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1章 炎の記憶 2
誰かとよく似た女だった。けれど誰かと比べるとずっと面差しは穏やかで、金色の長い髪を風にたなびかせ、物悲しい憂い顔で、草原の彼方を見つめていた。森の木々が立ち並ぶ草原の境目で、彼女はずっと待っていた。
ヴァルディースは小枝を踏みしめて近づいた。不意に割り込んだ音に彼女は振り返り、ヴァルディースの姿を緑の双眸に映し出した。彼女は信じられないものでも見たように口元を押さえ、目元を潤ませて、肩を震わせながら、小さなヴァルディースに向かって腕を広げた。
ああ、生きていてくれたのね。よく帰ってきてくれたわ。
女は、美しくも苦労によってやつれ汚れた頬を涙で洗い流し、跪いてヴァルディースの小さな身体を抱きしめた。
ヴァルディースはほっと安堵した。温もりに包まれ、恐ろしさや寂しさから解放され、安心できる場所に戻ってこれたのだと実感した。涙がこぼれそうになったのを無理矢理ヴァルディースはこらえ、今度は誰よりも愛しいその人を、自分が安心させようと、笑いかけようとした。
ただいま、母さん、と彼は言おうとした。
けれど、その言葉を発しようとした瞬間、幼いヴァルディースの思考は全く別のものによって支配された。
頭の中が真っ暗になり、目の前は真っ赤に染まった。
耳にはどこにもいないはずの男の笑い声が、割れんばかりに響き渡った。
ヴァルディースは唸った。唸ったとしか言えなかった。理性で抑え込むことのできない衝動が、急激にヴァルディースの内に広がっていく。
目の前の女はヴァルディースの突然の豹変に、驚愕し、目を見開き、それでもヴァルディースの異変をどうにかしようと言うのか、きつく抱きしめようとした。その直後、女の身体は燃え盛る炎に包まれた。
絶叫が辺り一帯に響き渡った。炎に包まれた女の物ではなかった。声は自分の中から発されていた。ヴァルディースが叫ぶごとに、女を包む炎は激しさを増していった。
ヴァルディースは炎を消したかった。同時に激しい衝動がヴァルディースを襲った。もっと激しく炎をあげろ。この女を殺せ。その衝動が絶叫となり、炎と共にヴァルディースの中から噴き出していく。
炎は本来ならヴァルディースのものだった。わけのわからない衝動に駆られてさえいなければ、普段のヴァルディースならば、こんな炎は簡単に止められるはずだった。
見知らぬ男の声が、一層耳元でうるさく響いた。この笑い声がヴァルディースの破壊衝動を増長させていた。母を殺せと執拗に、ヴァルディースを追い詰めていた。
ヴァルディースは抗おうとした。意識を支配し、衝動を増幅させようとする闇が全身を押し包むようにのしかかってくる。背筋が凍えるほどに冷え、冷や汗が吹き出す。目の前がかすみ、意識が遠のいて行く。
それでもヴァルディースは母の姿を求めて手を伸ばした。炎の中へ手を差し伸べる。指先が届くか届かないかという所まで近づく。
その時、力無く炎の中で女が首を振った。ヴァルディースを拒むように、彼女は自ら遠ざかろうとする。
拒絶されたことがヴァルディースに衝撃を与えた。炎が更に激しさを増した。
とっさに、これは自分の意思ではないと伝えようとした。殺すつもりなんてない。傷つけるつもりなんてない。今すぐ止めたいのに、体は思い通りにならない。
叫ぼうとしたのにまともな言葉にならず、獣じみた咆哮となる。
炎の中で、女はもう一度強く、最期の力を振り絞るように首を振った。
触れたら、お前まで燃えてしまう。
女の唇がか細く紡ぐ。
それから女は微笑んだ。
「お前が無事で、本当に、よかっ、た、レイ……」
炎が火柱となって女の身体を飲み込んだ。レイスは、自らの手で母親を殺した罪悪感と悲しみと、自分への憎悪に支配され、絶叫した。
レイスの絶叫によって、ヴァルディースはレイスの意識から弾き飛ばされた。
目の前には、自分への憎悪に押しつぶされ、死を願うレイスがいた。
まるでついさっき起きたような、鮮烈な記憶。ヴァルディースは、こみ上げる吐き気を必死でこらえようとした。
人間でもないのに冷や汗が噴き出す。激しく打ち鳴らす鼓動を鎮めようと、大きく息をついた。
今、ヴァルディースの意識を支配したのは、ヴァルディース自身の記憶ではない。今まさにヴァルディースが体験したとしか思えない記憶も全て、本来ならレイスの物だ。
ヴァルディースはもう一度レイスを見下ろした。レイスは未だ苦悩し、死を願って泣き喚いている。
ようやく落ち着き始めた鼓動を抑えるのに、もう一度大きく息を吸い込んだ。汗をぬぐい、レイスに感づかれることの無いよう、踵を返す。
気を付けなくとも、きっとレイスは気付きはしなかっただろう。レイスにとって今は、ヴァルディースの事を気にするどころではないはずだ。
ヴァルディースは、焚き火の前に戻ると、もう一度大きく息をついた。
さっき体験した記憶が、ヴァルディースをひどく消耗させていた。これ以上あの記憶に関わりたくはなかった。
吐き気が、なかなかおさまらない。水でもあればがぶ飲みでもしていたことだろうが、生憎と今居るのは荒涼とした土漠のど真ん中だ。精霊二匹だけ。水も食料も、持ってはいない。
炎を見つめる。落ち着かない思考の中に、レイスの感情が割り込むように流れ込んでくる。
後悔、絶望、怒り、憎しみ。そんなものしかない。
ガルグにおいてレイスと融合させられてから、ヴァルディースには、レイスの思考が流れこんでくるようになった。分離に成功してからも、レイスの一部を取り込んでいるせいもあって、完全にレイスの思考を排除することはできていない。
レイスと離れようと思っても離れることができない理由が、これだった。
「あれは、俺のじゃねぇぞ」
自分に言い聞かせるように、つぶやく。
レイスの記憶が鮮明すぎるとき、稀にヴァルディースの方がレイスの方に引きずられることがある。最初はちょっとした恐慌状態だった。最近は制御の仕方が分かってきたせいで、あまりそうはならない。それでも、体験した事の無いはずの記憶が、突然自分の身に起きた出来事のように次々と流れこんでくるのでは、たまったものではない。
レイスの方でも感情や記憶を制御できるようになってくれれば、今のように激しい干渉はなくなるのだろうが、今のままではそれは望めそうもない。
「どうしろってんだ」
ヴァルディースはひとりごちた。
いっそ今からでもこの男の全てを吸収してしまえば、何も悩むこともなくなるだろうか。多少、ヴァルディースが経験したことの無い記憶が増えるかもしれないが、千年以上を生きているヴァルディースの中に、人間のたった17年分の記憶が加えられたとしても、今のような鮮明さを伴わなければ大したことではないだろう。
簡単なことだ。今すぐレイスの組成を分解し、その大部分を食ってしまえばいい。
しかしヴァルディースは、それをしたくなかった。
レイスには、双子の兄が居た。同じ顔のはずだが、レイスよりも母親によく似た、優しげな少年だ。今では唯一のレイスの家族だと言っていい。
ヴァルディースは、ユイスと会った時のことを思い出す。ヴァルディースが体験したことではない。これも、レイスの記憶だ。その時ヴァルディースはレイスの意識の奥底で眠っていたから、ヴァルディースの記憶にその事件はない。
幼い頃に生き別れ、7年離れ離れになっていたユイスとは、まだレイスが組織に居た頃に再会した。
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