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第6話

◇  銀髪の青年とすれ違う。シャールファシーに掛けられた来賓の名札が下がった紐は便利だった。ボーダム社の社員になった気になる。出自に頼りきり、本当にボーダム社に就職は出来たかも知れないが故郷からは遠すぎた。州内随一の会社を目指したはいいが結局行き着いているのは旅人だ。 「こん……にち、は」 「ちわ」  隈が浮かんでいた。相手は顔も見ず、ただ床だけを視界に入れながら機械的な挨拶したためフォランも返した。両手に社名の刻まれた紙袋を提げている。中は資料やファイルが入っていた。肩を落として、背筋は曲がり、髪はある程度整えられてはいるが跳ねたり絡んだりしていた。この青年とは先日、ラウンジ前で女性社員に囲まれているのを見たのが最後だった。その時はいくらか痩せたと思った。目が窪み、頬骨が影を落とすと穏やかな顔立ちに峻厳なものがあった。華の一流企業の若手上層部員でも苦労している。大して気にも留めずにシャールファシーに会いに行く。曲がり角に完全に消える寸前で、白の開襟シャツを何故か振り返ってしまった。  ソファに寝転んでいると、険しい表情をしてガラスのパーティションに刳り抜かれた扉が開いた。遅いくらいの昼休憩に向かったばかりだ。誘われはしたが、持ち込まれた旅行雑誌を眺めていた。臨海の山岳地帯と温暖かつ少雨の気候が広がるエリプス=エリッセ以東に興味があるらしかった。だがどこも既に行ったところだった。観光地たる場所は巡らなかったため、雑誌で満足する。 「シャーリィ?」  黙ったままフォランを見ている。初めて会った日と同じ、今までの親しみが全て失せたような眼差しだった。 「腹でも痛ぇのか。パンか何か買ってきてやるよ。座れほら。薬は」  対面のソファが空いていることも忘れ、隣を空けると座面の下にブランケットが入っていることを少し前に何となく知っていたため、青地に白熊柄のブランケットを引っ張り出した。妹も腹痛に動けなくなる日があった。シャールファシーはポケットから財布を出して紙幣を3枚抜き取った。フォランは会社近くにある、瀟洒なパン屋にするか、さらに何軒か先にある土地開発に取り残された雰囲気のある小さなパン屋にしようか迷った。 「兄さんを美容室に連れて行ってくれない」 「は?」 「あの髪型、あたし、嫌い」  出された紙幣に手を伸ばしかけ、下ろした。兄に対しては、我を押し付けようとしないシャールファシーの身勝手な言い分にフォランは戸惑った。 「兄さんを1人にしないで」  下ろした手を取られ、紙幣3枚を握らせた。だが、手首を返して小さな手に返す。 「いい、オレから出す。"恋人"が綺麗になるんだからな。ただし、シャーリィ、君の好みじゃなくても泣いたり怒ったりするなよ。文句はオレが聞く」 「円盤ハゲだってモヒカンだってなんだっていいから」  肩を大きく上下させシャールファシーは噛み締めた唇を震わせていた。何かあったらしかった。あの婚約者絡みのことなのだろうか。深くは訊かずに、ひとつの疑問だけ投げる。 「この辺に理容室あったっけ?」 「裏通りに曲がってすぐ」 「分かった。行ってくる」  オフィス2課のデスクの畑を通り抜け、ベルフレイシェの私室を訪ねる。ノックする。返事はない。音楽が小さく聞こえる。もう一度ノックしたが、名乗っていなかったことに気付く。 「ベルフレイシェくぅん」  十分小さかった音量がさらに下がった。足音が近付いた。鍵が解かれる。目を見張った。普段は綺麗にセットされた黒髪が乱雑に切られている。