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第11話
腕は目合 う相手を離せず、少しでも隙間が開くことを許せずに腰は密着した。陰部で感じる物理的な快楽も大きかったが、ベルフレイシェに求められながら繋がっていることに深い満足感を得る。
「あっ…ぅん、」
「爪立てて大丈夫だから」
腕を背中へ回させる。ベルフレイシェは首を振った。幼い子供のような仕草に胸を打たれ、額に口付ける。背中で結ばれるはずの手が腕を絡めながら肩の骨を撫でる。
「じゃあ後ろからしようか?」
二の腕を掴まれる。いやだいやだとまた首を振る。
「フォラン、っぁ…っぅん、ぁ、顔見た、いぃ…ッあ、はぁ、ぅン…っ」
奥へ打ち付けると背中へ腕を回すが揺さぶりに指の腹が背中を揉む。
「そんなこと、言われたらさ…っ」
汗ばんだ胸や腹がくっつき、大きく下腹部の怒張が疼いた。中のものが質量を増したせいか、応えるように収縮する。
「ぁああっ…ぅん……ぁ、はっ…ぁ、」
「いい?」
微笑みが浮かんで、余裕のなさげなベルフレイシェはキスで返事をする。苦しかった。痛みのない苦しみ。溶け合えたい。だが2人でいたい。言いようのない困惑と欲望の強さだけ振り払うように抽送を繰り返す。
「気持ち、いい……気持ちい、い…フォラン…ッぁあ!」
「爪痕、ちょうだい…?」
「だ、め……いや、ぁ、ぅんっんっあっ、」
嫌がる唇を塞いで舌を絡める。余裕のないくせ、積極的に舌を出し、甘くフォランを齧った。前を擦り、悦楽の箇所を内外から刺激する。
「イって」
「フォランも、フォランん…っも、んぁっ!…あっ、やめッ、まだ、あっ…ッ」
潜んでいた反抗期の子供の一面 に極悪非道な人形は柔らかな心地になった。
「ごめん、一緒に、イこ?」
何度も頷く様に悩殺される。離せない。離したくない。だが離さないでどうするのか。離したほうがいい。簡単に計算出来た。肌がぶつかり、頭はただ官能を求め、肉体は許容の限界まで突き走る。悲しみにも似た絶頂。悦びと落胆が鬩ぎ合い、迸りを受け止めるベルフレイシェの肉感と汗ばんだ質感に繋ぎ止められる。
「フォラっあぁ、好き…フォラ、ンっ…好き-…」
都合のいい幻聴。聞かなかったことにした。言葉通りに受け取れたとして、冷静な部分が却下した。勘違いさせたのだ。優しい男の勘違いに付き合ってしまうのは、この面倒臭いほどに面倒見のいい男の首を絞めている。混乱していたのだ。分かっている。ただその時に聞こえた気がしたフレーズを大切に胸にしまっておけばいい。毒に抱かれるこの肉体ごと消せばいいことだ。
顔を見せることが出来ずすみません。はい。援助とか、本当、ありがとうございました。ご家族御一同によろしくお願いします。本当に、ありがとうございました。
真新しい画面に浮かんだボタンを押す。電話が切れた。リビングの白く光るレースカーテンが眩しかった。寝室に戻って眠る家主を眺めていた。過ぎた暮らしだった。パラボレーに寄らなかったら、どうなっていただろう。どこまで走れただろう。疲れてしまったわけではない。知ってしまった。しかし明確なものではなかった。そのようなことはどうでもよくなり、静かな寝息に聴き入り、美しさに見惚れる。母と妹と過ごした日々で時折感じたものと同じ、悲しみに染まりきらないくせ寂しさが凝 る嬉しさ、喜び。あれが幸せというものだったのだと当時は気付かなかった。ここにあの妹がいたら。それは複雑な空気になってしまうが、あの妹がまた来てくれたなら。艶やかな短い黒髪を思わず撫でてしまう。長い睫毛が微かに動いた。背中を引っ掻くことを選んだ手がシーツを握っていたが、傍らについたフォランの腕を捕まえた。大人の男の指であるのに、母離れの出来ていない男児の指にも思えた。
