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2章 風を待つ熱砂 10

「悪かった……」  ヴァルディースから遠ざかろうとして、しかし身体は身動きもままならず、岩陰に身を寄せて泣き崩れる少年の背に、ただそれだけ言葉をかけた。  中途半端に魔力を与え、飢えを煽って昂らせてしまったその身体はきっと相当辛いだろう。  返ってきたのは涙に濡れたきつい憎悪の眼差しだけだ。これでは触れることも許してはもらえそうにない。満たしてやれるのは自分だけだが、それをすることもできないのはひどく口惜しい。今さらながらに胸が痛んだ。  自分はどこで間違えた。何をどうすればよかったんだ。 「何言ったところでもう遅いだろうが、どうして欲しい? どうすればお前は満足する?」 「ざっけんな……」  消えろと、ヴァルディースに向けられるのは拒絶ばかりだ。その心の声は痛いほどに響いてくるのに、レイスの望むものは全くわからない。ヴァルディースにも読み取ることができないほど、奥底にしまいこんでいるのか? いや、自分の感情も制御できないこいつにそんな芸当ができるわけはない。だとしたら、まさか、こいつ本人も自分が望むものを理解できていないのだろうか。  確かにそれでは、何が欲しいと聞いたところで、返ってくるわけもない。ヴァルディースにはどうしようもできないわけだ。  ヴァルディースは深く嘆息した。それから、レイスに向かって手を伸ばす。  一瞬向けられた、恐怖に震える視線に気づかないように目を伏せた。空中で手を握りしめるとぱきりと何かが壊れる音がする。レイスに課した魔力供給の枷だ。  自分で魔力を外部からうまく摂取できるとは思えないが、せめてその制約を外してやる。今ならもう、体力を戻しても死ぬことは諦めただろう。そう思いたい。  ただヴァルディースの存在がこの場にある限り魔力はヴァルディースに集まる。気休めにしかならないかもしれない。それでも飢えが今より癒されれば、それに越したことはない。 「ここから出られたら、二度と会わない。その方がいいだろう」  近づけば勝手に身体が求めるのはもはやどうしようもない。根本的な解決にはならないが、おそらくお互いの存在を感知できないほどに遠ざかることが、最善の方法だろう。  もともとヴァルディース自身そこまで面倒を見るつもりもなかったのだ。フェイシスかザフォルに事情を話して預けてしまえば、あいつらも無理は言わないはずだ。 「ただ、ここから出るのがいつになるかはわからん。ザフォルの野郎がいつ扉を開くかわからんからな。それまでは、我慢してくれ」  情けないことを言っているという自覚はあった。今の時点では自分の力ではレイスにどうしてやることもできないと、暴露しているようなものだ。  せめて催促でもできる手段があればいいのだが。ザフォルの転移陣をまるで読み取ることができなかったヴァルディースでは、それも望みがない。  レイスはただ黙っていた。ヴァルディースの話を聞いているのかいないのか、視線はやはり合わせようとしない。 「俺は反対側にでも行ってる」  居心地の悪さに耐えかねて、ヴァルディースは立ち上がった。たとえこんな小さな世界の反対側に行ったとしても、中途半端な距離で遠ざかれば逆に飢えがひどくなる可能性もある。それでも顔を見ているよりはマシだろう。  ヴァルディースとしても気まずさを感じずに済む。 「なん、でだよ」  しかしそのとき聞こえた意外なか細い声に、ヴァルディースは思わず動きを止めていた。振り返ると、こちらを見ようとはしないものの、心細そうに胸をかき抱く姿がある。 ——そばに、いてほしい  漏れ聞こえたその心の声は、はたして本能がそうさせるのか、それとも本音なのか。ヴァルディースには今のところ区別がつかない。 「一緒にいればまたさっきの二の舞だ」  突き放すと今度は押し黙る。返ってこない返答にやはり立ち去ろうと歩き出せば、もう一度呼び止めるようにレイスが声を上げた。 「でも、あんたは何も、しなかった……」 ——行くなよ  まただ。飢えに切羽詰まっていると言うほどではない。ただ、漠然とした寂しさが感じ取れる。  いくら憎む相手とはいえ、たった一人でいつ襲うかもわからない飢えに耐えるよりは、気を紛らわせるにも誰かいた方がいいということなのだろうか。   一応信用はしてくれているとみていいのか。  引き止められるなら離れる理由などなく、ヴァルディースは踵を返し、元の場所に座る。ほっとしたように、レイスがかすかに息をついた。 「飢えが、どうしても辛くなったら、言え。抱いてやる」  その途端かっとレイスの中に羞恥が広がった。 ——ずるい  それに続く悔しさのようなものと、端的な罵りに、ヴァルディースは意表をつかれた。いままでの、死ね、とか消えろとかいうものとは違う。ずるい、とはどういうことだろう。ヴァルディースが抱いて、レイスに魔力を注ぎ続ければ飢えは解消する。嫌でもそうするのが最善と思ってのことだったのだが。 「ずるいって、どういうことだ?」  思わず訪ねたら、目の前レイスが大きく慌てふためいて岩の陰に身を埋めようとする。 「勝手に、読むな!」  耳たぶまで真っ赤になって威嚇するように睨みつけてくるが、当然迫力はない。心はさっきより激しい羞恥心で爆発寸前だ。  読むなと言われても勝手に聞こえてくるのだが、そんなことを言えばレイスはますます怒ってしまうのだろうか。  よくわからない。  まあ、考えても人間の、特にこのレイスの考えることなどヴァルディースにはどうやら分かるわけもないらしいし、それ以上レイスが答えるとも思えない。  奇妙な沈黙が降りる中、することもないと諦めて、ヴァルディースはもう一度眠ることを選んだ。

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