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1章 炎の記憶 3

 当時、要人の暗殺やら、脱走した構成員の始末やらをやらされていたレイスの、そのターゲットに、ユイスの主人となっていた公爵がいた。王家にも連なる血筋を持つ、大貴族だった。  レイスはその男の暗殺を、組織から命じられた。公爵の屋敷に潜入し、そこでユイスと再会したのである。  屋敷への潜入は、レイスにとって造作もない事だった。いかに厳重な警戒を敷いていたとしても、人間が警備をする以上、その警戒網には穴がある。難なく屋敷に入り込み、闇に潜んだ。  レイスは時を見計らっていた。魔力を行使することはレイスにとって未だ制御が難しく、危険性が高い為、任務で使用するのには向かなかった。小ぶりの刀が、常の得物だ。  レイスは闇の中で刀の切っ先を標的に向けた。一寸たりともぶれることなく、公爵の心臓を狙い澄ます。  いつの頃からか、人間を殺すことには何の抵抗も抱かなくなった。殺人を楽しむわけではないが、母親を殺してから5年近く。数え切れないほどの命を奪い、レイスの感覚は既に麻痺していた、と言っていいのかもしれない。  最初の頃はさすがに、無関係の人間を殺すことにためらいがあった。任務を放棄したことも、何度もある。  普通なら、任務を達成できない者の生存を、組織は許してはおかない。使いものにならないと分かれば、即刻処分される。  だが組織は他の人間とは違って、レイスを処分することは無かった。代わりに、死ぬより壮絶な苦痛を与えられた後、無理矢理肉体を再生させられた。今思えばそれも実験の内だったのかもしれない。  繰り返された暴虐の末、レイスは死ぬことに恐怖を抱かなくなった。生きることにも絶望しか見出さなくなった。許されざる死を、夢として希ってすらいた。  何もかも無駄だった。任務を失敗しても、死という夢はかなえられない。それどころかただ苦痛を与えられ、ガルグの研究者たちを喜ばせるだけ。せめて任務を成功させて帰還する方が、まだマシというものだった。レイスの任務に対する成功率は、それなりに高くなった。  今回もいつもどおり、鮮やかではなくとも、遺漏なく任務を終えられるはずだった。そのレイスの予定を台無しにしたのは、双子の兄の、勘のようなものだったのだろうか。  公爵にまさに刃を突き付けたそのとき、唐突な声がレイスの耳に割り込んだ。 「レ、イ?」  レイスの刃は、間違いなく貫くはずだった急所を外した。  一撃で終わらせるつもりが、悲鳴が上がった。胸を貫かれた公爵が床にうずくまり、苦痛に呻く。血の匂いが辺りに強く漂った。  扉の前では、少年が背後のランプの灯りに照らされながら、小刻みに震えていた。息をのみ、倒れた公爵と血の付いた刃を握ったレイスとの間で、何度も視線を彷徨わせる。  レイスからは逆光になっていた。しかし、レイスにはわかった。分からないはずがなかった。  緑色の双眸は大きく見開かれ、目の前で起きた恐怖に揺らぎ、涙がにじんでいた。  いっそその震える唇がか細く紡ぎ出したのが、悲鳴であってくれた方が、どれほど胸が軽くなっただろう。 「ど、……して」  どうして? それはレイスの方が聞きたかった。  震える少年の声の向こうで、公爵の悲鳴を聞きつけた警備兵が騒ぎ出す。  逃げなければいけないと、経験が訴えていた。公爵は、急所は外したと言っても深手は負わせた。うまく行けばとどめを刺さずとも、今日の夜には死んでくれるだろう。この場にこれ以上居る意味はない。  やらなければいけないことは一つ。目撃者を始末して、退路を切り開く。いつもならば、考えなくとも当然のように行動していたはずだ。だが、扉の前に立ちはだかるのは、ただの人間ではない。レイスとそっくりそのまま同じ顔の、双子の兄、ユイスなのだ。 「なんで、レイが? 旦那様を、どう、してっ」  何を信じればいいのか、何を問いただせばいいのかわからず、ユイスは混乱の極みにあるようだった。目の前の光景を否定しようとして、けれど何年も生き別れたまま、ようやく再会できた弟の姿は否定はしたくないとでも言うように、両目から涙をあふれさせ、膝をつく。  レイスも困惑していた。なぜユイスがここにいるのか。なぜ、ユイスが自分の前に立ちふさがっているのか。なぜ、自分はユイスまでをも殺さなければならないのか。  レイスは、握りしめた刀が、震えていることに気が付いた。  何年ぶりに再会しただろうか。ユイスとレイスの故郷が敵に襲撃され、二人は共に連れ去られた。