「行かせない」
「故郷に帰るだけさ」
「後悔したくない」
腕に額を寄せる。黒猫に戯れつかれている感じがあった。
「あんたは、ちゃんとあんたを大事にしてくれる人に素直になりなよ」
ベルフレイシェは起き上がる。どれだけ抱いても彼の素肌を目にすると溜息を吐きたくなるほどの感動が沸き起こる。フォランを見て、シーツを少しの間寝惚けて見ていた。何か恐れているような、隠し続けていた罪を自白するかのような、緊迫した面持ちで、強張っている。
「君が好きだ。一緒に居て欲しい、とは言わない。帰らないでくれ」
言ってしまった彼は裁きを待っている。言われた本人は、二日酔いのつらさを思い出して笑った。
「水を持ってくるよ」
「フォラン…」
今まで付けてきた鬱血痕が全く無い肌に頭を抱えたくなる。何故鬱血痕を付けてきたのか。正気を保てなくなるからだ。脳味噌が停止し、安楽的な死に向かっているようなあまりの美麗さに、寒気をも感じる。リビングに向かうはずだったが、ベルフレイシェに引っ張られて止められる。
「好きなんだ、君が…行かせたくない…もう会えないのか…?」
離せない。離さなければならない。離すしかない。離すのだ。
「そうだよ、もう会えない。明日の朝一の便で出る。それとも一緒に来る?選びなよ、妹と仕事か、オレか。分かってるでしょ。あんたに課せられてる務め」
ベルフレイシェを振り切った。寝室の扉を閉めると泣きたくなってしまったが、傷付け、勘違いさせ、再び選択を迫り、試し、責任感が強く優しい男へ罪悪感を植え付けたのはどこの誰なのか考えると、そのまま感情を晒せなかった。
市街地を歩き、シャールファシーのいる拘置所のある方角を見ていた。全て裏切ることになる。兄妹2人の願いを聞いて、全て裏切った。理想を託され生を受け、裏切ってばかりだ。公園に寄って同意書のコピーを眺める。母親だった女の、しかしフォランにとってはまだ母親の筆跡と研究の責任者の名。憂いはない。ペンケースからボールペンを取り出した。書き慣れた名前が記されていく。肩凝りに似た重さが消える。目の前の広場で踊り出せるほどに軽い。自署してしまえばこれほどまでに軽やかになれるのかと感動した。
サインしたから。今まで逃げてごめん。明日には帰るよ、ちゃんと。
留守番電話にメッセージを残し、暫く空を見上げていた。雲のない澄清。
「楽しかったな」
ぽつりとパラボレーでの感想を零し、港近くの簡易宿を探す気になった。横断歩道を渡ろうとした時に脇を歩いていた男女2人組にトラックが真っ直ぐ走行してきていた。止まるかと思ったが速度は緩まない。男女2人組は気付かずに仲睦まじく話していた。荷物を持った男と、下腹部の膨れた女。赤ちゃんだ。期待。設計された。理想の。優秀な。親を裏切らない。忠実で。見目の良い。
フロントガラスの白い反射の下に、ぐったりした運転手が見えた。その運転席が何となくこれから向かうガス室のように思えた。あの腹の子もガス室に行ってしまうのか?あの2人は寄り添っているのに?腹の魔憑きが距離の無い2人の間を引き裂くのか?
