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3章 忍び寄る闇の足音 4
ロゴスは最下層へ向かっていた。ガルグの地下世界は、何層にも分かれている。最下層は主に人間の奴隷を飼っておくための場所だ。むき出しの岩盤の上に、みすぼらしい小屋が立ち並んでいる。
好き好んでロゴスはこんな場所に来たいとは思わない。人間がガルグの一族を見る目はいつも澱んでいて、中には目にするたびに怯えて逃げ去っていく者もいる。ガルグにとって恐怖や不安は力の源であり、それを得るために好んで虐げる者も多いが、ロゴスはそのようなことをしようとは思わなかった。
別に人間を憐れむからではない。そんな奇特な趣味を持つのはザフォルやそれに感化されたごく一部の者だけでいい。
あえて例えるのなら、ロゴスはこう言うだろう。
「ゴキブリの巣に好んで足を踏み入れたいと思うかね?」
ロゴスにとって人間というものは、そういうものでしかなかった。
しかし、これからロゴスが会う人物は、ロゴスと同じ価値観を持ち合わせているわけではない。
ロゴスはかの人物のそうした性癖を嘆かわしいと思っているのだが、ガルグの長ヴァシルは今のところ好きなようにさせている。確かに、いつ何がどのような効果をかの人物に与えるかもわからず、かの人物の覚醒を何より待ち望んでいるのは我々である限り、あらゆる可能性を排除しないほうがいいだろうとの結論は理解できないわけではない。
とはいえ、この陰鬱とした空間に不釣り合いな、幼い子供たちのはしゃぐ声に、ロゴスは頭痛に近いものを覚えた。
広場には、数人の子供達が遊んでいた。そしてそれを遠くから見つめる一人の少年がいた。薄汚れた衣服は他の子供と大差ない。しかし子供達は彼を避けるように、視線すら向けようとしない。人間で言うなれば12歳前後の姿で、無造作に伸びた銀の髪ごと膝を抱えながら、濃い紫色の瞳を子供達に向けていた。
ロゴスが会いに来たのはその少年だった。広場を横切ってロゴスが少年のもとへ向かうことに気づいた子供達は、一斉に静まりかえって道を開ける。逃げるようなその行動に、一人だけ遅れて倒れた子供がいた。ちょうどロゴスの通る道の途上だ。
怯えてロゴスを見上げる視線とかち合う。震える邪魔な身体にロゴスは不快さしか感じななかった。避ける必要性も感じず、無造作に子供の頭を踏みつけると、足下でぐしゃりと頭蓋が割れて弾ける。
周囲から悲鳴が上がった。人間の憎しみや恐怖がガルグの民を高揚させるのはロゴスも同じだが、ロゴスにとってはこのような虫ケラから与えられるものはどうでもいい。頭を失った子供を踏み越えて、ロゴスは目的の少年の前に進んだ。
少年は表情を変えることなく、子供の残骸をみつめていた。
「結局この子もぼくと遊んでくれなかったなぁ」
ぽつりと呟いたのは他の子供達のような恐怖や怒りではなく、落胆だった。
「ロゴス、人間は弱いんですから。弱い者イジメはダメですよ。兄さんがそう言ってました」
傍らに立ったロゴスを見上げ、ひどく不満そうに訴える。ロゴスは最後に付け加えられた呼称について、ため息をついた。
「人間の実験体風情を兄と呼ぶのはおよしくださいと、何度も申し上げたはずですが、我が君」
少年の前に跪き、こうべを垂れる。ロゴスがこの世で最上の敬意を示す相手がこの少年だ。始祖アルスの再臨体。今はまだ完全に覚醒したわけではないが、その能力の片鱗はすでにガルグの長ヴァシルに次ぐ。
完全な復活を遂げれば、幾たびもの戦乱によって弱体化し、ガルグが裏から徐々に支配してきた人間の世界など、たやすく破滅に追い込むことができよう。
しかし、先のザフォルの反逆行為によってその前進速度は著しく低下した。今は辛うじて残されたデータから一刻も早く研究を再開し、ザフォルに報復しなければいけない。
「今日は我が君にお願いがあって参りました」
「ザフォル・ジェータの追撃に行くんですか?」
先程、エイドスの配下の者たちが戦闘用奴隷の一団を引き連れて意気揚々と出て行った。それをアルスも目にしたのだろう。
「ザフォルめのことなど、我が君のお手を煩わせるほどのものではございません。長ヴァシルが責任を持って対処いたします」
「じゃあ、ぼくを指名って……。もしかしてレイ兄さんのことですか?」
ぱっと、アルスが表情を輝かせたことに、ロゴスは懸念した。炎狼ヴァルディースの被験体だった人間の監視に、以前は違う者をつけていた。けれどそれが役割を果たせなくなり、ちょうど暇を持て余していたアルスが自ら進んで名乗り出た。しかしロゴスはそれが良いこととは思えなかった。アルスは被験体の人間に懐き始め、それを「兄」だなどと呼び始めた。
「我が君、あなた様はガルグを、ひいては世界を導くお方なのです。軽々しく人間風情を「兄」だなどと……」
「でもぼくは兄さんより年下なんです。年上の男の人は兄さんと呼ぶのでしょう? あ、それともロゴスも兄さんって呼んでもらいたかったんですか? でもロゴスの見た目ではどちらかというとお父さん、いえ、おじいさんですね」
機嫌よくニコニコと笑う主人に、またもやため息がこぼれた。人間などという矮小な生き物と接しているうちに、明らかにアルスの人格形成に悪影響が出ている。長ヴァシルはアルスの言動、行動の全てにおいて否定などしないため、この状況が放置されているが、やはり強制的にでも人間から引き離し、早急にガルグの一族による適切な環境を整えるべきではないのか。
「レイ兄さんは今どうしているんでしょうねぇ。暴走して封印してしまってからとてもつまらなかったんですよ。なんで、自分の兄弟を殺した程度で、あんな風に壊れてしまったんでしょう? ここでも同じようなことはいくらでもあったのに。あ、でも凄かったんですよ。その時のレイ兄さんって。炎狼の魔力がぶあーってなってて、さすがにぼくでも消し炭にされちゃうかと思いました。炎狼ってすごいんですねぇ」
ロゴスの心配をよそに、小さな体を大きく広げて、アルスは炎狼を封印した時のことを語り始める。よほどその時のことが楽しかったのだろう。ガルグの幹部でも手をこまねいた炎狼の封印にまつわるアルスの激闘は、ガルグの中でも語り草だ。結果として炎狼を封印せざるをえなかったが、アルスの復活を心から実感した者も多いはずだ。
ロゴスとしても闘いに興奮する姿は好ましく感じるところだった。
「すぐにでももう一度炎狼とまみえることになるでしょう。その時はまた我が君のお手を煩わせることになるやも知れません」
早く遊んで欲しいなぁと、アルスは見た目同様の子供のように、ぴょこんと跳ねて飛び起きた。
かつて、人間に常に冷酷な視線を投げかけていた始祖アルスの姿に、ロゴスは想いを馳せた。同じ魂を持っていても、今のアルスは随分と異なる。
まだ完全な覚醒前であるのだから仕方ない。始祖としてのあるべき姿を説いたところで、ロゴスが何を言っても聞き入れることはないだろう。
今回のザフォルと炎狼の騒動を治めおおせたなら、その時こそアルスも自覚してくれるかもしれない。始祖としての闘いに必要なものは、障害を屠る冷酷さ。それだけであるということを。
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