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3章 忍び寄る闇の足音 5

 熱風と竜巻を伴った砂嵐が近づいてくることは、レイスにも見えていた。岩陰に寄っているだけではさすがに危険だろう。しかしまともに身動きもできない身では、逃れられそうにない。それに、この小さな世界でどこに逃げればいいのだろう。いっそ、あの砂嵐に埋もれて死んでしまえたら楽だろうに。そうは思うものの、以前のような切迫した死への願望や、消えたいという思いは薄れていた。たぶん、あの炎狼が原因だ。 「ずるいんだよ……」  レイスはガルグの監視が変わったのだと思って、自分の中に生まれた感情の変化を否定しようとした。だが実際は、ヴァルディースとガルグの間に関わりはないのだという。  確かに、ガルグと関わりはなくてもレイスの意思は捻じ曲げられて、ヴァルディースに魅了されてしまう。ただ、ヴァルディースはそれで無理矢理レイスをどうこうしようというわけでもなく、強引に接してくる時はあるものの、レイスを思いやった態度をとったりもする。それがレイスを錯覚させる。自分が本能や義務を越えたところで、大切にされているのかもしれない、などと。そう、安心してしまうのだ。  ほっとする、なんてガルグに来てからほとんど感じたことがなかったから、余計にそう思ってしまうのかもしれない。  相手にしてみればこうして考えていることも全部筒抜けで、レイスの心境を面白がっているだけなのかもしれないが。  もしくは心を読むからこそ、噓偽りでレイスを欺いているだけなのかもしれない。レイスからは相手の心などわかるわけもない。 「それでも……」  そうだとしても構わない。そばにいてほしい。これはたぶん本能だのなんだの関係なく、レイスの本心だ。誰かがそばにいてくれるなら、それだけで自分は犯した罪への恐怖を、忘れていられる。許されているような気になる。本当ならいけないことなのだとわかっているのだが。  母親は、殺されてもレイスのことを心配していた。ユイスはレイスのことを一度は信じられず逃げ出したが、最後の最後にはたぶんレイスを信じて許してくれたのではないだろうか。そういう確信がある。ずっと離ればなれだったと言ってもやはり、自分たちは唯一無二の存在だ。そしてだからこそ余計に辛いのだ。怖いのだ。  自分は、この世で一番失ってはいけない人たちを、自分の手で壊してしまった。自分を一番愛してくれた人たちなのに。絶対に許されてはいけないことを自分はしてしまった。  膝を抱えて震える。こみ上げてくるのは涙ではなく、ただひたすら悔しいという思いだ。ガルグに抗うことすらできなかった自分の、小ささと愚かさに。 「そう思いつめるな」  すぐ近くで聞こえた声にはっとした。いつの間にか炎の狼がすぐそばにいた。 「砂嵐がくる。我慢しろ」  そう言って、そいつは岩と自分の体でレイスを囲むように、レイスの前に伏せた。目を合わせることなく、じっと砂嵐の影を見つめる。砂嵐から体でレイスを守ろうということなのだろう。すぐそばで伝わってくる温もりがレイスを狂わせた。  切ない。今考えていたことも筒抜けで、だから側にきてくれたのだろうかと勘違いする。ぎゅっと、その背にしがみついて泣きわめきたくなる。  実際には炎狼の義務とかいうやつで、砂嵐の危険を回避しようとしただけ。他意なんてないだろう。レイスが嬉しいと思うのも、精霊の本能的な思慕とかいうものだ。全てまやかしだ。自分は惹かれているわけではない。自分が誰かに心から愛されることも心から誰かを愛することももう二度とありえはしない。許されていいわけがない。そのくせ側にはいて欲しいなんて、随分と都合のいい考えだ。  自嘲して身をよじって、なるべく炎狼から距離をとる。けれど砂嵐が迫り、ますます激しく風が唸る。空が砂塵に覆われ、真っ暗な闇が訪れる。  レイスが生まれた草原のはるか先にも砂漠があって、これより弱いが時折村まで砂嵐が襲うことがあった。そういう時、村の大人たちは子供に向かって言ったものだ。風の女神を怒らせたら、砂嵐に連れて行かれてしまう。と。  自分たちを連れ出したのは砂嵐ではなかったが、どこかで風の女神を怒らせていたのだろうか。自分たち草原に住むフォルマンの民の守り神、風のファラムーアを。 「フォルマンの守り神?」  不意にヴァルディースがずい、と顔を近づけてきてぎょっとした。 「ファラムーアがか?」  問いかけられてとっさに応えようとして、顔に吹きつけられた砂嵐にむせ返る。巻き上げられた砂と風が目から口からレイスを襲う。伏せていろとヴァルディースに覆い被さられ、激しい暴風にうずくまって耐えた。  ヴァルディースが覆いかぶさって触れ合ったところから心地よい温もりがレイスに伝わってくる。じんわりと体に力が染み渡って、ずっとこうしていたい、などと愚かにも考えてしまう。本能に抗わず素直にこの狼に身も心も捧げてしまった方が幸せだろうか。でもそれはまるでガルグの精神支配のようで、恐ろしい。  考えるのをやめようと、レイスはさっきヴァルディースが口にした名前を思い出した。  なぜ、ヴァルディースがファラムーアを知っていたのだろう。ファラムーアを祀るのはフォルマンくらいだ。他の地域だと、大きなところでは北大陸の二大国メルディエル女王国が生命の女神シーヴァネアを、グライディル帝国が創造の神フェルディナンを祀っているという。フォルマンの大地がある西大陸でも、隣のバラグラン王国ではシーヴァネアとフェルディナンを崇める者たちが半々だという話だ。  そういうことはガルグで知った。だからヴァルディースが風の女神を知っていることが意外だった。いや、でも炎狼だからこそ知っているのだろうか。ヴァルディースが四属性の長の一人だと言うのだから、風の女神も実はそういった存在だったのかもしれない。  もう一度尋ねてみようかと思ったが、ヴァルディースは嵐の空をにらみつけたまま動かなかった。獣が、敵に警戒するときと同じように、耳をピンと立たせている。  暴風はますます勢いを強くしているが、いつの間にか炎狼と岩の僅かな隙間にはそよ風程度の風しか流れていない。ヴァルディースの周囲に炎が渦巻いていて、それが押し寄せる風の流れを捻じ曲げている。 「まずいな」  空を見上げていたヴァルディースが、その時呻いた。

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