断していた。
――フォリーはフォリーじゃないの?じゃあ、遺伝子編集されてないフォリーは、フォリーじゃなかったってこと?
否定をしたのか、肯定をしたのか、それも覚えていない。ただ卵子の提供者が同じで、彼女は腹から生まれたというだけの違いだった。
――フォリーは、もうフォリーなんだから、フォリーだよね?
フローリングを凝視する。接ぎ目をなぞって、すぐに飽きる。
――やっぱりあなたは、その…生まれてくるべき命じゃなかったんだよ
柵の向こうで女が言った。母親だった女だが、母親を辞められてしまった。転がる受話器が聞き慣れた女の声によく似た声で喋る。妹を陵辱し、殺害した男が捕まっても両手から銀の腕輪は外れなかった。
――いつか本当に、あなたが…
だってあなたにとって他人は人形なんだから。
――そうかも、知れねぇわ
釈放された後は精子提供者の支援で、故郷を飛び出してきてしまった。何故忘れていた。忘れていたわけではなかった。考えていなかった。
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