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2章 風を待つ熱砂 2

 脳裏をかすめた男の影に、また記憶の侵食かと、ヴァルディースは身構えた。しかし、記憶の波は襲ってくることもなく、プツリと途切れた。  ヴァルディースは拍子抜けした。今まで頻度や程度は下がってきたにせよ、何をどうしてもレイスの感情と記憶の侵食が始まれば止まることなどなかったのにだ。  ようやくレイスが感情の制御を覚えたということなのだろうか。いや、そんなはずはない。話も通じない精神状態の相手にそんなことができるわけがない。  一体何が起きたというのだろう。  腕の中ではレイスが意識を失い、崩れ落ちていた。ヴァルディースの首に絡めた腕が、力なく地面に滑り落ちる。  ヴァルディースは正直混乱していて、思考が回っていなかった。  涙が、ヴァルディースの手に流れ落ちてくる。無意識に拭おうとレイスの頬に触れると、異様に熱かった。魔力不足の上に高温による極度の疲弊で、人間の部分が持たなくなったのだ。ぐったりとヴァルディースに身を預けるレイスは、呼吸も荒く、意識も混濁していた。  ヴァルディースは長く息を吐いて頭を押さえた。関わりたくなかったのは確かだが、眷属にしたとはいえ精神状態の危うい人間を3日以上放ったらかしにしていたのは、いくらなんでもまずかった。 「さすがに自己嫌悪ってヤツになるな……」  レイスから逃げてしまった。覚悟を決めたと思いながらも、結局背負う気などありはしなかったということだ。  魔力は注いだが、熱はまだ下がらない。涼しい場所へ移そうにも、陰のようなものは周囲にはなく、太陽はまだ中天を過ぎる気配もない。  熱変換はある種の炎属性の魔術であるが、ヴァルディースは少々苦手だ。しかしまたあんな闇に飲み込まれても困る。多少複雑な魔術構築の手順を思い出しつつ、周囲の熱を下げ、冷やした手のひらを、レイスの額に重ねた。  額に触れた時、ふわりと、ほんのかすかな意識がヴァルディースの中を通り過ぎた。寂しさや苦しさ、そういう漠然とした感情とともに、ほんのわずかな安堵。そして、またあの男の影だけが一瞬だけ。  レイスの表情が、先ほどよりもほんのわずかだが落ち着いたように見えた。  ヴァルディースは思案した。  気にはなるのだ。今まで激しいばかりだった感情の侵食が、唐突に止んだのは何故なのか。あの男の影がなんなのか。  一方的に受信するだけでなく、こちらからも働きかけることでレイスの記憶を意図的に盗み見ることは、たぶんヴァルディースにとって難しいことではないだろう。  ただ、あくまでも他人の記憶だ。抵抗感がないわけではない。常識的に考えればいいわけもないのだ。  しかしこのままレイスに言葉も届かず、手もつけられずに死を繰り返すレイスを見ているしかできないよりは、たとえレイスの意思に反しようとも理解を進めるしかないだろう。  それに元々こっちの意思に関わらず垂れ流され続けた記憶だ。今更把握する範囲が増えたところで、大差はないはずだ。 「悪いな。俺もいい加減この状況を打開したいんだ」  ヴァルディースはレイスに触れた。それは自分の記憶を思い出そうとすることに似ている。意識の深層を探り、浮上させる。  ヴァルディース自身にはレイスと融合した直後からの記憶がない。脳裏に映り出したのは、レイスがガルグに連れてこられ、ヴァルディースとの融合が完了した直後のことだった。 ◆ ◆ ◆  レイスの意識は朦朧としていた。自分の身に何が起きたのか理解できず、ただ激痛と不安とに苛まれていた。  ユイスと共に連れさらわれ、別々の買い手に引き取られたために離れ離れになり、たどり着いた先で言葉で表しようのない苦痛を味あわされた。身体は自らの炎で焼き尽くされて、感覚などほとんどない。それでも、かろうじてレイスは生きていた。目を開けても視力はほとんどなく、ぼやけた視界で周りの状況などわからない。ひどく遠い、歪んだ聴覚で微かに聞き取ることができたのは、レイスにこんな苦痛を味あわせた張本人であったザフォル・ジェータが、誰かにレイスを引き渡す会話だった。 「今日からこの子供の世話をしてもらう。面倒見てやってくれ」  もう一人いるだろうと思われる相手の声は聞こえなかった。応えなかったのか、それともレイスに聞こえなかったのかはわからない。  レイスが理解できたのは、おそらく実験がひと段落したのだろうということと、ザフォルの手を離れる今なら逃げることができるかもしれないということだった。  レイスはもがいた。こんなところに一分一秒たりとも居られるものかと思った。逃げて、ユイスを探して、一緒に故郷に、フォルマンの草原に帰るのだ。  しかし、身体はピクリとも動かなかった。レイスは嘆いた。苦しいというよりも悔しかった。自分の体が自分の思い通りにならないことが、それどころか自分以外の者に好き勝手にされてしまったということが、悔しかった。  ろくに顔の皮膚も筋肉も動かない。叫ぶことが唯一できることだったのに、叫べば皮膚が裂けて口の中にも血がにじむ。唇も舌も、喉すら焼けてしまって、言葉にならない枯れた獣じみた咆哮にしかならなかった。それでも悔しさから、レイスは叫んだ。  ザフォルの気配はレイスをそれ以上顧みることはなく、遠のいた。もう一人の気配が近づいてくるのがわかった。逃れようと、体をよじろうとする。それを男の手が押さえつけようとする。一層レイスは抵抗しようとした。  男のため息が聞こえた。 「辛かったんだな」  低い、静かな声だった。レイスに父親はいない。年の離れた兄がずっとレイスとユイスの父親の代わりだった。その声は、兄とは全く口調は違った。淡々として感情などまるで感じられない。しかし、どこかにじみ出る優しさのようなものが、レイスに兄の存在を彷彿とさせた。  そっと頭を撫でる大きな手の感触が、レイスを安堵させた。涙が、自然と溢れ出た。  どうせこいつも自分を好き勝手にするバケモノどもの仲間なのだと思えば、こんな奴に触られていたくなどないと思った。けれど同時に、その温もりが離れがたかった。  涙は止まらなかった。悔しさよりも寂しさが次第に勝っていく。  なんで自分がこんな目に会わなきゃいけなんだ。ユイスに会いたい。母さんに、家族のみんなに会いたい。家に帰りたい。もうこんな辛い目に会うのは嫌だ。しきりに、呂律の回らない口でレイスは叫んでいた。  温かな手の主は、泣きわめくレイスの頭をずっと撫でやり、落ち着くまでそばに寄り添った。  時折、申し訳なさそうに、生真面目にレイスに謝りながら、額に口づけを落とすのは、やはり兄の仕草と似ていた。 「今は眠れ」  疲れ果て叫びが嗚咽に変わった頃、男はレイスをそう促した。淡々とした低い声にレイスは甘えた。ガルグに連れてこられて初めて訪れた安らぎの、深い眠りに落ちた。  それが、レイスとグライルの最初の出会いだった。

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