前髪を特に短く切られ、左右で大きく長さが変わっていた。 「入れ」  腕を引かれ、鍵を閉めた後はそのまま放置し、デスクに戻った。流れていた水のせせらぎが混じったピアノの音楽がわずかに大きくなる。ベルフレイシェは特に普段と変わらない様子で書類とコンピュータディスプレイを見比べていた。 「ねぇ」 「………なんだ」  書類を眺めながら数字やよく分からない単語を呟いて、一段落すると返事をした。 「理容室行こ」 「次の休みに行く」 「今がいい」 「似合ってないか」  書類にマーカーペンを走らせているベルフレイシェを観察していた。キーボードを数度叩き、またマーカーペンを引いている。 「暫く商談とか接待とかないの」 「次の休みに行けば間に合う」 「今行こうよ」 「見て分かるだろう、仕事中だ」  ソファに勝手に座り、大きく溜息を吐く。 「飯食った?」 「腹が減っているなら社食にでも行け」  ぶつぶつと数字を呟きながらマーカーペンが紙面を走り、キーボードが幾度か鳴った。 「手が滑って4時間に1回休憩も挟ませないヤバい企業ってリークしちゃいそ」 「揉み消されるだろうな」  何かが変だった。フォランはソファから立ち上がり、デスクに近寄る。皺の寄ったネクタイが気になった。ハウスキーパーかシャールファシーがアイロンをかけ皺を伸ばしていたはずだ。 「…なん、だ」  ディスプレイを挟んで、散切り頭の美男子をまじまじと見る。 「何時上がり?予約しておくわ。電話貸して。自分のぶっ壊れてるから」 「…っ、結構だ。それくらいのこと、自分で出来る…余計なお世話だ…っ!」 「シャーリィが見たら、心配するよ。むしろ、理容師になりたかったなら次期社長は自分がやる、とか言い出すかも分からんね?」  ディスプレイのボタンを押し、ベルフレイシェは席を立った。前髪を掻き上げるが、掻き上げるだけの前髪は切られている。ジャケットやシャツに切られた毛が何本か付着している。 「アヒター」  捨てられない姓で呼ばれると、どこか違う世だと思っていたこの地と遠いアイラーロ県が同じ空の下なのだと思わされる。苦笑しながら、何?と続きを促す。 「…っいや、シャーリィと会っていたんだろう。元気でやっているか」 「元気、元気。お兄様がよろしくやってれば元気さあの子は」 「……お前のほうが、……シャーリィにはいい兄なのかも、知れない」 「だろ?」  ベルフレイシェは内線に繋がる受話器に、名乗り、早退を申請する。短すぎる雑談。柔らかな声音。受話器は壁に戻された。 「よし、じゃ、行くぞ」  ベルフレイシェより先に扉へ向かい、鍵を外す。その間に部屋の主人はコンピュータをいじり、音楽を切っていく。椅子を直し、扉へとやってきた。 「お前も来るのか」 「あんたのイメージチェンジ、オレが真っ先に見るんだもん。当然だろ?」 「バカか」  付いてくるな!という拒否を待っていた。従うつもりは微塵も無くとも。涼しいことはあれど、寒さに縁遠いこの街で、寒さがぶわりと肌を駆けていく。 「ベルフレイシェ」 「…なんだ」 「マジものの病欠じゃ、ないよな?」  まさか。返事は簡潔だ。エレベーターに乗り、密室になる。空間が閉ざされると、目の前の全てが歪み変貌していくようだった。隣にいる男は誰だ。身体の奥まで知っている相手だ。本当にそうだろうか。物理でしか、知ることは出来ないのだ。そういう関係を選んだではないか。疑問が浮かび、視界に留めていられなくなる。大袈裟に寄ったジャケットの皺。ナメクジが這った後に乾いたような白さを残した汚れ。