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3章 忍び寄る闇の足音 1
ガルグの世界は地下帝国とも呼ばれる。光の射す余地などない闇に閉ざされた世界だ。古の時代に大地を穿って作られた。世界の多くの者はそれがどこに存在するか知らない。しかし世界史上、常にその存在を人間どもは恐れてきた。
そもそもガルグとは何か。人間どもが破壊者と呼ぶ始祖アルスが、古の時代に世界を消滅させるため、己の手足とするべく生み出した者たちだ。人の心の闇を糧とする生き物。魔力を糧とする精霊とは似て非なる存在である。
求めるのは世界の破滅。そしてそれを叶えるために、人間によって封じられた始祖アルスを現世に蘇らせ、創世の聖戦と人間どもに呼ばれた忌まわしい戦いの再戦を挑み、人間どもに勝利すること。
その悲願のため、何千年もの間屈辱に耐え、雌伏してきた。しかしそれもあとわずかで終わる。ようやく念願の終幕が見えたと思った矢先のことだった。
「ザフォル、よくもガルグを裏切るような真似を」
激しい憎悪が、闇の黒炎と化して燃え上がる。行き場の無い炎は壁を飾る黒曜を粉々に粉砕した。ぎりりときつく歯噛みして歪んだ顔をその人が見せたことなど、長年側で仕えてきたロゴスですら、今までにほとんど覚えがなかった。
「長のお怒りはごもっともです」
恭しく周囲の者は跪く。多くのガルグの民はその怒りに震えてもなお妖しく輝く美しさに魅了される。
我らが主君、始祖アルスが最初に生み出した使徒。ガルグの長たるヴァシル・ガルグが幹部を呼び集めたのは先刻のことだ。
ガルグの最奥。神殿と呼ばれる広間の、天井を覆う始祖アルスの石像の下、長の他5名の幹部のうち4名が集った。
ヴァシルの対として生み出されたはずのザフォルが、先日複数の研究所を破壊し、逃亡した。今日顔を見せない幹部の一人は、その際にザフォルと対峙し、身動きもままならないほど損傷したという。
「被害をご報告いたします」
スイッタがもっとも下座で立ち上がった。
「ザフォル・ジェータが破壊したガルグの研究所は5つ。どれもかつてザフォルが研究に関わっていた部門となります。この襲撃により4名の同志が消滅し、膨大なデータが消失いたしました。しかし、同志スウェラ個人が保管していたデータは残されており、主要データに関しましては復元は可能と見込まれます」
「スウェラ女史の修復状況は?」
「完全復旧までにはまだ時間を要することが見込まれますが、思考は正常であり、すでに修復ポットの中から残った配下にザフォル追跡の命を下しています。また、我らにも同様にザフォル追跡に加わるように、との要請がありました」
ロゴスの対面で大柄な男が鼻を鳴らし、笑う。
「もちろん追跡に加わることに異論はない。俺は以前からあの男にはガルグに関わる資格などないと思っていた。そもそも我が君はなぜあんな者を、それも長の対として生み出されたのか」
さすがにその粗雑な物言いはロゴスの癇に障った。
「お言葉が過ぎますな、エイドス卿。それは我が君への冒涜ですぞ。いかにザフォルが同志として不適格な行動をしようと、我が君の御意志には違いないのです」
「またか説教か、ロゴス卿。俺は本当のことを言ったまでだぞ」
卓を挟んでにらみ合う。もともと、ロゴスはエイドスと反りが合わない。武勇一辺倒で後先を考えず、派手好きのエイドスは、ロゴスとはまるで正反対の性質を持っている。この数千年の雌伏の間でも、問題が起きればほとんど奴の管轄だったと言ってもいい。
しかしロゴスとしてもザフォルを以前から危険視していたことは確かだった。エイドスの行動は問題は多くとも一族の行動の範疇を越えない。ザフォルは違う。
「ただ、今になってザフォルが急に動き始めたということが気にかかりますな」
「そんなもの、あやつの気分次第に決まっておるわ」
エイドスは軽んずるが、そんな読みでは話にならない。ザフォルの行動はいつも気まぐれで飄々としているが、この世界において最高の知識と頭脳を持っている存在だという事実を忘れてはいけない。ザフォルがいなければ、そもそも始祖アルスの再臨計画は始動すらしなかっただろう。
「もう、なんでもいいよ。で、行くの? 行かないの? ボクこんな会議飽きちゃった。行くんならさっさとザフォルのおっさんなぶり殺しに行こうよ」
スイッタの隣で、子供の姿をしたクレイリスが、幼さ特有の残虐性を露わにほくそ笑む。
「クレイリス様、少々お待ちください。一つ問題がございます」
それを傍から止めたのは説明を進めるスイッタだった。
「今回の襲撃で多数の検体の逃亡も確認されております。多くは放置しても問題はないのですが、一体だけ、炎狼ヴァルディースを封じた検体が行方不明となっております。これは放置するわけにはいかないのではないかと」
周りの者たちが一斉に渋い顔になった。
「なるほど、炎精の長か。野放しにしておくには惜しい個体だな」
四属性の長を人間の器に封じ込め、支配するという実験の唯一の成功例だ。その膨大な魔力は炎の一属性に限ればザフォルや長ヴァシルの存在にも匹敵する。しかしそれだけに制御は極めて困難だ。最初にヴァルディースを捕獲した際も、ヴァシルとザフォルの二人がかりだったという。
人間の検体に封じ込めて以後も、暴走時には幹部クラスでなければ制御ができなかった。ガルグの管理を離れて暴走でもすれば、厄介なことになるだろう。
「誰かがそちらへ行くしかないということですかな」
見渡す面々の表情は、誰もが厄介ごとを忌避しているように見えた。当然だ。今この状況で、ザフォル追撃という宴に参加したがる者の方が多いだろう。唯一、表情を変えないのはスイッタだが、目が合うとおもむろに視線を伏せた。黒髪黒衣のこの青年は、幹部の席についてはいるが、炎狼相手では能力的な意味で荷が重いだろう。
「相手がザフォルであるなら、私はそちらへ出ざるを得ないでしょう」
今まで口を閉ざしていたヴァシルが、ロゴスを見た。
「では、炎狼は私めが引き受けるしかないのでしょうな」
損な役回りだと言えるだろう。だが、そういう物事に対処することが、自分の役割だと、ロゴスは思っていた。
「炎狼はザフォルによって時空間世界に匿われているようです。不本意ですが、アルスにも動いてもらうしかありません」
その名に、ロゴスの胸に不穏な予感がよぎった。
時空を渡る術を持つ者はこの世に限られている。時空間世界を発見したのはそもそも始祖アルスだった。
始祖と同じ名を持つ、つい最近生まれたばかりの少年こそが、未覚醒ではあるが始祖アルスの魂を持つ者だ。
「さすがのザフォルも、我が君が動かれるとは予想もしていないのでしょう。長が自らザフォルを追い詰めなさるのであれば、炎狼に救援もできますまい。しかし油断は禁物。この命に代えましても、我が君をお守りし、炎狼を連れ戻してご覧にいれましょう」
ロゴスはヴァシルに恭しく跪いた。
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