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2章 風を待つ熱砂 9
グライルの名前を出したとたん、レイスの目の色が変わった。
「なんで、てめぇがグライルのことを知ってんだよ!」
怒りと疑惑を抱いて、レイスがヴァルディースに掴みかかる。ヴァルディースは舌打ちした。多少体力を戻しすぎたか。だがまだ動きは鈍い。逆に絡め取り、首根をつかんで組み伏せる。
乾いた大地に衝撃を伴って無理やりに押さえつけられたレイスは、一瞬苦悶に顔を歪めたが、それでも抵抗を諦めず、牙を剥いた。ヴァルディースを本気でぶちのめそうとする目だ。
あくまで自意識の崩壊を望んだレイスに対して、ヴァルディースの中で激しく吹き荒れたのは失望と苛立ちだった。こっちの気持ちなんか知りもしないと言うのはそっちの方だろう。ふざけるなと今にも叫び出したくなった。いっそ本当に壊してやろうかとすら思った。
確かにそうしてレイスが言葉で感情をぶつけてくるのは、マシになってきている証拠でもあった。廃人ではない、人並みの感情だ。
だからと言って全て受け入れられるわけじゃない。これ以上進展しないまま振り回されっぱなしだなど癪にさわる。精霊の長としての沽券にも関わる。もう、どうにでもなれと思った。
「グライルとかいう奴のことをなんで俺が知ってるのかって? 簡単だ。お前の意識は俺と繋がってる。そいつのこともお前が垂れ流してきた。だから見た」
「どういう、ことだよ……」
レイスの顔に衝撃が走る。意識が繋がって、思考が垂れ流しだなんて予想もしていなかったに違いない。最初、この事実を本人に伝える気などなかった。レイスが無意識に深層へ押しやって忘れようとしていたことから考えても、伝えれば怒り狂うのは目に見えていた。
しかし別に、こいつに好かれようなんて最初から思ってはいない。腹立たしいだけのクソガキだ。その印象から結局変わらなかった。
こいつを生きながらえさせようと思ったのも、たいした理由じゃなかったのだ。ただ、自分が救われたかっただけに過ぎない。こいつとこいつの兄ユイスが再会することで、ファラムーアを失った過去の自分への慰めになるかと思ったからだ。
それがレイスの度重なる拒絶で思いもよらない方向へ転がってしまった。簡単な話だったはずが、レイスに引きずられ、振り回された。死のうとしかしなかったこいつに、どうにかして生きる意思を持たせたかった。それももうやめだ。
「言葉の通りだ。初恋ってヤツだろう? 青いじゃないか」
思いつく限り、皮肉を浮かべて笑う。
レイス顔にかっと朱が走った。思い出を踏みにじられたとでも思っているのか。ギリと歯嚙みする顔がますます嫌悪に歪む。激しい羞恥と憎悪が燃え上がる。
離せと、レイスがヴァルディースから逃れようと暴れ出した。ヴァルディースは当然それを許すわけもなく、絡め取った腕を逆にひねり上げる。
「俺をどう思おうがお前の勝手だがな、お前の感情が荒れ狂うたび、俺の意識を侵食してきやがる。お前の中に渦巻いている俺への怒り。手に取るようにわかるんだよ。うるさくて、むしゃくしゃする」
ヴァルディースはレイスの耳元に唇を寄せた。
「なっ、にす……っ」
「うるさい。黙ってろ。お前が俺のものだってこと、その身体によく覚えこませてやる」
音を立てて耳朶を食み、耳の裏を舐め上げる。その度にびくりと身をすくませてレイスが歓喜に身体を震わせた。
「や、めろっ」
——そんなことしたら、もっと、欲しくなる……っ
「もっと欲しくなる、か。だったら素直にそう言っていいぞ。この程度、いくらでもくれてやる」
「ひ、ぁ……っ!」
快楽がレイスの身体を支配し、抵抗する気力を奪っていく。意思など与えず、初めからこうすればよかったのだ。
意識がとろけて、腕の中でレイスが熱に浮かされていくのがわかる。それでも足掻こうとする意識は驚嘆に値するが、力はたいしたものではない。震える手足でヴァルディースを押し返そうとするのを抱きすくめ、口付ける。
口移しに魔力を与えればそれまで抵抗していたのをやめ、むしろすがりつくように、レイスは首に腕をまわしてきた。ヴァルディースからそれを搾り取ろうと深く自ら口付ける。
「っ……、っん」
鼻にかかるような甘い響き。離せ、と合間にか細く震えた声が溢れて、ヴァルディースは思わず鼻で笑った。
「離せって、お前がしがみついてきてるんだがな」
指摘してやれば悔しそうに顔を歪めた。熱のせいか、潤んだ目元に溜まった涙がこぼれ落ちていく。
このまま快楽でレイスの意思を喰らい尽くしてしまおう。そう、レイスの奥まった中へありったけの魔力を注ぎ込もうとした。
——イヤだ、怖い……っ
その時レイスの中に生まれたものに、ヴァルディースはぞっとした。恐怖だった。快楽と同じ、いや、もしかすればそれ以上の恐怖。それが突如として大きな津波のようにそれがヴァルディースに侵食し始めた。
泣きわめく子供。どれほど罵っても許しを願っても解放されない。快楽で上塗りされても、消えることのない、染み付いた恐怖。その感情の行き着く先は、逃れられない束縛への諦めだけ。ああ、これはガルグの長に無理やり支配されていた時の記憶だ。
ヴァルディースの下で押さえつける体がきつく強張り震えていた。
「っ……!」
思わず、ヴァルディースはレイスの身体を突き放した。
ぜいと息切れと動悸が激しく繰り返される。レイスのものではない。ヴァルディース自身のものだ。
「っあ……」
レイスが身を抱いて震えている。熱と快楽と恐怖と飢えに悶え苦しんで、泣いている。
——コワイ、欲しい、イヤだ、タスケテ……! ぐらいる、グライル!
グライルの名を必死で呼び、叫ぶ。
「く、んな……っ」
まただ。拒絶だ。本能に抗って拒絶する。本能を、無理やり捻じ曲げられたものだと理解してレイスは恐怖する。
——こんなの、チガウ……。
やっとヴァルディースは理解した。レイスが求めるものはわからない。けれどなぜ、レイスが本能に抗おうとするのか、それはヴァルディースにも理解できるものだった。
ガルグにおいて、散々弄ばれた子供を、自分は同じように弄ぼうとしたわけだ。眷属になった本能には誰も抗えないと勝手に思っていた。そうではなかった。
「最低だな……」
岩の陰に縮こまって震える少年の姿に、なんと声をかければいいのかわからない。ただ、切なげに熱い吐息が繰り返されるレイスの背がひどく、哀れだ。
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