エレベーターが止まりエントランスに出る足を踏み出すと同時に前にいた飼主は、不意に膝裏を圧迫される悪戯に似た崩れ方をした。咄嗟に支える。汗の混じった彼の匂いにエレベーターの中の浮遊感がもたらす憂鬱を忘れ去る。膝蓋腱反射かと思ったが、腰に手を当てている。一昨日、ベッドの上でのことが響いたのかも知れない。 「大丈夫か」 「……っ、」  抱擁と見紛う体勢だったため、ベルフレイシェは何も答えずフォランの胸から離れた。 「ごめん、もしかして、オレのせ、い?」 「…よせ、こんなところで…」  エントランスを出て、大通りを歩く。車が行き交うオフィス街で、昼間は直近の区画のレストラン街が賑わう。出会いの場にもなっていた。 「ねぇ、でもほんと、悪かった」 「……やめろ。謝るな」  普段と比べると随分と遅い足取りでフォランも合わせていたが、ベルフレイシェはせかせかと歩き出してしまったため、慌てて追った。  接待でそのままホテルに泊まるから家を散らかすなと言って、ベルフレイシェは自宅に戻らず、躾のされていない犬は朝飯を食うのも忘れて会社に向かう。このベルフレイシェが贔屓にしているハウスキーパーも、接待があったことなど知らなかった。2人分の晩飯を平らげて、正しくは朝飯を思い出すだけの空腹がなかった。風呂上がりの匂いを嗅げず、夜中にリビングまで様子を見にくる姿はなく、帰りを告げる扉の音はなく、朝に見送る背中も無い。拒否の言葉も罵倒もない。全く無関係の部外者の身で関係者面をしてボーダム社に入り、可愛い妹に会いに行くより先に私室に行こうとしたが明確な理由がなかった。  オフィス2課のあるフロアは騒然としていたが、早速兄の整えられた短髪の感想を求めることに楽しみを見出しガラスパーティション個室に目指すことが最優先になっていた。シャールファシーは出勤している時間だが、パーテーションの室内には誰もいなかった。炭酸飲料を氷なしで飲んで、妹を待つ。兄に会いに行ったのだろうか。髪を整えられた短髪のベルフレイシェはまだ学生に思えた。麗らかさに夜は遅くまで眠れなかった。妹も気に入るはずだ。むしろ危惧するかも知れない。パーテーションの扉が開かれ、満面の笑みで迎えたがシャールファシーではなかった。焦燥した様子で、第3応接室へ来るように頼まれる。シャールファシーの身に何かあったのかと一瞬にして頭に血がのぼり、華奢なガラスパーテーションを突き破らん勢いで飛び出し、通路を阻む椅子を飛び越える。第3応接室が分からなかったため、騒然とする廊下の人集りへ向かった。第3応接室はどこだと叫び、放たれている両開き扉の奥に見知り過ぎた少女に近いくらいの後ろ姿を認めた。扉脇の消火器が転がっていた。小火騒ぎかと思ったが黒煙は見当たらない。 「シャーリィ」  部屋へ踏み入る。シャールファシーは壁に、腕を振り下ろす。鈍い音が響いた。細い腕に赤い塗装がされている斧を振り上げ直す身体を抱き留め、大股で数歩下がらせた。視界の端に何か入ったが、それどころではなかった。長い指に握られている細みの柄を放させる。知識としてだけ知っていた、「鍵束」と暗喩される緊急時の小型の斧だった。階段脇に設置され、消火器の奥に隠されているのを幾度か目にした。 「おい、シャーリィ…」  手の甲の皮が剥け、血塗れになっている。張り裂けたソファの近くで真っ赤に染まって腕時計が落ちている。見覚えのある、ロゴデザイン。 「手、怪我してんじゃん!痕になる!早く医者だ!…救急車!何やってる!医者呼べ、バカ!」  頭が真っ白になり、廊下にいる社員たちに喚きた立てて血塗れの白い手を掬い上げたが、払われてしまう。 