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3章 忍び寄る闇の足音 2
ヴァルディース、と軽やかに笑い、呼びかけてくれる声が好きだった。緑がかった長い黒髪を風にたなびかせながら、とん、と身軽に宙を舞う。その周りにはいつも二匹の狼が彼女を守るように侍っていた。
狼の姿をした風の眷属は彼女の象徴だ。炎狼のヴァルディースとは違って、白い霧の毛並みをまとっている。空を駆け、時に風の中に溶け込んで、ファラムーアにぴたりと寄り添っていた。
ただ、同じ狼であるのに、ヴァルディースとはすこぶる仲が悪かった。手を出せばいつも噛みつかれ、ファラムーアに不用意に近づこうとすれば吠えて追いかけ回された。もしかしたら、自分の縄張りに侵入する敵だとみなされていたのかもしれない。
そんなヴァルディースと二匹の白狼のやり取りを、ファラムーアはいつも楽しげに笑いながら見ていた。二匹との確執も、ファラムーアは兄弟喧嘩か何かのようなものだと思っていた節がある。
結局そんなファラムーアにいつも呆れさせられて、ヴァルディースは二匹の白狼に負けていた。草原を爽やかな風にのって駆け、舞うファラムーアと二匹を、いつも羨ましく思って地上から見上げていた。
いつまでも共にありたいとヴァルディースは思っていた。けれど、ファラムーアは人間と恋に落ち、自分の持つ魔力を捨てて人と生きることを選んだ。それから後、あの眷属の二匹がどうしたのかを、ヴァルディースは知らない。
精霊を巻き込んだ世界の戦乱の後、二匹の姿を他の精霊たちも見てはいないという。まさか、ファラムーアと共に消滅の道を選んだのか。いや、そんなことはありえない。精霊の長と眷属の契約はそういうものではないのだ。きっとファラムーアだって許さない。
ならばどこへ。
そう意識を巡らせて、ヴァルディースは目を覚ました。今の記憶はどうやらまどろんでいる間に見た夢だったらしい。普段眠るという行為を滅多にとらないこともあるが、精霊は夢など見ない。珍しいこともあるものだ。ファラムーアとその眷属の夢だなんて。
頭を振って、ヴァルディースはそれを忘れようと思った。ファラムーアのことは、あまり思い出したくない。
それよりレイスはどうしただろう。
一眠りと言っても、今度はそう時間は経たなかった。魔力供給の経路を解放したのだから飢えによる闇の支配はもうないだろうと思う。それに、ヴァルディースが獣姿に戻って意識を閉じると、少し周囲の魔力消耗は抑えられる。その分レイスに回る量が増えたのではないかと思ったのだが。
レイスの様子を見ようと身体を起こして首を巡らせて、ふと違和感を覚えた。
ヴァルディースはその状況に思わずきょとんとした。懐に、いつの間にかレイスが身を縮めてうずくまっているのだ。
目尻には涙の跡を残して、子供のようにぎゅっとヴァルディースの毛並みを掴んで放さない。時折、不安に掻き立てられるように震えながらしがみついてくる。
ヴァルディースが眠っている間に、飢えに耐え切れずすり寄ってきたのかと思ったが、そうではなかった。
——寂しい……。
一言、強く聞こえた意識が、ヴァルディースの胸を締め付けた。
夢でも見ているのか、断片的に流れ込んでくる意識では、家族や二匹の子狼たちと共に暮らしていた。 幸せだが、だからこそ今のレイスにしてみれば切ない記憶だ。
自分があんな夢を見たのも、このせいだったのか。
昔、親を失った子狼をレイスはユイスと二人で拾って帰って、育てたのだ。ユイスとは違ってレイスにはなかなか懐かない二匹を、毎晩二人で抱きしめ餌をやった。それがもとで、二人と二匹は兄弟のように仲良くなった。
ぎゅっとしがみついてくるのは、記憶の中の子狼を懐かしがっているのかもしれない。
レイスの求めるものが今までよくわからなかったが、なんとなくその行動からヴァルディースは理解した。
おそらく、飢えよりもヴァルディースが眠ってしまって、一人覚醒していることが辛かったのだろう。握り締められた手が哀れだった。
尻尾で包み込んで、抱き寄せる。すると少しだけ流れ込む魔力のおかげか、それとも違うもののせいなのか、レイスの震えが落ち着く。
獣姿のヴァルディースに寄り添うようにして眠るレイスの寝顔は、それまでと比べ、だいぶ穏やかになっていた。
こいつに必要なのは苦痛を忘れさせるような快楽でも、寄り添ってくれる恋人でもなんでもない。ただ、家族が恋しいのだ。幼子が親に寄り添うように、温かく庇護してくれる存在、温もりを与えてくれる存在。そういうものに、ひどく飢えている。
それは同族がヴァルディースを慕い、ヴァルディースが同族を庇護する本能とよく似ている。だがそれだけに、レイスは強制的刷り込まれたヴァルディースへの思慕を、偽物だというのかもしれない。レイスにとってヴァルディースは他人でしかないのだ。
それでももしレイスがヴァルディースを求めるなら、ヴァルディースは拒絶しないだろう。飼い犬扱いはさすがに勘弁してほしいが、寄り添うくらいならわけもない。ヴァルディースにとって精霊の本能は疑いようのない親しさだ。このまま共に添い寝でもしてやろうかと思ったのだが、身じろぎした拍子に、ぱちりと相手が目を覚ました。
目が合って、二、三度の瞬き。真っ赤になって言語とも言えない叫び声を発し、慌てふためいて這い出していくレイスの姿に、こっちが面食らってしまう。
岩の陰に隠れて一向に顔を見せようとはせず、結局また元どおりの位置関係だ。
しかし呆然としていると、岩の陰からレイスがちらりとヴァルディースの様子を探るように顔を出す。そしてまだヴァルディースがレイスを見ていると気付くと、居心地悪そうに岩の陰に身を隠す。
思わず、ヴァルディースは笑っていた。
「素直じゃないな」
爆笑すると、岩陰からレイスがこちらを睨みつけてくる。熱っぽく潤んだ瞳に、赤い顔では迫力がないどころか、むしろ愛らしくすら思える。
「俺の懐は居心地いいだろう?」
ぱすぱすと尻尾を振ってここに来いと示してやると、恨めしそうに睨みつける視線が返ってきた。心の中ではくそったれ、とか、ふざけんな、とか、ヴァルディースに対する罵りばかりが響いている。その傍ら欲しいとか、触りたい、とか、一緒にいたいとか、そういう本能的な欲求も確かに存在している。
その激しい矛盾は呆れるほど理解不能だが、それが逆にヴァルディースにはだんだん面白くなっていた。強く押せばどうしようもない亀裂を生みかねないが、じわじわと手を差し伸べれば、いつか取ってくれるのではないだろうか。それこそ、レイスたちが拾って育てた子狼のように。
「けど、こいつはどっちかっていうとイヌ科よりはネコ科だな」
野良犬は一度懐けば忠誠心旺盛だが、レイスはそういう感じはしない。懐いてもきっとすぐにそっぽを向くだろう。
ヴァルディース自身面倒見はあまりよくはないし、面倒ごとも嫌いな野良犬気質だったのだが、懐かない野良を手懐ける難題に取り組むのは、暇を持て余した身にとってはそんなに悪くはないかと思える程度には、いつの間にかこの面倒な人間を気に入っていることに、ヴァルディースは気がついた。
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