踵が地を蹴る。膨れた腹の弱さが恐ろしくなった。身重な女の背中を男に向かって押し付けた。金属に打たれ、横断歩道の先にある店へ潰されていく。
アイラーロ県はいいところか。
高温多湿で、深緑に彩られ、蜃気楼も見られれば紅葉し、雪も降る。著しい気温の変化はあるが、街や人の装いが変わっていく様は楽しかった。いいところだと一口に片付けるのも簡単だったが、何かまだ話し足りなかった。話し足りない。話し足りないのだ。話したい。声を聞きたい。相槌だけでもいい。返事でもいい。知りたい。だが、望ましくないことだ。
もうすぐで、妹の命日なんじゃないのか。
それまでには帰るつもりだった。だが墓を訪れてどうなる。墓を訪れていいだけの立場か。あの石に一体何の意味があるのだろう。語りかけたところであの子の声も体温ももう存在しないというのに。気は済むのか。誤魔化せるのか。
もう生まれてしまった命だぞ。
ガス室に行くのだ。犬猫が眠っていったように。何故生まれたのか、意義を見出すのが変だと気付くこともなく。意義はあった。母を幸せにするために。富と名誉。唯一無二の優越感を与えるため。
母親のこと嫌いなのか。
行った場所の地名は覚えているが、記憶がなかった。様々なところに行ったのだ。様々なところに行って、思い出すように、巡り直して、子を抱く母を見、父がいなかったことに気付き、だが精子提供者に縋っていた。死にたくない。ガス室に行きたくない。だが母が望むなら。大変な苦労があったはずだ。裏切ってしまった。理想の子供にはなれなかった。科学を、技術を、遺伝子までをも裏切ってしまった。
行かせない。行かせたくない。
行きたくないけど、行かなきゃだろ。隣にいたい。対面でもいい。傍でなくともいい。あの意地っ張りは甘えたがりのくせ甘え下手の禁欲主義だから、出来ることなら傍にいたい。
指先についた洗濯バサミを外す。身体に張り付いたコード付きの吸盤を取ると、晒されて寒かった病衣の前を閉める。真横にあったディスプレイ表示式の時計には時刻と、その下に気温と日付も載っている。パラボレーを出ると決めた日から4日経っていた。帰れなかった。
凝った背中を小気味よく鳴らし解す。刺すような痛みが走った。爪に違和感を覚え、確認すると爪の間に泥のような汚れが入っている。血だ。何が起きた。何故4日も経っている。隣に誰もいない。黒髪の美しい男がいない。ベッドを横切る薄いテーブルの上に見慣れた荷袋がある。血で汚れていた。慌てて中身をひっくり返し、確認した。直された端末器はヒビが入っていた。背面が大きく凹み、折れ曲がっていた。パンフレットも全て血で染まっている。大切なものが入っていたはずだ。フィルムのようなファイルケースには入れていたが、液体となれば汚れてしまう。赤茶色に染まり、波打った殺処分同意書を取り出す。帰らなければ!ベッドから降りると頭がずきりと痛んだ。クレジットカードと暗証番号を書いたメモを置いて病室を出て行く。100万クオーレ入っていたはずだ。細かいことは何も考えず、港へ走る。膝が痛んだ。腹が引き攣るように疼いたがどれも取るに足らない。またひとつ、裏切りを重ねてしまった。情けなさに支配された。裏切ってばかりだ。期待には応えられず、理想通りにはならず、母の願いを叶えるどころか大切な妹を死なせてしまい、さらには唯一の理解者だと思い込んでいた少年とは永遠に埋まることはないだろう溝を作ったまま彼は死んだ。無能だった。驕っていた。編集された遺伝子を過信していた。大事なものを裏切ってばかりだった。無力感に泣きながら港に着く。空は船と共にオレンジに染まり、海は紺色に暮れていた。出港間近の船に乗る。涙を溢し、鼻を啜りながら切符を買う様は見た者たちに滑稽な印象を残しただろう。妹を残してしまうのだ、また。自己嫌悪に襲われながら、甲板に上がった。手摺りから身を乗り出してパラボレーを眺めた。臨海公園のアルミ製のイルカのオブジェが眩しく照っている。あの男が好きだった。整髪料で撫で付けられた黒髪も、短くなった毛先も。切り揃えた爪も。分かりやすく泳ぐ瞳も。思っていたより弾力感のある薄い唇も。神経質な眉も大好きだった。出港の音。見送る人々。少しずつ離れていくパラボレー。この地と旧ブネーデン地方アイラーロ県は空に輝く星と星よりも近いけれど。これから向かうのはガス室だから。さようなら。
隣に人がやってくる。甲板は随分と空いているというのに。
「アイラーロ県で雪を撮ってくると約束してきた」
隣を向いた。頬に柔らかく薄い唇が当たった。
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