「シャーリィ…」  フォランの腕をすり抜け、血に染まり短針も長針も見えづらくなっている腕時計を拾い上げる。皮の剥けた手に巻いて、亀裂の入った壁に躙り寄る。弾痕もあった。クッションが露出しているソファにマガジンが抜かれた銃が捨てられている。浅い吐息が聞こえ、フォランはシャールファシーのブラウスの襟を掴んで引き寄せ、間に割り込んだ。虫の息の男がいる。銀髪が暗赤色に色付いていた。頬は皮が剥がれほとんど真っ赤で、翠の目がフォランを捉えた。死体が蘇った気色悪さがある。何発か、壁の弾痕を見るにほとんど外しているが肩は出血が酷く、着ているネイビーのシャツが濡れて黒くなっている。マガジンが脚の上に落ちたところをみると、投げ付けられたのかも知れない。 「この男に似つかわしいのはね、蜂の巣か八つ裂きなワケ…」  金属が後ろで掠れた。青年の乾いた血液の上を涙が伝う。細い顎から滴り落ちる。銀髪と、真っ赤な血。思い出すな、思い出すな、思い出すな。過ぎ去ったどうしようもない光景が脳裏に浮かぶ。 「落ち着け、シャーリィ!」  まずは自身が落ち着かなければならなかった。だが叶わない。自治警団と救急隊員がやってきて、そこまでは覚えていたが、空想に囚われていた。可憐な両手首に銀の腕輪が掛かっていく。任意同行に、頷いたかも知れない。青年が運ばれていく光景だけはしっかりと見ていた。  オオワシのオブジェの台座に座り込む。空のオレンジに黒く影絵になった長い橋が視界の端に架かっている。川向こうに社内の廊下に並べられたディスプレイに表示される棒グラフの如き高いビル群が並んでいる。  このことは、ボーダムさんには…  任意同行中に呼び止めた男は、ベルフレイシェの付き人だった。何度か見たことがある、堅い身形の中年だ。  言わない、オレの口からは。  その時はそう答えたが、知っているだろう。自治警団が連絡しないはずがない。関わっていないことにしろという意だったのか、始終無表情の銅像のようだったあの付き人も気が動転していたか。カラスが鳴いて、帰宅の時間を告げる。どこに帰れというのだろう。暫く歩き寄り道、暫く歩き寄り道を繰り返し、公共バスに乗って帰った。自宅に帰っているだろうか。あの美しい顔が涙に濡れていたら。痛みと興味と不安が同時に起こる。妹はどうしているだろう。あの青年はどうなった。最寄りのバス停なら離れ、立体遊歩道の階段を登った。マンションが遠く感じる。悲しみに沈み込んでいたら、どうする。あの青年に重い怪我を負わせた原因は分かっている。しかし理由は分からない。あの青年が何をしたというのだろう。痩せこけ、顔色は悪く、退廃的な色気すら漂わせてきていたあの男が。  エレベーターの浮遊感にはまだ慣れないくせ、その他のことは当然の日常に溶け込んでしまつた。帰宅の道順も、立体遊歩道から見える風景にも、マンションの空気感にも、マンション住人の顔にも。自宅と化した他人の家のチャイムを一応鳴らし、ノブを捻る。鍵は締められていなかった。 「ただいま」 「…チャイムはびっくりする」  どうせ無理矢理上がるんだろう、鳴らさなくていい。  4人掛けのダイニングテーブルに突っ伏していたベルフレイシェが顔を上げた。 「…ごめん」 「次から気を付けろ」  スーツ姿のままだった。特に何も変わったところはない。 「夕飯は冷蔵庫の中だ。好きに食え」  変わったところはある。多弁だ。それがフォランは怖かった。 「ベルフレイシェは」 「…少し空ける」 「仕事?」  ダイニングチェアから立ち上がり、今すぐにでも出て行ってしまいそうだった。空色の目が泳ぐ。 「…そうだ」 「昨日のも、本当に?