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2章 風を待つ熱砂 8

 居心地がいいことが逆に気持ち悪かった。  目が覚めたら炎狼とかいう男の懐ろで抱きしめられていて、どれくらいぶりかに安心して眠っていたことに気がついた。一瞬だけ、確かに嬉しかった。男の優しさが感じられたことで、安らいだ。  それが覆ったのは、男の存在に、異常な高揚感を認識してしまったからだったと思う。もっと、一緒にいたいと思った。もっと、男の存在が欲しいと思った。それは違和感しかレイスに与えなかった。  現実を認識して、たぶんレイスは恐ろしくなったのだ。  炎狼から逃げた。どこの誰かもわからない男に抱かれること自体はどうだっていい。今までだって、行きずりの男を引っ掛けたことは数しれない。そうしていれば一瞬でも苦しみを忘れられた。ただ、そういう男に優しく抱かれて、心地よさに浸ったことなど、今までになかった。唯一、グライルを除いては。  炎狼に抱かれている時、グライルの時のような安堵があった。自分から、こいつが欲しいと思った。グライルとは違うはずなのに、まるで以前から知っているかのようなわけのわからない本能的な思慕だ。  夢から覚めてそれが、恐ろしくなった。逃げなければと思った。  以前もガルグで意思を奪われ、操り人形にされたことがあった。薬を使われて、快楽なのか苦痛なのかわからないまま壊されたこともあった。思い出すだけでゾッとする。その時の感覚を、あの男は思い出させた。  本当に、この男を自分が求めているのか。求めるように、自分を書き換えられたのではないか。この安堵は本物なのか。だって、どこの誰かも知らないのだ。なぜそんな相手に突然こんな感情を抱くのだ。自分自身が何より信用できなくなった。  きっとガルグが新たに監視を変えたかしたのだ。レイスの意思を操ってあの男を信頼させて、そしてまたガルグに縛り付ける。  ユイスを殺した直後に、レイスは壊れた。それは覚えていた。その時の監視はレイスよりも年下の少年で、それなりに親しみは感じていたものの、壊れたレイスに対処できず、結果ガルグはレイスを持て余し封印した。  だから今度はガルグもグライルに似たものを持ってきたのだと、レイスは考えた。だが、そんなものに囚われたくない。逃げなければいけない。そう思った。  なぜ、ガルグは壊れたままにしておいてくれなかったのだろう。なぜ、レイスにまた感情などというものを取り戻させたのだろう。ユイスまで失って、もう心の拠り所などなくなったレイスに、どうしてこれ以上また苦痛を感じさせる心を取り戻させたのだ。  苦しかった。名前も知らない男に、レイスは焦がれ、飢えた。欲しい。たまらなくあの男が欲しい。ずっと、ずっと一緒にいたい。けれどその先に待つのはまた、破滅と絶望だ。 「なんなんだよ、これっ」  離れるほどに心は飢え、身体は疼き、焦れる。それでも逃げる。走って、ひたすら走ってたどり着いたのは、まさしく地の果てだった。切り取られた空間。小さな小さな世界の終わり。その先に通じる道はなく、ここからは逃げられないのだと悟った。砂の地面に倒れ込み、体力も尽きた。  そしてあの男が追ってきた。  心と体が意味もわからず高揚した。今にも飛びつきたくなった。震える体で、必死でそれに耐えた。こんな感情は違う。自分のものじゃない。  男は予想外にレイスに近づかなかった。自分はその時のいったいどうして欲しかったのだろう。近づいてもらえなかったことが、寂しかった。もう一度、寄り添ってくれた穏やかな温もりが欲しかったのか。自分から、逃げておきながら?  勝手に心は落胆した。本能的な思慕を拒絶しておきながら、レイスの意思としても男を求めてしまっていた。  もはや耐えられなかった。欲しいと、レイスはたまらず訴えた。  それも罠だったのだろうか。あっさりと求め焦がれたものの一部を得てしまったことに拍子抜けした。  ほんの一瞬の口づけ。それだけでもうレイスは歓喜で震えた。  それからはもう、羞恥しかなかった。抱きしめられ、身体も心も悦び、とてもじゃないが恥ずかしくてたまらなくなる。身動きを封じられなければ今にもむしゃぶりついてしまいたいくらいで、でもそれは許されなかった。  生殺しというのがまさに的確。ひどく悶え苦しみながら、炎狼の説明とやらを聞かされた。  正直、レイスはそんなものを知りたくはなかった。なぜならそれは結局やはり、レイスの思った通りのものでしかなかったからだ。  男の話を要約すれば、こういうことだ。  レイスを制御するために、炎狼の存在に飢えるようにレイスを作り替え、レイスを束縛した。炎狼は守ると言ったが、義務だというそれはレイスにとっては監視と大差ない。  心が飢えるほど、優しさだと誤認すればするほど、その事実が悔しさとして胸に突き刺さる。  結局、そこにグライルと同じものなど一切ないのだ。レイスへの優しさや労りは、まやかしでしかない。  自分の両手足には、永久に解けない枷が重なっていく。 「どうせてめぇらみたいな奴らは、こっちの気持ちなんか知りもしない」  身を竦めて炎狼をレイスは拒絶した。精一杯の虚勢だった。 「義務だのなんだの言ったところで、結局自分の好きなように弄ぶだけ弄んで、いらなくなったら簡単に捨てる。人間ってものを見下してる。だったらさっさと好きにしろよ。さっさと壊してくれよ。オレの意思なんて残さずに! もうたくさんだ!」  そうだ。本当に欲しいものは二度と手に入らない。もうどこからも失われてしまった。だとすれば、偽りの夢に惑わされるよりも、完全な崩壊の方がずっとマシ。自分という存在はなくなり、感情のないただの道具となり果てる方がずっといい。それなのに。  炎狼が長く深く息を吐いた。 「お前のほしいものってのはなんだ? 慰めか? いたわりか? グライルとかいうお前の恋人のように、優しく抱いてでもやればいいのか?」  思ってもみない名を男が口にした。その衝撃は計り知れなかった。 「おま、えが、お前があいつの名前を口にするんじゃねぇよ!」  なんでこいつがグライルの名前を出すのだ。なんでこいつがグライルを穢すのだ。ふざけるな。高ぶった感情は偽りの思慕など一瞬で凌駕し、レイスは男に牙を剥き飛びかかっていた。

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