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 名探偵ぽややんの事件簿~依頼人Eの悲劇・終章~  6月15日 18:33 「…っ!! せ、ん…ぱいっ!!」  管理棟から渡り廊下を2つ渡った先にある実習棟。  1つ目の渡り廊下でも、2つ目の渡り廊下でも姿は見えず、実習棟の階段まで来てやっと目的の後ろ姿を見つけた。  こんなに走ったのは何時ぶりだろう。  全力疾走と慣れない大声に息は絶え絶え。  呼んだは良いものの手摺に掴まって立っているのがやっとな状態で、やっと見つけたその姿が振り向く所は見れなかった。 「…はぁ、ハァ…ッ…はぁ…、せ…んッ…ぱいっ、…待っ、て…」  不足した酸素を掻き集めるために肺がフル稼働する。  呼吸が整うのも待てず、手摺に縋るようにして一歩踏み出そうとした所で上から待ち望んだ声が降ってくる。 「ゆず?」  いつもより甘さ控え目な声音。  それでも叫んだ声が届いていたことにほっとする。  ――待って、置いていかないで。  思わず叫びそうになった言葉。  小さくなっていく後ろ姿。  廊下の向こうに消えて行く先輩。 『一瀬を追いかけたいか?』  本当は追いかけたかった。  離れたら先輩とは一緒に居られなくなる気がして、去っていく後ろ姿から目が離せなかった。 『一瀬が好きなのか?』 「――先輩が、好き…?」 「え?」  想定外の距離から声が聞こえて顔を上げると、階段の踊り場に居たはずの先輩がいつの間にか目の前まで来ていた。  驚いた表情で、あと数歩の所に立ち止まった先輩。  整い始めた息を最後に大きくひとつ吐いて手摺を離す。 「せん、ぱい…」  階段と廊下の境。  薄暗くなってきたこの場所でも、先輩は変わらずキラキラしているように見える。  やっと手の届く所まで追い付いた、と一歩踏み出そうとした所をグイッと腕を取られた。 「――っ!?」  踏み込んだ一歩と引っ張られた反動でバランスを崩しそうになりながら、いつになく強引な先輩に近くの教室に引きずり込まれる。  ここが何処かなんて考える間もなく、背中越しにドアが閉められた。  ガラガラッ、パタン――…ガチャッ。 「はぁ…。来なかったらどうしようかと思った…」  耳に当たる熱い吐息。  鼻腔を擽る甘い香り。  背中に回された力強い腕。  身体中に感じる先輩の存在。  抱きしめられていることを知り、後頭部を撫でる手の優しさに抑えていた切なさが雫となって零れ落ちる。 「お話、終わったの?」 「終わった…です」 「早かったね。 走ってきたの?」 「う、はい…」 「そう。 お返事できた?」 「たぶ、ん…」 「頭真っ白になっちゃった?」 「ぅー…、凛先輩…良い人、です。 でも…だって…」 「…うん、そっか。 よく頑張ったね」  よしよしと頭をクシャクシャにする先輩は、僕の答えも切なさの理由も分かっているのだろう。  こうなると分かっていて置いていったのかと思うと若干複雑ではあるけれど、クシャクシャと撫でる手とは反対の腕が痛い程抱き締めてきて、やっぱり切なくなる。 「離れないでって、先輩がゆった、です」 「――うん」 「ずっと、って…」 「うん、そうだね」 「せん、ぱい…置いてった、です」 「うん、ごめんね」  冗談みたいに言われた言葉を盾にして、零れ落ちる切なさを誤魔化した僕に、ごめんね、もうしないよ、泣かないで、と飽きずに繰り返す先輩。  半分以上が八つ当たりだって分かっているはずなのに、本当は先輩に悪いところなんてないのに、何も言わずに僕を受け入れてくれる。  人付き合いが苦手で、目を合わせることも出来なくて、会話なんか録に出来なかったのに、「無理して話さなくていいよ」って笑ってくれたあの日から、先輩は怖くなかった。  生徒会に誘ってくれて、見回りしたり名探偵になったり、殆どお茶ばっかりしてたけど、本当はすごい人なんだって知った。  僕のコンプレックスを「おバカさん」って笑って、トラブルを巻き起こしたあの時も「護らせて」って言葉と抱き締めてくれた優しさに救われた。  勉強会も  映画デートも  球技大会も  懇親会も  何気ない日常ですら  みんなみんな楽しくて  もっと傍に居たくて  他の誰かと居るのを見るのは辛くて  触れられると嬉しくて  名前を呼ばれるだけで泣きたくなった。  ――ねえ、先輩。  この感情にはなんて名前を付けたら良いですか? 「ゆーず」 「―――――…」 「ゆず、こっち向いて~」 「――や、です」  どの位そうしていたのか、落ち着いた頃を見計らったかのように名前を呼ばれた。 「クスッ。 もう泣いてないでしょ~」 「泣いてる、です」 「ふふ、泣いてるのか~。 それは困ったな~」  思わず「泣いてる」と答えてしまったけど、よく考えたらそっちの方が恥ずかしい気がする。 「ぅー…」 「何唸ってるのかな~? 可愛いだけだよ~?」  ――チュッ。 「へっ?」  頭上から聞き覚えのある効果音が落ちてきて、咄嗟に離れようとした身体がビクリと跳ねる。 「髪には…キス、して良いって言ってたよね?」  そう遠くない日の遣り取りを持ち出し、先回りして反論を止めた先輩。  跳ねた肩を宥めるように撫でた手が、輪郭に沿って上っていき大きな掌で両頬を包まれる。  先輩は、ずるい…。  涙の跡を拭うように滑ったそれが上を向くように訴えかけてきて、言葉なんかなくても従わざるをえなくなる。 「まーた、うさぎさんになってる~」  先輩が赤くなった目元を揶揄しながら「ゆずは泣き虫さんだね」とクスリと笑う。  綺麗な笑顔に至近距離で見つめられると、目だけでなく顔まで赤くなっているような気がして視線が泳ぐ。 「でもなぁ…他の男の事でこーんなに泣かれると、ちょとあれだよなぁ…」 「せん、ぱい…?」  ふと不穏な空気を感じ、耐えきれなくなってついチラリと見上げてしまう。  ――あ、しまった。  一体何時だろう。  いつの間にか先輩の地雷を踏んでいたらしい。 「ね、ゆず」 「なん…です、か?」  まるで蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、逃げられないことを悟る。 「いつから…名前で呼ぶ程、凛ちゃんと親しくなったの?」 「ひっ…!!」  耳元に落とされた甘くて低いヒヤリとした声。  ゾクリと竦み上がった瞬間、目元に残った涙をペロリと舐め取られる。  腰を抜かした僕が先輩の追求から解放されたのは、完全下校の鐘が鳴った後だった。

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