ハウスキーパーさん知らなかったぞ。晩飯2人分入ってたし。次の休みまで接待とか商談無いって言ったのだって、本当に急用なのか?早退したのに?髪切ってる時だってアンタに電話なんかあったか?」 「…社会人には色々あるんだ。早退しようと急用で商談が入ることもある…」  この男は自分の嘘の吐き方について、どう考えているのだろうか。強く出るか否かフォランは迷った。 「待てよ。まぁ、そうかも知れない。プータローのオレには知らないことだ、そんなのは。でもあの散切り頭はなんだ?あの銀髪くんと何かあっただろ?昨晩か?」 「訊いてどうする?お前はどういう立場のつもりで俺にそれを訊くんだ?答えを知って何の得がある?」  ベルフレイシェの前に立ち塞がる。どこか悲痛な響きを持って問われ、全てに答えられなかった。なんとなく。考えてなかった。好奇心。浮かぶ返答は求められているものではないことも知っている。 「強姦魔に逐一報告する必要があるとは思えないな。たとえ毎日の家庭訪問を赦しているからといって、勘違いするなよ」 「ベルフレイシェ」  肩を払ってでも通り抜けるつもりらしかったがやはり通せなかった。 「仕事じゃないんだろ?逢い引きなら何も言わねぇよ。これだけ訊かせてくれ。今夜オレがいなければ済むことか?」 「どこに行くつもりなんだ、アテがある?ならば二度と来るな。妹とも関わることを許さん」  腹の奥がスッと軽くなった感じがあった。空腹に似た軋みが襲い沈むように消えていく。 「分かった」 「お前と寝ないかと思うと清々する。シャーリィにはお前は故郷にでも帰ったと伝えておくよ」 「マジで久々に帰るのも、いいかもな」  フォランはベルフレイシェに背を向ける。入ってきたばかりのノブに手を掛けた。目を閉じて捻ったが、背中の布を掴まれていた。背後で転んだのかと思った。 「俺は、シャーリィの兄になりきれないから」  冷たいノブを握り締める。震えた声が聞こえて、フォランはただ、氷のようなシルバーのノブを見つめる。 「シャーリィを孤独にしたくない」  引っ張られる。動かないでいると、再び引っ張られる。 「アンタがシャーリィの兄貴降りるようなこと言うなよ」  鷲掴む手がさらに強く服を引っ張った。 「でもアンタがそれを望むなら喜んで受け入れるな…?あの妹はそういう子だ」 「待て…ここにいろ。犯せ。俺を、犯せ…あの子を独りにするな…」  背中に体温が重なり、ドアノブが鳴った。握り締めた手が震えている。喉が渇く。唾を飲み込むと留まった痛みが小さく上下した。 「あの子は俺のせいで人生を棒に振った!頼む…、行くな」 「バカじゃないの」  腰に手を回され、ノブを握る手に手を重ねられる。 「頼む…俺にはこれしかない、頼む…あの子を、」 「オレにキスしろ。跪け。靴を舐めろ。落ちぶれ腐ったブルジョワめ。野良犬になんぞ媚びやがって。恥を知れ!」  振り向くと、空色の双眸が緊張していた。 「じゃあな。ホント世話になったわ。ハウスキーパーさんによろしく。飯めちゃくちゃ美味かったって伝えとい…」  目の前に影が迫る。扉に押し当てられ、唇が濡れた。すぐに視界は明るく戻り、次は足を取られる。スーツの膝に土足が乗った。 「ボーダムさ、」  薄いブルーに見上げられ、靴に接吻される。 「バカじゃないのかアンタ!何してんだよ?それがボーダム社の次期社長か?」  足を退け、跪いたままの片膝を払った。水色は泳ぐばかりで、何も言わない。 「くだらねぇ真似すんな!なんでアンタら兄妹は揃いも揃って破滅的なんだ?」 「次は何をすればいい…?どうすればここに留まる?」  