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1章 炎の記憶 1

 レイスは狂った機械のように、何度も同じことを繰り返した。自分の喉を掻っ捌いて、全身の血を身体から抜き出して倒れる。  あいつの身体はそんなことをした程度じゃ、死ぬことなんてない。死ぬことには死ぬが、肉体の死は生命の死、とはならない。外にあふれだした血は炎となって燃え尽き、細かい粒子状になって、風にさらわれて肉体へと還っていく。  レイスが再び目を開ければ、ついさっき死んだはずの身体も傷も元通りになっていて、またあいつは狂ったように己の身体を切り刻み、倒れる。  レイスはもう人間ではない。元は人間だったが、精霊の魔力が今は大半を占め、人間でも精霊でもない中途半端な存在として、この世にとどまっている。  自分で自分を殺すような真似をしなければ、それでも人間に近い物として存在することはできていただろうに、レイスは聞かなかった。  夜の月と星の光の中で、今、金色のあいつの髪は燐光を纏い、肌は倒れるたび白く透き通って、人間の物ではない輝きを放ち出している。死ぬたびに人間である部分が削られ、代わりに魔力が吸収されているのだ。再生の速度も、最初の頃から比べるとずいぶんと早くなっている。  あいつはまだきっと、自分の身体が徐々に変わって行くことに気づいてはいないだろう。ただひたすら、嘆き、生を憎み、恐怖から逃れるために己を刺し貫くだけ。死が永遠に訪れないことを認められず、精力が尽きるまで繰り返す。  この数日、ずっとレイスが繰り返していることだった。  また背後で倒れる音がした。それから、周囲で風が巻き起こる音。だが、風がおさまった後、さっきまで聞こえていた絶叫は繰り返されなかった。  枯れ果てた喉を通る呼吸がせわしなく繰り返され、一瞬だけ止まり、むせかえってすすり泣く音に変わる。  掌が地面の砂を握る。手を突っ張って起きあがろうとするものの、うまく身体が動かせないのか、再び地面に倒れ伏す音が聞こえた。  レイスの組成は今、炎の魔力が7割。人間の部分が2割。残りの1割は、よくわからない何か。  そのうち炎は、ヴァルディースにとって力の源だった。炎の魔力を操ることは大した労力では無いどころか、呼吸をするに等しい。ヴァルディースは今日だけで既に10回は死んだレイスを、その身体の大半を構成する炎の魔力を閉ざすことで、無理矢理無力化させた。 「いい加減、無駄だって気付いたか」  たき火が目の前で爆ぜる。背後からレイスの応えは、ない。  ヴァルディースは無造作に火の中の薪を掻きやった。  本来なら、こんな人間崩れに目をかけるのはヴァルディースの性分ではない。ヴァルディースは悠久の時を生きてきた炎の精霊である。精霊という存在自体が、そもそも人間と関わるものではないからだ。  精霊はただ現世に存在するだけで、人間の目に触れることは決してなかった。ヴァルディースのように高位の精霊ともなれば実体化し、人間の中に紛れることもなくはない。それでも気まぐれに戯れる程度である。  ヴァルディースも、精霊の基本的な行動思考から大きく離れてはいない。レイスと行動を共にするつもりなど、全くなかった。ある組織がある実験を強行し、無関係ではいられなくなったとはいえ、ここまで干渉する必要があったのだろうか、という思いは、常にヴァルディースの中にある。  レイスは、ガルグという組織の実験材料だった。このガルグというのも、人間ではない。かといって精霊でもない。全く別の存在で、人間を激しく憎んでいる一族だ。そいつらにレイスは捕らえられ、 人間の器に炎の精霊の長とも言えるヴァルディースを封じ、ガルグの意のままに操ろうとした実験に利用された。  ヴァルディースにしてみれば、自分自身がガルグの実験材料にされたという怒りはあっても、宿主とされたレイスに対しては、何の感情も抱いてはいなかった。怒りや憎しみどころか、同情も憐れみも。  ガルグの手から逃れることができ、上手いことレイスと分離することができた時も、そのまますべて吸収し、レイスの存在自体を消し去ってしまおうと考えた。どうせレイスが生き残っても、人間としてすらまともに生きることはできず、化け物と化すのは目に見えていた。  本当に、そのまま打ち捨てて消滅させればよかったと、今ならヴァルディースは思わなくはない。  背後でレイスは未だ、最期の悪あがきでもしようというのか、地面に転がった刀に、届きもしない手を伸ばそうとする。力尽き、身動きもできないありさまだというのに。  ヴァルディースは立ち上がった。 「そんなことばかりする気力があるんなら、いい加減他の事に向けろ。馬鹿野郎」  レイスの手の先に転がった刀を蹴り飛ばす。  つかみ損ね、遠ざかった希望にうなだれた姿は、人間そのものだ。  緑色の双眸が、恨みがましくヴァルディースをにらみ上げてくる。しかしそこに生気がまるでないわけではなく、むしろただ生きるだけの人間共などよりはよほど強い意思を持っていた。  意思の強さは、普通なら生きることに向けられる。レイスの場合はそれがむしろ逆になる。死ぬことだけに執着するのは、まともな人間ではない。まして生や死に全く関わりが無い精霊などとは根本的に違う。  面倒くさい生き物拾ったものだ、としか、ヴァルディースには思えなかった。 「……っ、んで」  久々に発された言葉に、ヴァルディースは足元を見下ろした。か細い、喘ぎのようなつぶやきだった。それでも絶叫や悲鳴などよりは、よほどマシと言える"言葉"だ。  震える拳がヴァルディースに向けられた。力無く拳は空を切った。動きもしない身体でそんなことをしたところで、ヴァルディースに届くわけもない。今この状況で、何をやっても無駄なことだと言うことぐらい、本人が一番よく分かっているはずだ。  ヴァルディースはため息をついた。 「なん、で、殺さないっ」 「なんで俺がお前を殺さなきゃならない」  もう何度も繰り返された押し問答だ。死にたいと、殺せと言うこいつに、常にヴァルディースはこう言ってきた。なぜ、俺がおまえを殺すなんて言う面倒なことをしなければいけないのだ、と。 「オレは、生きていたくなんてないっ」  言ってもレイスは納得しない。何度も殺せと、死にたいと泣き叫ぶ。  ヴァルディースの脳裏に唐突に、一人の女の姿が全ての思考を引き裂くように割り込んだ。

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