その時、まだたったの十才だった。  二人っきりになって、ひどい扱いを受けて、それでも自分たちだけはいつまでも一緒にいようと誓ったのに、結局、無理矢理引き離され、七年。  お互い無事かどうかもわからず、もう二度と会うことは叶わないかもしれないと、うっすらと抱いていた再会の期待も失いかけていたのに。それがなぜ、こんな形で果たされなければいけなかったのか。  ユイスは身長も体格も、レイスとさほど変わっていなかった。多少、レイスよりも線は細いが、もともとレイスと違ってユイスは活動的な方ではなかったから、特にそれは違和感とも言えない。いつもおとなしく、笑えば愛くるしく、大人には可愛がられた。たまに村の年かさの少年たちにいじめられても、返りうちにしてやっていたレイスと違って、ユイスはいつも泣いて帰ってきた。男友達よりも女友達の方が多かったような気もする。  今のユイスも、優しげな印象は何も変わらない。レイスのように擦り切れて、やさぐれた印象も全くない。若い使用人らしく、清潔感にあふれた衣装は、この館のお仕着せとも少し違って、僅かばかり華やいだ印象を与えていた。それもきっと、大事にされている証拠だ。  何がこうも二人の運命を変えてしまったのか。ユイスは知っているだろうか。レイスが自分たちの母親を殺してしまったことを。  知るわけもないだろう。  ユイスは何も知らない。なぜ自分の主が殺されなければいけないのか。なぜ、それをするのがレイスなのか。知らない方が幸せなはずだ。  穏やかな世界でユイスは生きてきた。ほっとすると同時に、なぜユイスだけが、という思いが一瞬沸き上がり、慌ててその思考を否定する。  ユイスだけでもこんな殺伐とした人生を送らずに済んだのなら、それに越したことはない。けれど、平穏の庇護者を失えば、これからどうなるかはわからない。そうでなくても、今この場で目撃者であるユイスを始末しなければ、いずれ組織の他の誰かが派遣されることになる。ユイスの未来には穏やかさはなくなってしまう。  今ここで死んだ方が、ユイスにとっては幸せなまま、死ぬことができるのかもしれない。他の誰かの手に委ねるくらいなら、自分が。  レイスはきつく歯を食いしばって吼えた。  目を閉じて、気配だけでユイスに飛びかかった。切っ先を突き付け、ユイスの喉を斬り裂こうとした。 「っ、レイ!」  懐かしい呼び方に何かがこみ上げた。  すぐに終わらせるはずがまた、傷を負わせる前にもつれ合い、二人共に床に倒れ込んだ。  もう一度体勢を立て直し、ユイスの方を逆に組敷いて、馬乗りになる。刃を突き付ければうっすら、ユイスの白い首筋に赤い線が滲む。  そのまま腕を引けばいいだけだった。けれどどれだけ刃を滑らせようと思っても、腕は震えて、それ以上動かない。  視線を上げると、ユイスと目が合った。その目に怯えは無かった。ただ、悲しみにあふれているだけだった。 「ぼくを、殺すの?」  涙をいっぱいに溜めこみながらも、ユイスはまっすぐレイスを見上げた。何も解らないはずなのに、その目は何もかも理解しているように、レイスを射抜いた。  ユイスが恐ろしくなった。昔から、どうしてかユイスに嘘をつくことができなかった。それが当たり前だとも思っていたし、二人の間に隠し事なんて必要なかった。それが今は違う。  いっそ、今も全て打ち明けられたなら。すべて打ち明けてユイスに許しを乞うことができたなら、どれほどいいだろう。  レイスは首を振った。呼吸をまともに繰り返すことが出来なかった。  ユイスに全てを打ち明ける? そんなことができるわけもない。では今ここでユイスを殺すのか? そんなこと、もっとできるわけもない。  ユイスの平穏な人生を、なぜ自分がぶち壊すことができると言うのだろう。 「オレ、は、っ」 「閣下!」  床を踏みならす大量の足音が、部屋の中に乱入した。柔らかい絨毯の上を硬質な甲冑が荒々しく駆け回る。  警備兵が倒れている公爵と、ユイスに馬乗りになって刃を突き付けるレイスの姿を見た途端、色を変えて剣を抜き放った。 「貴様、閣下とユイスに何をした!」  燃え盛る怒りがレイスに向けられた。増援がさらに駆けつけてくる。剣がレイスに向かって振り下ろされる。  紙一重にそれを避け、飛び退った。警備兵の顔が驚愕に震えた。兵がレイスの顔とユイスを見比べるその隙に、レイスは窓を蹴破って飛び出した。  背後でユイスの叫び声が聞こえた。待ってくれという声に、ひどく胸が痛んだ。

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