視線が繋がったまま逸らせなかった。黙っていると、ゆっくりとネクタイが解かれていく。ウエストコートの前を開く。ホワイトシャツの釦にも手を掛けたが、2つ目で躊躇う。釦の穴が堅いのか。自ら脱いでいく様を凝視してしまっていたがふと我に返った。 「妹のためなら身も売れるって?お涙頂戴の大傑作だな!淫売め!」  2つ目の釦が外れる。肌着が見えた。タンクトップではなく、袖がある。荒い息遣いと速くなる鼓動。発生源は、フォランだった。ホワイトシャツがスラックスから抜かれ、袖からも抜かれていく。素肌が見えた。手首に真っ赤な擦り傷がある。両手首にだった。 「それ、何した?」  質問の答えは返ってこない。半袖下着を脱いでいく。脇腹の胸、鎖骨と首の根元周辺に散った鬱血痕。執念を感じるほどの数に息を呑む。 「アンタ…」  誰とだ。誰にやられた。鳥肌が全身を覆う。目の前の半裸の男はバックルに擦り傷と痣の目立つ手を掛けた。 「やめろよ!これ以上自分のこと辱めんじゃねぇよ」 「頼む…あの子を独りにするくらいなら、こんなこと、大したことない…」  全裸になる気らしい男を抱き上げる。痩せた。銀髪の青年も痩せたが、この男も痩せた。寝室に運び、ベッドへ放り投げる。 「無理矢理、させられたのか」  無理矢理行為に持ち込んだ者が問う。滑稽さは感じているくせ自嘲も忘れた。疑惑を抱えた男は黙っている。 「誰に…」 「無理矢理じゃ…ない」  両腕を抱いて、声を絞り出している。 「無理矢理じゃない?じゃあ合意があった?その手首の傷は、ただの激しいプレイってことでいいんだな?じゃあ見なかったことにする。流石に野暮だったわ。ごめんな」  決してセックスとは言わなかった交接の性生活がリスキーな性癖を目覚めさせたというのか、それともその前からそういった趣味があったのか。まるで匂わせも悟らせもせず。 「……そう、だ」 「それなら尚更、オレはここにいる必要はない。そいつが妹の友達になれるだろ。独りじゃないさ、アンタもいるし…っていうかアンタのさっきの態度こそ、あの子を独りにさせてるんじゃないのかよ」 「違う…!俺はあの子の幸せを奪った最低の兄なんだ…どうして、あの子の兄でまだ、いようとできる?」  身体を離すと追い求められ、本当にどうこうしかねない衝動に抗いきれそうになくなった。両の手首に腕輪を嵌められた姿が脳裏に焼き付いて、まさにあの妹が強姦魔の爪牙から兄を救った。 「やっぱりあの銀髪くんか、これ…」 「ちが、う…っ」  肩が跳ね、固まり、首を振る。白い顔が何かを恐れている。 「軽蔑なんか別にしない。アンタあいつのこと、好きだったろ」 「違う!違う、そんなわけない!何を言ってるんだ?あいつは男だろう…!俺だって…お前に女みたいに扱われたって……」 「オレは一度だってアンタを女と思ったことはないけどな」  離れるか、否か。離れられなかった。突き離すようなことをしたら、消えてしまいそうだった。 「……っそれでも、都合のいい性欲処理だっただろうが……それで構わないから、あの子の傍にいてくれ…」 「兄妹ったって別個人だぞ、忘れるなよ。アンタがあの子のためにつらけりゃ、あの子もアンタを思って胸を痛める。なんで分からない?」 「分かるさ!だからだ!あの子が可哀想なのが何よりつらい!そのためならあの子をも傷付ける!俺は、そういう…男なんだ」 「まったくそういうとこばっかよく似た兄妹だよ」  自身の言葉が耳に沁みる。卵子提供した女が言っていた。まだ自身が何者かも知らなかった時。まだ母さんと呼べた頃。本当に兄妹だね。優しく響いた、柔らかな母親の声。生まれた時から識っている。 