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例年より早めに梅雨明けが宣言され、あっという間に真夏日が続くようになった。
夏日、真夏日、猛暑日と年々暑い日を表現する言葉がバリエーション豊かになっていくが、言い方を変えても暑いものは暑い。
どんなに暑くても学生にはやるべき事が山盛りあるし、嘆いてばかりでは居られない。
先週も期末テストで、数学の試験範囲の広さに絶望させられたばかり。
幸いなことに、先輩による短期集中スペシャル個人授業のおかげでそれなりの点数は出せた。
補講は免れることはできたけど、あの膨大な試験範囲は鬼か数学バカのどちらかがおじいちゃん先生に入れ知恵したせいだと噂されていた。
「ゆず~、卒業生に出すお茶ってどれ~?」
「あっ…触っちゃダメ、ですっ」
山程ある仕事の中で何故そこを選んだのか。
壊滅的家事音痴の先輩が、セットしておいた茶筒に手を伸ばそうとしたのを慌てて止める。
つい先日もお湯出し用のティーバッグを氷水の入ったグラスに入れてアイスティーを作る、という画期的な方法をあみ出そうとしていた先輩。
さすがにティーバッグを追加投入しようとしたタイミングで止めたけれど、そんな技量でよく人様に飲ませるお茶を入れようと思ったものだ。
今日のお客様は我が校を卒業した大先輩方。
これから進学、就職する三年生のために進路指導説明会と称して経験談を話してくれるそうだ。
特進科を卒業し一流大学へと進学した先輩。
普通科から上場企業へ就職した先輩。
社会人として何年も相応の企業で働いてる先輩。
そんな大先輩たちに、在校生にアドバイスをするためにわざわざお越し頂いているのだ。
失礼があってはいけない。
お茶は僕に任せてもらって、先輩には別のお仕事をお願いしよう。 うん、それがいい。
「もう応接室に何人か来てるみたいだよ~?」
さり気なく失礼な自己完結をしている横で、先輩がぽやぽやと僕の動きを追いかける。
普段有能なくせに家事が絡んだ仕事になった途端、全てが空回りし出す仕様らしい。
「お茶、僕が持っていきます。 先輩はお礼の品物のチェック、お願いしてもいいですか?」
「は~い」
そう言えば、結…じゃくて、あーちゃんが「初代プリンスが来る」って言ってたっけ。
先輩より綺麗な人がそうそういるとは思えないけれど、ちょっとだけ気にはなる。
お茶を持っていったら見られるかな、なんて邪なことを考えながら生徒会室を後にした。
「ん~…終わったぁ~!!」
バタバタ忙しく動いているうちにあっという間に放課後がやってきた。
夏休み前最後の行事も無事に終わり、後は終業式まで午前授業を数回残すのみ。 今学期の生徒会が携わるべく大きなイベントは全て無事に終了した。
「お疲れ様、です」
「ん~…、ゆずもお疲れ様~」
定位置のソファーに座り、背もたれに首を凭せ掛けて天を仰ぐ先輩。
珍しく本気でお疲れモードだろうか。
水嶋会長は前生徒会長さんを含む諸先輩方の接待。
吉川先輩は引退試合の近いバスケ部へ。
ポチ先輩は目安箱に入っていた依頼の処理。
僕は一日会長補佐の名目でお茶出し担当。
それぞれの仕事に掛かりきりだった僕達と違い、あちこちからかかる呼び出しに対応すべく、先輩一人で学校中を奔走してくれたらしい。
「…お茶、淹れます、か?」
「ん~…お茶は大丈夫~。 ゆず、ここ来て~」
空いた隣の席をペシペシと叩かれる。
僕が行ったところで疲れが取れるはずもないが、お願いするように首を傾げられ、促されるままに隣に腰を下ろした。
「先輩、疲れたならおうち帰りましょ?」
「ん~、もうちょっと…」
「――ふぇっ!?」
ぽふり、と太腿に温かい重みを感じて見下ろせば、ミルクたっぷりのミルクティーみたいに甘い髪色が目に入る。
これは所謂、膝枕、と言うやつでは…。
膝上から甘えるような視線を送ってくる先輩。
「ちょっとだけ、貸して?」
そう言って目を閉じた先輩が、規則正しい寝息を立て始めるまで数分もかからなかった。
えっと…、これはどういう状況だろう。
そっと先輩の顔を覗き込むと、甘い色の髪に縁取られた横顔は寝ていてなお整っているのがわかる。
でもよくよく見れば、瞼を縁取る長い睫毛のその下にいつもは無い隈が薄らと浮かんでいるのが見えた。
寝不足、なのだろうか。
そういえば先輩は、あまり自分のことを話さない。
僕の話を聞いてくれて、楽しい話も沢山してくれるけれど、先輩自身のことを話してくれたのは初めて会った時と映画デートのあの日に答えてくれた幾つかのことだけ。
誕生日、血液型、家族構成から好きな食べ物まで、聞きたことは一つたりとも忘れてはいない。
けれど、先輩の本質に触れる何かは、まだ知らない気がする。
寝不足の理由も、僕をここに居させる理由も――。
そう気付いたら、急に先輩のことがもっと知りたくなって、そっと手を伸ばす。
「…せん、ぱい?」
規則正しい呼吸、閉じられた瞳。
呼び掛けた声に応える気配は感じられない。
伸ばした指先がミルクティー色に触れる。
――サラリ。
一度触れてしまえばあっという間で、指先で少し触れるだけのつもりが、もう少し、もう一度、と繰り返す。
柔らかそうな髪色の印象からは想像がつかなかったハリのある髪。
僕の猫っ毛と違い弾力のあるそれはサラサラと心地よく、手櫛を通しても引っ掛かる所がない。
人差し指を使って一束掬い、くるりと毛先を遊ばせる。
何度も繰り返し、気付けば掌全体を使って梳くように撫でていた。
「ゆず、擽ったい」
「えっ、あっ…ごめんなさ…っ」
どれくらいそうしていたのか。
クスッと笑う声に下を向けば、いつの間に起きていたのかこちらを見詰める瞳と視線が合う。
しかし咎められることはなく、慌てて引こうとした手首は逆に捕えられて続きを促された。
「ん、もうちょっと…」
「――や、じゃない…です、か?」
「うん。 ゆずの手、気持ちいい…」
サラリ、と梳いた髪を輪郭に沿って流すと、再び目を閉じた先輩の頬が擦り寄ってくる。
「―――――先輩、可愛い」
いつものぽややんとした先輩とも、名探偵の時のキリッとした頼りになる先輩とも違う無防備な先輩はなんだか可愛くて、思わず口を突いて出る。
「えっ…」
ゴロリと寝返りを打ち、真上を向いた先輩に下からじっと見詰められドキンと心臓が跳ねる。
男の、それも先輩に向かって可愛いはなかっただろうか。
でも今日の先輩はなんだかちょっと甘えたで。
こんな一面もあるんだなって知ったら、可愛く見えたのと同時に嬉しくなって。
申し訳ない、って思うよりも先に口元が緩んでしまった。
「ふふっ。 ごめん、なさい」
笑いながら謝ったのでは説得力は皆無だ。
緩んだままの口元を何とか抑えようとしていると、下から先輩のなんとも言えない表情と手が伸ばされた。
「――可愛いのはゆずの方だよ」
そう言って僕を撫でた先輩は、珍しく照れたように笑っていて、また新しい一面を見つけてしまった。
もしかしたら。
もっと近付いたら。
もっと色んなことを知ることができるだろうか。
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