「覚悟があるんだな?」  薄い唇が引き結ばれる。まだ躊躇いのある首肯。 「オレは強姦魔だから、君を強姦しか出来ない。ほんとにいい?」  無言と頷き。フォランは縮まる身体に残った衣類を剥ぎ取った。白い内腿にまで散るキスマークの美しさとグロテスクさに叫び出したくなった。奇声を上げて、やられたこの餌食にも、やった捕食者にも、酷く残酷な仕置きをしたくなった。しかし出来るのか。擦り切れた手首を重ねて顔を覆う男に対して一体何が出来るだろう。平手打ちなど出来ない。殴打もする気が起きない。蹴り飛すか。齧り、抓り、引っ掻くか。考えるだけで、心臓が破裂する。己が救済のため妹の生贄になりたがる兄が痛がり、泣く姿を想像するだけで、思考を閉ざしたくなってしまう。結局何も無かったふりをしたが、多数散ったキスマークの上に柔らかく口付け、その存在を明らかにしてしまった。治りに向かう薄紅色を赤く染めたくはなかった。 「…っふ、ぅ」 「くすぐったい?」  腿を小さく上げたベルフレイシェの短くなった髪を撫でる。梳ける長さではないが、指に馴染んだ柔らかな髪が心地良く、むしろ撫でられている気分になった。 「続けて、くれ…」 「…つらいだろ。なぁ、オレのこと、オレのことと思わなくていいから。やってほしいこと言えよ」  腿の痕に口付けた。 「犯せ…」  ベルフレイシェは短く答え、体勢を変えた。四つ這いになると、肘を曲げ、腰を高く突き上げる。色付いた粘膜がわずかに盛り上がっている。 「ぅん…ぁっ」  盛り上がった粘膜が捲れた。微かに蠢きながら後孔から滑り出てくる。腸液とはどこか違う体液がシーツに落ちた。繁華街のアイス屋で見たメロンシャーベットより少し濃いくらいのグリーンの細長い楕円形のペンが現れる。フォランは口を半開きにしたまま硬直していた。体液をまとって半分ほど排泄されるが、これ以上は出せないらしかった。粘膜が収縮し、ペンは落ちる。見覚えがある。 「いつから?いつから…なんで…これ…」  銀髪くんのじゃん。継げられなかった。追い込みたいわけではなかった。 「助けてもらった……、それで…それで…」 「いい、何も言うな。オレももう訊かない。ごめん。こんなんずっと中に入れっぱなしでつらかったろ」  銀髪の青年の胸ポケットに挿してあった。同じペンか、それともただ、同じメーカーなだけなのか。シャールファシーのあの凶行は。全く慣れていなそうな銃まで持ち出して。手の甲を真っ赤にして。愛した者が好いた人を瀕死にして。 「やっぱオレのことだけ考えて!」  マットな質感のライトグリーンをしたペンをシーツから払った。部屋の隅に転がっていく。四つ這いの体勢を乱暴に崩し、仰向かせる。鼻先が触れ合うほどに顔を覗き込んだ。 「お前のこと、考えてる」  眼差しが怖い。眼球の裏が炙られているようだ。体内の水分が目から絞り出される。水の膜が張って真近で見ることに飽かない冷たい顔立ちが霞む。叫びたい。叫ぶ言葉はないというのに。落ちる。目元を押さえ、ベルフレイシェから離れる。 ――他人を人形にしか思えないんだから!あんたなんか! ――ぼくたちって選ばれた人間じゃん?バカな奴等って人として見られないんだよね、君も同類だろ?なぁ? ――フォリーはフォリーだよね?今ここにいるのだが、だってフォリーなんだもん 「フォラン」  薄皮が剥がれ、赤く擦り剥いた手首に絡まれる。 「泣かないでくれ…」  この男は何を言っているのだろう。乾いた唇に奪われる。

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